翠先輩は呼ばれたい
日曜日の午後、俺の部屋にはまた翠先輩がいた。
来るという連絡は、十分前に届いた。
正確には、
『いる?』
の二文字だけだった。
俺が『いますよ』と返してから十一分後、インターホンが鳴った。
十二秒ではない。
そのことを指摘すると、「今日は階段ではなくエレベーターを待った」と言われた。別に競技ではないので、俺としてはどちらでもいい。
今は午後三時を少し回ったところだった。
窓の外には薄い雲がかかっていて、昨日より日差しは弱い。冷房をつけるほどではないけれど、窓を閉めると少し蒸すくらいの気温だった。
俺はローテーブルにノートパソコンを広げ、来週提出するレポートを進めている。
翠先輩はソファ。
黒に近い焦げ茶色の細い首輪をつけて、横向きに寝転がっていた。
リードはない。
あれは本人も危ないと理解したらしく、買った翌週には使わなくなった。
首輪だけは気に入ったらしい。
大学にも動物園にもつけていかないが、俺の部屋か自分の部屋ではたまにこうしている。
「悠人」
「はい」
「麦茶」
「冷蔵庫です」
「知っている」
「じゃあ自分で取ってください」
「今、非常にいい位置なんだ」
翠先輩はソファの背もたれへ頬を押しつけたまま動かない。
窓から入る風がちょうど足元を通っている。
「昨日も似たこと言ってましたよね」
「昨日は日向の温度だ。今日は風だな」
「細かい」
「快適さには理由がある」
「じゃあその快適さを維持したまま喉乾いててください」
「冷たいなあ」
俺は画面へ戻った。
数秒後。
「悠人」
「取りませんよ」
「まだ何も言っていないじゃないか」
「言うこと分かるので」
「では話が早いな」
「取りません」
「先輩を敬う心はどこへ行ったんだ」
「麦茶を運ぶことが敬意ではないでしょう」
背後で、翠先輩が小さく息を吐いた。
諦めたらしい。
しばらくしてソファが軋む。
裸足の足音が床を横切り、冷蔵庫が開いた。
俺は画面を見たまま、カーソルを一段下へ進める。
冷蔵庫の扉が閉じる。
食器棚が開く。
その音にも、もうほとんど反応しなくなった。
翠先輩のグラスがどこにあるかは、本人も分かっている。
食器棚の下段。
俺の普段使いのグラスの右隣。
少し前まで空いていた場所だった。
グラスだけではない。
ローテーブルの端には翠先輩のヘアゴムが一つ置いてある。
テレビ台の脇には、いつ持ってきたのか分からない獣医病理学の参考書。
ソファの肘掛けには薄いベージュのカーディガンが掛かったままになっている。
充電器もある。
俺のではない。
白いケーブルの先に、翠先輩が使っている機種用の端子がついている。
どれも一度に増えたわけではなかった。
忘れた。
置いていった。
また使うからそのままにした。
そんなものが、気づけば部屋のところどころに残っている。
邪魔かと言われると、今のところそうでもない。
ただ、前より少しだけ俺一人の部屋らしくなくなった。
「増えたな」
思わず口に出た。
冷蔵庫の前で麦茶を注いでいた翠先輩が振り返る。
「何が?」
「翠先輩の物です」
「そうか?」
「そうですよ」
俺はローテーブルの端を指差した。
「ヘアゴム」
「うん」
「参考書」
「あるな」
「カーディガン」
「ある」
「充電器」
「便利だろう?」
「俺が使えないので俺には便利じゃないです」
「ボクには便利だ」
「でしょうね」
翠先輩は自分のグラスを持って戻ってくる。
ソファへ座る前にカーディガンを一度持ち上げ、少し考えてから、また同じ場所へ掛け直した。
「持って帰らないんですか」
「また使うかもしれない」
「いつ」
「そのうち」
「家、向かいですよ」
「だからそのうちでいいんじゃないか」
理屈が分からない。
翠先輩はグラスをローテーブルへ置き、今度はソファへ普通に腰掛けた。
そのまま参考書を手に取る。
ぱらぱらと数ページめくってから、俺を見る。
「ところで」
「はい」
「前から思っていたんだが」
「何ですか」
「どうして悠人は、まだボクのことを翠先輩と呼ぶんだ?」
キーボードの上で指が止まった。
唐突だった。
「どうしてって」
「だって同級生だろう」
「同級生ですけど」
「大学ではね」
「大学でもです」
「学年も同じ」
「同じですね」
「年齢も一つしか違わない」
「翠先輩が早生まれじゃなくて、俺が遅いだけでしょう」
「細かいことはいい」
「自分から言ったんじゃないですか」
翠先輩はグラスを持ち上げ、麦茶を一口飲んだ。
首元の細い革が少しだけ動く。
「ボクはずっと不思議だったんだ」
「何がです?」
「大学で同級生だと分かってからも、ずっと先輩だろう」
「そりゃ先輩ですから」
「動物園ではね」
「最初に会った時からそうでしょう」
俺が高校二年の時。
中央常磐動物園で先に働いていたのは翠先輩だった。
俺は後から入った。
教えてもらうことも多かった。
仕事の流れも、道具の場所も、動物との距離の取り方も。
その時からずっと、翠先輩は翠先輩だった。
「別に変える理由もないですし」
「でも宮坂にはタメ口じゃないか」
「宮坂は同級生として知り合ったので」
「ボクも同級生だぞ」
「先輩でもあります」
「二重属性だな」
「そうですね」
「便利そうだ」
「何がですか」
翠先輩はしばらく考えるようにグラスの縁へ指を添えた。
それから、急に言った。
「じゃあ、一回先輩を外してみたまえ」
「はい?」
「翠先輩じゃなくて、翠」
俺は顔を上げた。
翠先輩は、別に深く考えている様子ではなかった。
純粋に試してみたくなっただけらしい。
こういうところはいつも急だ。
「嫌ですよ」
「なぜ」
「違和感あるので」
「一回だけだ」
「余計嫌です」
「実験だと思えばいい」
「何の実験ですか」
「呼称の変化による心理的影響」
「絶対今作ったでしょう」
「研究とは疑問から始まるものだぞ」
「それっぽく言わないでください」
翠先輩が身体を少し起こす。
目が合う。
「一回」
「嫌です」
「一回だけ」
「翠先輩」
「ほら、それだ」
「何が」
「今また先輩ってつけた」
「つけますよ」
「外してみたまえ」
「何でそんなに聞きたいんですか」
「気になるから」
「それだけ?」
「それだけ」
本当にそれだけらしい。
翠先輩はいつもの調子でこちらを見ている。
妙に期待されると、こっちまで変なことをしている気分になる。
俺は一度、画面へ視線を落とした。
文章は途中で止まったままだった。
仕方なく、息を吐く。
「……一回だけですよ」
「うん」
「その後文句言わないでくださいね」
「言わない」
俺は少し間を置いた。
呼び慣れた二文字を外すだけだ。
別に難しいことではない。
そう思って。
「翠」
呼んだ。
「…………」
翠先輩の顔が歪んだ。
笑ったわけでも、怒ったわけでもない。
眉が寄り、片方の頬がわずかに引きつって、肩までほんの少し強張った。
「……何ですか、その顔」
「待て」
「はい?」
「今の、もう一回は」
「やりませんよ」
「いや、そういうことではなくて、やらなくていい」
「どっちですか」
「やらなくていい」
さっきまで自分から言っていた人とは思えない。
翠先輩は首の後ろへ手をやった。
細い首輪のすぐ上。
そこを指先で軽く擦る。
「……変だった」
「そりゃそうでしょう」
「想像より変だった」
「だから言ったじゃないですか」
「なんというか」
翠先輩は言葉を探すように眉を寄せる。
「背中を指で、すーっとなぞられたみたいだった」
「何ですかそれ」
「分からない」
「俺も分かりませんよ」
「ぞわっとした」
「じゃあやらせないでください」
「本当にそう思う」
即答だった。
翠先輩はグラスを持ち直す。
まだ少し納得していない顔をしている。
「名前は同じなのになぁ」
「呼び方違いますからね」
「悠人に呼ばれると、翠先輩で一つになっているのかもしれない」
「何ですか、その単語みたいな扱い」
「少なくともボクの耳ではそうらしい」
「じゃあ今まで通りでいいでしょう」
「うん」
翠先輩は頷いた。
「先輩をつけてくれ」
「最初からそのつもりです」
「ちゃんと翠先輩って呼びたまえ」
「呼んでますよ」
「今後も」
「分かりましたよ、翠先輩」
「うん」
今度は顔を歪めなかった。
むしろそれで収まったらしい。
肩の力が抜ける。
翠先輩はソファの背もたれへ寄りかかり、麦茶を飲んだ。
俺もレポートへ戻る。
途中まで書いていた文章を読み直し、消した。
なんとなく気が散っている。
「悠人」
「はい、翠先輩」
「うむ」
「確認しないでください」
「確認ではないぞ」
「じゃあ何ですか」
「呼んでみただけだ」
「俺が返事しただけでしょう」
「それでいい」
意味は分からない。
けれど翠先輩は満足そうだった。
しばらく部屋が静かになる。
俺はレポートを進める。
翠先輩は参考書を読む。
ページをめくる音が数分おきにする。
途中で翠先輩が充電器を使い、自分のスマホをつないだ。
カーディガンは相変わらずソファの肘掛けにある。
ヘアゴムもそのまま。
グラスには半分ほど麦茶が残っている。
全部、もともとはこの部屋になかったものだ。
「悠人」
「はい」
「夕飯は?」
「まだ決めてません」
「冷蔵庫に卵あっただろう」
「ありますよ」
「玉ねぎも」
「あります」
「鶏肉は?」
「昨日食べました」
「では豚肉」
「あります」
「親子丼は作れないな」
「豚肉で親子丼作ろうとしてたんですか」
「危ないところだった」
「危なくないです」
「じゃあ他人丼か」
「食べたいんですか」
「うん」
翠先輩は参考書から顔を上げた。
「作ってくれ」
「嫌です」
「翠先輩だぞ」
「さっきそれを維持するって決めたばっかりで悪用しないでください」
「先輩とは敬われるものだろう」
「敬意と夕飯は別です」
「では敬意のある他人丼」
「何ですかそれ」
翠先輩が笑う。
俺は一度だけ時計を見た。
午後四時を少し過ぎている。
まだ夕飯には早い。
けれど、このまま翠先輩が帰る気もたぶんない。
「六時になったら考えます」
「本当か?」
「考えるだけです」
「十分だ」
翠先輩は満足したらしく、また本へ戻った。
俺も画面へ視線を戻す。
少しして、視界の端で翠先輩が髪をまとめようと手を伸ばした。
「あれ」
「何です?」
「ヘアゴム」
翠先輩が周囲を見る。
俺は無言でローテーブルの端を指差した。
「あった」
「ずっとそこですよ」
「よく分かったな」
「翠先輩のだから」
「そうだった」
翠先輩はそれを取り、髪を後ろでまとめる。
そのまま何事もなかったように参考書を開いた。
俺の部屋にある自分の物を、自分の家にある時と同じように使っていた。




