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ボクを飼ってみないか?!  作者: 御HeSummer3
第2章

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翠先輩はニヤつく


 土曜日の中央常磐動物園は、開園して一時間もしないうちに人が増え始めていた。


 九月も半ばを過ぎたとはいえ、日向にはまだ夏の名残がある。園路を歩く家族連れの半分くらいは日傘か帽子を使い、売店前では朝からソフトクリームを持った子どもが走っていた。


 俺は猛禽類エリアのバックヤードで、玄の食べ残しを確認していた。


 昨日と比べて量に大きな差はない。


 羽の状態も問題なし。


 止まり木へ移る時の動きも普段通り。


 記録用紙へ時刻と様子を書き込み、鷹野さんへ渡す。


「高瀬、そっち終わったら冷凍庫の在庫見といてくれ」

「分かりました」

「来週の分までな」

「はい」


 鷹野さんはそれだけ言って、別の個体の様子を見に行った。


 俺も作業へ戻る。


 動物園にいる時は、大学にいる時より時間が早い。


 やることが決まっているからかもしれない。


 清掃。


 餌の準備。


 記録。


 器具の確認。


 職員さんから頼まれた雑用。


 学生の俺たちに任される範囲は限られているけれど、その範囲だけでも手を止めている暇はあまりなかった。


 午前十時四十分。


 冷凍庫の在庫を数え終えたところで、鷹野さんからネコ科エリアへ備品を届けるよう頼まれた。


 折り畳まれた麻袋を抱えてバックヤードを抜ける。


 ネコ科エリアまでは少し歩く。


 途中で一般園路を横切ると、ちょうどシラユキの展示場前に人が集まっていた。


 白い身体が岩場の陰をゆっくり歩いている。


 その向こう。


 来園者からは見えない作業通路に、翠先輩がいた。


 髪は後ろで簡単にまとめ、作業着の袖を肘まで上げている。


 手には記録用のボード。


 何かを書いてから顔を上げ、シラユキを見る。


 また書く。


 榊原さんが隣から何か言う。


 翠先輩は頷き、今度は少し場所を移した。


 大学で味噌汁を飲みながら「悠人の家で寝ていた」と平然と言っていた人と同一人物には、あまり見えない。


 俺は関係者用の扉から中へ入った。


「お疲れさまです」

「あ、高瀬くん。お疲れ」


 榊原さんが先に気づいた。


「鷹野さんからです。これ、こっちで使うって」

「助かる。そこ置いといて」

「はい」


 指定された棚へ麻袋を置く。


「悠人」


 呼ばれて振り向く。


 翠先輩がいた。


「お疲れさまです、翠先輩」

「うん。お疲れさま」


 目が合う。


「…………」


 翠先輩の口元が、じわっと持ち上がった。


 何かを思い出したように頬まで緩んでいく。


「むふん」

「…………」


 何だ。


 俺は一度、翠先輩から視線を外した。


 榊原さんはシラユキを見ている。


 もう一度見る。


 今度は何でもない顔をしていた。


 ただ、目だけが妙に楽しそうだった。


「何ですか」

「何が?」

「いや……」


 知らないふりまでしている。


 俺は少しだけ眉を寄せた。


「今日、機嫌いいですね」

「いつもいいぞ」

「そうでしたっけ」

「失礼だな」


 翠先輩はボードへ視線を戻した。


 それ以上は何もない。


 俺も仕事があるので、その場を離れようとした。


「あ、高瀬くん」

「はい」


 榊原さんに呼び止められる。


「そっちから見て、シラユキの歩き方どう見える?」


 俺は展示場を見る。


 シラユキは岩場を抜け、展示場の奥へ向かっていた。


 数日前に見た時より、歩調は一定に見える。


「前に見た時よりは普通だと思います。ただ、俺は毎日見てないので」

「だよね。野々宮さんも同じ見立て」


 翠先輩を見る。


「昨日までは、右へ曲がる時に一回だけ歩幅が狭くなることがあったんだ」

「今日は?」

「今のところ出ていない。朝から三回見ているけど、全部普通だな」

「じゃあ戻ったんですかね」

「まだ分からない」


 翠先輩は即答した。


 ボードの端を指で押さえながら、展示場を見る。


「出ていないだけかもしれないから、今日はもう少し見る。昨日も朝は普通だったんだ」


 さっきまでの妙な顔はどこかへ消えていた。


 シラユキが足を止める。


 鼻先を少し上げる。


 翠先輩も動かない。


 数秒。


 シラユキがまた歩き出す。


 翠先輩の視線が後肢を追う。


「……うん」

「どうです?」

「今は大丈夫そう」


 榊原さんも頷いた。


「午後も同じところ見ようか」

「はい」


 翠先輩が記録へ何か書き足す。


 俺はその手元を少し見てから、時計を確認した。


「じゃあ、俺戻ります」

「うん」

「お疲れさまです」


 踵を返す。


「悠人」

「はい?」


 振り返った。


 また目が合った。


 今度は声を出さなかった。


 ただ、翠先輩の頬がふにゃっと緩んだ。


 明らかに俺を見て笑っている。


「だから何なんですか、その顔」


 榊原さんが振り返った。


「顔?」

「何でもないです」

「何でもないぞ」


 二人で答える。


 榊原さんは少しだけ首を傾げたものの、すぐシラユキへ視線を戻した。


 俺は翠先輩を見る。


 もう仕事中の顔に戻っている。


「……仕事してくださいね」

「しているだろう」

「してますけど」

「悠人より先輩だからな」

「知ってますよ」

「よろしい」


 今度こそ戻る。


 背中へ視線を感じた気がしたけれど、振り返らなかった。


 昼休憩は職員用の休憩室で取った。


 午前の作業が少し押したせいで、俺が入った時には十二時半を過ぎていた。


 テーブルには何人か職員がいて、翠先輩も端の席で弁当を食べている。


「お疲れ」

「お疲れさまです」


 冷蔵庫から自分の弁当を出す。


 今日は朝作ったものだ。


 ご飯。


 昨夜の残りの生姜焼き。


 卵焼き。


 冷凍のブロッコリー。


 適当に温め、翠先輩の向かいへ座った。


「ちゃんと作ってきたんだな」

「作りましたよ」

「偉い」

「どうも」

「ボクは買った」

「見れば分かります」


 翠先輩の前にはコンビニのおにぎりとサラダ、それからカップのスープが置かれている。


「朝から作るのは面倒だからな」

「昨日の夜に作ればいいでしょう」

「昨日の夜も面倒だった」

「でしょうね」

「でも野菜はある」

「サラダ買っただけじゃないですか」

「ボクがお金を払い、ここまで運んだ」

「功績みたいに言わないでください」


 向かいから小さく笑い声がした。


 いつもの翠先輩だった。


 俺も生姜焼きを食べる。


 少し濃い。


 弁当ならこのくらいでいいかもしれない。


「それ、美味しそうだな」

「食べます?」

「いいのか?」

「一枚なら」


 箸で一枚取り、翠先輩のサラダの端へ置く。


「ありがとう」


 翠先輩が食べる。


 少し噛んで。


「美味しい」

「それならよかったです」

「悠人」

「はい」


 顔を上げる。


 翠先輩は何も言わなかった。


 ただ目が合った途端、口元を押さえるように箸を持った手を寄せた。


「……何ですか」

「何も」

「今、笑ったでしょう」

「生姜焼きが美味しかった」

「絶対違うでしょう」

「美味しかったのは本当だぞ」


 それ以上追及しても答えそうにない。


 俺は弁当へ戻った。


 少し離れた席では、職員さんたちが午後の作業について話している。


 窓の外から来園者の声が聞こえる。


 いつもの休憩室だった。


 ただ、今日の翠先輩だけが少しおかしい。


 午後はほとんど顔を合わせなかった。


 俺は猛禽類エリアへ戻り、清掃と記録を手伝った。


 玄は午後になって少し高い位置へ移り、そこで長いこと羽繕いをしていた。


 鷹野さんと一緒に足元の状態を確認し、午前中の記録と照らし合わせる。


 気づけば閉園時刻が近づいていた。


 来園者が減る。


 園内放送が流れる。


 夕方になると、昼間とは違う音が聞こえるようになる。


 掃除用具がぶつかる音。


 扉の開閉。


 遠くで職員同士が呼び合う声。


 俺は使った器具を戻し、最後の記録を確認した。


「高瀬、今日はもう上がっていいぞ」


 鷹野さんが言った。


「分かりました。お疲れさまでした」

「お疲れ」


 着替えて職員通用口へ向かう。


 外へ出ると、まだ空は明るかった。


 日中よりだいぶ涼しい。


 スマホを確認する。


 連絡はない。


 駅へ向かおうとしたところで、


「悠人」


 後ろから声がした。


 振り返る。


 翠先輩が小走りでこちらへ来る。


 作業着から私服へ戻り、髪も下ろしていた。


「今終わったんですか?」

「うん」

「シラユキどうでした?」

「午後も見たけど、今日は出なかった。榊原さんと話して、明日も同じところを見る」

「そうですか」

「玄は?」

「いつも通りです。餌も問題なし」

「ならよかった」


 並んで歩き出す。


 動物園の正門から駅までは少し距離がある。


 土産袋を持った家族連れを追い越し、横断歩道を渡る。


 翠先輩は今日あったことをぽつぽつ話した。


 シラユキが昼過ぎに珍しい場所で寝ていたこと。


 榊原さんが新しい道具を注文するらしいこと。


 休憩室に置いてあった菓子を一つ食べ損ねたこと。


 最後の話だけ妙に悔しそうだった。


「また買えばいいじゃないですか」

「あれは貰い物だぞ」

「じゃあ諦めてください」

「悠人は冷たいな」

「お菓子一個ですよ」

「食べ物の恨みは怖いんだぞ」

「誰を恨むんです?」

「最後の一個を食べた人」

「逆恨みじゃないですか」


 翠先輩が笑う。


 信号に引っかかった。


 二人で止まる。


 俺は何となく隣を見る。


 翠先輩もこちらを見ていた。


 目が合った。


 すると、さっきまで普通に話していた顔が、また少しずつ崩れていく。


 口元が緩む。


 目尻が下がる。


 本人は抑えているつもりなのかもしれないが、もう遅い。


「……今日ずっとそれ何なんですか」


 とうとう聞いた。


「何が?」

「その顔ですよ」

「ボクの顔は朝からこれだが?」

「そういう意味じゃなくて」


 翠先輩はまだ少し笑っている。


「俺と目が合った時だけ変な顔するでしょう」

「変な顔とは失礼だな」

「じゃあ何なんです?」


 翠先輩は少し考えた。


 青信号になる。


 前の人たちが歩き始める。


「別に」

「別に?」

「なんとなく機嫌がいいだけだ」

「朝から?」

「うん」

「何かいいことありました?」

「特には」

「じゃあ何で」

「さあ」


 翠先輩が先に横断歩道へ入る。


 俺も隣へ並んだ。


 数歩進んだところで、横から視線を感じた。


 見る。


 翠先輩が慌てて前を向いた。


 でも遅い。


 横顔の口元が笑っている。


「またやってましたよね」

「何もしていないぞ」

「しました」

「証拠は?」

「今日だけで何回見たと思ってるんですか」

「数えていたのかい?」

「数えてません」

「では証拠不十分だな」

「なんで裁判みたいになってるんですか」


 翠先輩は楽しそうに歩いている。


 結局、理由は分からなかった。


 駅が見えてくる。


「夕飯どうします?」

「んー」


 翠先輩が少し考える。


「悠人は?」

「冷蔵庫に鶏肉があるので、それ使います」

「ではボクもそれで」

「まだ誘ってませんよ」

「十二秒後に行く」

「だから誘ってないですって」

「先に帰って待っていたまえ」

「同じ電車でしょう」

「そうだった」


 翠先輩が笑った。


 改札へ向かう途中、ふとこちらを見る。


 目が合う。


 一瞬だけ、また頬が緩みかけた。


 けれど今度は俺が先に気づいた。


「…………」

「…………」


 翠先輩がすっと顔を逸らす。


「今の」

「知らないなあ」

「まだ何も言ってませんよ」

「では問題ない」


 翠先輩は澄ました顔のまま、俺より半歩先に改札を抜けた。

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