翠先輩はニヤつく
土曜日の中央常磐動物園は、開園して一時間もしないうちに人が増え始めていた。
九月も半ばを過ぎたとはいえ、日向にはまだ夏の名残がある。園路を歩く家族連れの半分くらいは日傘か帽子を使い、売店前では朝からソフトクリームを持った子どもが走っていた。
俺は猛禽類エリアのバックヤードで、玄の食べ残しを確認していた。
昨日と比べて量に大きな差はない。
羽の状態も問題なし。
止まり木へ移る時の動きも普段通り。
記録用紙へ時刻と様子を書き込み、鷹野さんへ渡す。
「高瀬、そっち終わったら冷凍庫の在庫見といてくれ」
「分かりました」
「来週の分までな」
「はい」
鷹野さんはそれだけ言って、別の個体の様子を見に行った。
俺も作業へ戻る。
動物園にいる時は、大学にいる時より時間が早い。
やることが決まっているからかもしれない。
清掃。
餌の準備。
記録。
器具の確認。
職員さんから頼まれた雑用。
学生の俺たちに任される範囲は限られているけれど、その範囲だけでも手を止めている暇はあまりなかった。
午前十時四十分。
冷凍庫の在庫を数え終えたところで、鷹野さんからネコ科エリアへ備品を届けるよう頼まれた。
折り畳まれた麻袋を抱えてバックヤードを抜ける。
ネコ科エリアまでは少し歩く。
途中で一般園路を横切ると、ちょうどシラユキの展示場前に人が集まっていた。
白い身体が岩場の陰をゆっくり歩いている。
その向こう。
来園者からは見えない作業通路に、翠先輩がいた。
髪は後ろで簡単にまとめ、作業着の袖を肘まで上げている。
手には記録用のボード。
何かを書いてから顔を上げ、シラユキを見る。
また書く。
榊原さんが隣から何か言う。
翠先輩は頷き、今度は少し場所を移した。
大学で味噌汁を飲みながら「悠人の家で寝ていた」と平然と言っていた人と同一人物には、あまり見えない。
俺は関係者用の扉から中へ入った。
「お疲れさまです」
「あ、高瀬くん。お疲れ」
榊原さんが先に気づいた。
「鷹野さんからです。これ、こっちで使うって」
「助かる。そこ置いといて」
「はい」
指定された棚へ麻袋を置く。
「悠人」
呼ばれて振り向く。
翠先輩がいた。
「お疲れさまです、翠先輩」
「うん。お疲れさま」
目が合う。
「…………」
翠先輩の口元が、じわっと持ち上がった。
何かを思い出したように頬まで緩んでいく。
「むふん」
「…………」
何だ。
俺は一度、翠先輩から視線を外した。
榊原さんはシラユキを見ている。
もう一度見る。
今度は何でもない顔をしていた。
ただ、目だけが妙に楽しそうだった。
「何ですか」
「何が?」
「いや……」
知らないふりまでしている。
俺は少しだけ眉を寄せた。
「今日、機嫌いいですね」
「いつもいいぞ」
「そうでしたっけ」
「失礼だな」
翠先輩はボードへ視線を戻した。
それ以上は何もない。
俺も仕事があるので、その場を離れようとした。
「あ、高瀬くん」
「はい」
榊原さんに呼び止められる。
「そっちから見て、シラユキの歩き方どう見える?」
俺は展示場を見る。
シラユキは岩場を抜け、展示場の奥へ向かっていた。
数日前に見た時より、歩調は一定に見える。
「前に見た時よりは普通だと思います。ただ、俺は毎日見てないので」
「だよね。野々宮さんも同じ見立て」
翠先輩を見る。
「昨日までは、右へ曲がる時に一回だけ歩幅が狭くなることがあったんだ」
「今日は?」
「今のところ出ていない。朝から三回見ているけど、全部普通だな」
「じゃあ戻ったんですかね」
「まだ分からない」
翠先輩は即答した。
ボードの端を指で押さえながら、展示場を見る。
「出ていないだけかもしれないから、今日はもう少し見る。昨日も朝は普通だったんだ」
さっきまでの妙な顔はどこかへ消えていた。
シラユキが足を止める。
鼻先を少し上げる。
翠先輩も動かない。
数秒。
シラユキがまた歩き出す。
翠先輩の視線が後肢を追う。
「……うん」
「どうです?」
「今は大丈夫そう」
榊原さんも頷いた。
「午後も同じところ見ようか」
「はい」
翠先輩が記録へ何か書き足す。
俺はその手元を少し見てから、時計を確認した。
「じゃあ、俺戻ります」
「うん」
「お疲れさまです」
踵を返す。
「悠人」
「はい?」
振り返った。
また目が合った。
今度は声を出さなかった。
ただ、翠先輩の頬がふにゃっと緩んだ。
明らかに俺を見て笑っている。
「だから何なんですか、その顔」
榊原さんが振り返った。
「顔?」
「何でもないです」
「何でもないぞ」
二人で答える。
榊原さんは少しだけ首を傾げたものの、すぐシラユキへ視線を戻した。
俺は翠先輩を見る。
もう仕事中の顔に戻っている。
「……仕事してくださいね」
「しているだろう」
「してますけど」
「悠人より先輩だからな」
「知ってますよ」
「よろしい」
今度こそ戻る。
背中へ視線を感じた気がしたけれど、振り返らなかった。
昼休憩は職員用の休憩室で取った。
午前の作業が少し押したせいで、俺が入った時には十二時半を過ぎていた。
テーブルには何人か職員がいて、翠先輩も端の席で弁当を食べている。
「お疲れ」
「お疲れさまです」
冷蔵庫から自分の弁当を出す。
今日は朝作ったものだ。
ご飯。
昨夜の残りの生姜焼き。
卵焼き。
冷凍のブロッコリー。
適当に温め、翠先輩の向かいへ座った。
「ちゃんと作ってきたんだな」
「作りましたよ」
「偉い」
「どうも」
「ボクは買った」
「見れば分かります」
翠先輩の前にはコンビニのおにぎりとサラダ、それからカップのスープが置かれている。
「朝から作るのは面倒だからな」
「昨日の夜に作ればいいでしょう」
「昨日の夜も面倒だった」
「でしょうね」
「でも野菜はある」
「サラダ買っただけじゃないですか」
「ボクがお金を払い、ここまで運んだ」
「功績みたいに言わないでください」
向かいから小さく笑い声がした。
いつもの翠先輩だった。
俺も生姜焼きを食べる。
少し濃い。
弁当ならこのくらいでいいかもしれない。
「それ、美味しそうだな」
「食べます?」
「いいのか?」
「一枚なら」
箸で一枚取り、翠先輩のサラダの端へ置く。
「ありがとう」
翠先輩が食べる。
少し噛んで。
「美味しい」
「それならよかったです」
「悠人」
「はい」
顔を上げる。
翠先輩は何も言わなかった。
ただ目が合った途端、口元を押さえるように箸を持った手を寄せた。
「……何ですか」
「何も」
「今、笑ったでしょう」
「生姜焼きが美味しかった」
「絶対違うでしょう」
「美味しかったのは本当だぞ」
それ以上追及しても答えそうにない。
俺は弁当へ戻った。
少し離れた席では、職員さんたちが午後の作業について話している。
窓の外から来園者の声が聞こえる。
いつもの休憩室だった。
ただ、今日の翠先輩だけが少しおかしい。
午後はほとんど顔を合わせなかった。
俺は猛禽類エリアへ戻り、清掃と記録を手伝った。
玄は午後になって少し高い位置へ移り、そこで長いこと羽繕いをしていた。
鷹野さんと一緒に足元の状態を確認し、午前中の記録と照らし合わせる。
気づけば閉園時刻が近づいていた。
来園者が減る。
園内放送が流れる。
夕方になると、昼間とは違う音が聞こえるようになる。
掃除用具がぶつかる音。
扉の開閉。
遠くで職員同士が呼び合う声。
俺は使った器具を戻し、最後の記録を確認した。
「高瀬、今日はもう上がっていいぞ」
鷹野さんが言った。
「分かりました。お疲れさまでした」
「お疲れ」
着替えて職員通用口へ向かう。
外へ出ると、まだ空は明るかった。
日中よりだいぶ涼しい。
スマホを確認する。
連絡はない。
駅へ向かおうとしたところで、
「悠人」
後ろから声がした。
振り返る。
翠先輩が小走りでこちらへ来る。
作業着から私服へ戻り、髪も下ろしていた。
「今終わったんですか?」
「うん」
「シラユキどうでした?」
「午後も見たけど、今日は出なかった。榊原さんと話して、明日も同じところを見る」
「そうですか」
「玄は?」
「いつも通りです。餌も問題なし」
「ならよかった」
並んで歩き出す。
動物園の正門から駅までは少し距離がある。
土産袋を持った家族連れを追い越し、横断歩道を渡る。
翠先輩は今日あったことをぽつぽつ話した。
シラユキが昼過ぎに珍しい場所で寝ていたこと。
榊原さんが新しい道具を注文するらしいこと。
休憩室に置いてあった菓子を一つ食べ損ねたこと。
最後の話だけ妙に悔しそうだった。
「また買えばいいじゃないですか」
「あれは貰い物だぞ」
「じゃあ諦めてください」
「悠人は冷たいな」
「お菓子一個ですよ」
「食べ物の恨みは怖いんだぞ」
「誰を恨むんです?」
「最後の一個を食べた人」
「逆恨みじゃないですか」
翠先輩が笑う。
信号に引っかかった。
二人で止まる。
俺は何となく隣を見る。
翠先輩もこちらを見ていた。
目が合った。
すると、さっきまで普通に話していた顔が、また少しずつ崩れていく。
口元が緩む。
目尻が下がる。
本人は抑えているつもりなのかもしれないが、もう遅い。
「……今日ずっとそれ何なんですか」
とうとう聞いた。
「何が?」
「その顔ですよ」
「ボクの顔は朝からこれだが?」
「そういう意味じゃなくて」
翠先輩はまだ少し笑っている。
「俺と目が合った時だけ変な顔するでしょう」
「変な顔とは失礼だな」
「じゃあ何なんです?」
翠先輩は少し考えた。
青信号になる。
前の人たちが歩き始める。
「別に」
「別に?」
「なんとなく機嫌がいいだけだ」
「朝から?」
「うん」
「何かいいことありました?」
「特には」
「じゃあ何で」
「さあ」
翠先輩が先に横断歩道へ入る。
俺も隣へ並んだ。
数歩進んだところで、横から視線を感じた。
見る。
翠先輩が慌てて前を向いた。
でも遅い。
横顔の口元が笑っている。
「またやってましたよね」
「何もしていないぞ」
「しました」
「証拠は?」
「今日だけで何回見たと思ってるんですか」
「数えていたのかい?」
「数えてません」
「では証拠不十分だな」
「なんで裁判みたいになってるんですか」
翠先輩は楽しそうに歩いている。
結局、理由は分からなかった。
駅が見えてくる。
「夕飯どうします?」
「んー」
翠先輩が少し考える。
「悠人は?」
「冷蔵庫に鶏肉があるので、それ使います」
「ではボクもそれで」
「まだ誘ってませんよ」
「十二秒後に行く」
「だから誘ってないですって」
「先に帰って待っていたまえ」
「同じ電車でしょう」
「そうだった」
翠先輩が笑った。
改札へ向かう途中、ふとこちらを見る。
目が合う。
一瞬だけ、また頬が緩みかけた。
けれど今度は俺が先に気づいた。
「…………」
「…………」
翠先輩がすっと顔を逸らす。
「今の」
「知らないなあ」
「まだ何も言ってませんよ」
「では問題ない」
翠先輩は澄ました顔のまま、俺より半歩先に改札を抜けた。




