翠だって友達はいる
月曜日の一限が終わると、翠は机へ突っ伏した。
講義終了を告げる言葉から、まだ三十秒も経っていない。
前方では教授がノートパソコンを閉じ、学生たちが教科書やタブレットを鞄へしまい始めている。椅子の脚が床を擦る音と、次の教室を確認する声が一斉に広がる中、翠だけが机へ頬をつけたまま動かなかった。
「野々宮、寝るなら次の教室行ってからにしなよ」
右隣から言われた。
翠は顔を上げない。
「ここでは駄目なのか」
「十分後に別の学年が使うって」
「ではボクも別の学年になればいい」
「無理でしょ」
「制度には柔軟性が必要だな」
「単に動きたくないだけじゃん」
「よく分かったな」
顔だけ横へ向ける。
そこにいたのは、同じ獣医学科二年の女子学生だった。
最近、昼を一緒に食べることが増えたうちの一人である。
名前は三枝美緒。
肩までの黒髪を後ろで一つにまとめていて、講義中はだいたい前から二列目か三列目に座る。ノートを取る速度が速く、試験前になると周囲から写真を撮らせてほしいと言われるタイプだった。
その隣では、もう一人の女子学生、倉田莉央が立ち上がりながら鞄を肩へ掛けている。
「翠、次って生理学実習だよね?」
「うん」
「移動するよ」
「まだ九分ある」
「実習棟まで七分」
「二分余るな」
「着替えあるでしょ」
「……なるほど」
翠はようやく身体を起こした。
「非常に厳しい時間設定だ」
「自分で選んだ時間割じゃん」
「過去のボクを恨みたい」
「先週も言ってた」
美緒が笑いながら教科書を閉じた。
翠も机の上を片づける。
ノート。
ペンケース。
タブレット。
その下に、昨日悠人の部屋で読んでいた獣医病理学の参考書はない。
あれはまだ向こうに置いたままだった。
持って帰る必要を感じなかったので、そのままにしてある。
代わりに今日使う資料を鞄へ押し込み、立ち上がった。
三人で講義室を出る。
廊下はすでに人で埋まっていた。
国立武蔵野科学大学の獣医学科は人数そのものが多いわけではないが、午前中は他学科と同じ講義棟を使うことも多い。白衣を抱えた学生、専門書を何冊も抱えた学生、まだ眠そうな顔の学生が階段へ集中し、下へ流れていく。
翠たちはその波へ混ざった。
「そういえば野々宮」
階段を下りながら、美緒が言った。
「昨日何してた?」
「悠人の家にいた」
「ああ、近いんだっけ」
「十二秒」
「その言い方すると、毎回ちょっと面白い」
「実測値だからな」
「本当に測ったの?」
「悠人が急いだ時に」
「高瀬くん何させられてんの」
「別にボクがさせたわけではないぞ」
翠は平然と答えた。
美緒もそれ以上は聞かなかった。
悠人の部屋へ行くことは、もうこの辺りの友人にはそれほど珍しい情報ではない。
家が近い。
動物園で昔から知っている。
そういう説明で十分に収まる話だと思われているらしい。
翠自身も、それ以上の説明が必要だとは思っていなかった。
実習棟へ入る。
ロッカールームで白衣へ着替え、髪をまとめる。
ゴムを探して鞄の内ポケットへ手を入れたところで、一瞬だけ止まった。
「……あ」
「どうしたの?」
莉央が振り返る。
「ヘアゴムを一本、悠人の家に置いてきた」
「一本くらいあるでしょ」
「ある」
「じゃあ問題なくない?」
「うん」
翠は別の一本を取り出した。
少し考えたが、それだけだった。
置いてあるなら置いてあるでいい。
昨日使ったものが向こうにあり、今日使うものがこちらにある。
特に困らない。
三人で実習室へ入った。
午前の生理学実習は、いつもより少し時間がかかった。
測定値のばらつきが大きく、一度やり直しになった班がいくつか出たからだ。
翠たちの班でも、最初の結果を見た莉央が眉を寄せた。
「これ、変じゃない?」
「変だな」
翠は記録用紙を覗き込んだ。
美緒が横から測定機器を見る。
「接続?」
「いや」
翠は数字を追った。
一つ目。
二つ目。
三つ目。
そこまでは大きく外れていない。
四つ目だけが急に跳ねている。
「この時だけ条件が変わってる」
「何か触った?」
「触ってないと思う」
「じゃあ何?」
翠は少し考え、使用している器具へ視線を落とした。
接続部。
位置。
固定。
それから、机の端へ置かれていた記録用のメモを見る。
「ここ」
指先で一行を示す。
「三回目と四回目の間だけ、待機時間が短い」
美緒も覗き込んだ。
「あ、本当だ」
「一分違う」
「それでこんなに変わる?」
「分からない。だからもう一回同じ条件でやってみよう」
三人で条件を揃え直す。
今度は規定通りの時間を置く。
測定。
数字が出る。
さっきより綺麗に並んだ。
「おお」
莉央が声を漏らした。
「野々宮よく気づいたね」
「数字が一箇所だけ浮いていたから」
「私、機械壊れたかと思った」
「それならもっと派手に壊れてほしいな」
「困るって」
「原因が分かりやすい」
翠はそう言いながら記録を修正した。
実習中は眠そうでもなければ、動きたくないとも言わない。
必要な手順は守る。
測定は丁寧にする。
分からないところは確認する。
適当に済ませれば結局やり直しになるので、最初からちゃんとやった方が面倒が少ない。
翠にとっては、それも立派な省エネだった。
担当教員が班を回ってくる。
結果を確認し、いくつか質問をしていった。
翠が答え、美緒が補足し、莉央が記録を見せる。
特に問題はなかった。
教員が次の班へ移ったあと、美緒が小声で言う。
「こういう時だけちゃんとしてるよね」
「失礼だな。いつもちゃんとしているぞ」
「今朝、机に寝てた人が?」
「あれは休息だ」
「一限終了三十秒後に?」
「素早い判断だっただろう」
莉央が吹き出した。
翠も少し笑った。
実習が終わった頃には、十二時半を過ぎていた。
食堂はすでに混んでいる。
三人は一度入口まで行き、人の列を見て、そのまま引き返した。
「無理」
美緒が即座に言った。
「賛成」
翠も同意した。
「売店でいい?」
莉央が聞く。
「ボクは何でもいいぞ」
「じゃあ外で食べよ」
売店でそれぞれ昼食を買い、中庭へ向かう。
九月の終わりが近づき、昼間でも木陰なら過ごしやすくなっていた。
ベンチはほとんど埋まっていたが、芝生の端にはまだ空きがある。
三人で座る。
美緒はサンドイッチ。
莉央はパンとヨーグルト。
翠は鮭のおにぎり二つと野菜ジュースだった。
「またそれ?」
莉央が翠の手元を見る。
「またとは?」
「先週も鮭二個だったじゃん」
「好きだからな」
「違うのにしないの?」
「好きなものが存在するのに、なぜ危険を冒す必要がある」
「昼ご飯を冒険扱いしないで」
翠は一つ目のおにぎりを開けた。
風が芝生を撫でていく。
講義棟の影から出てきた学生が何人か通り過ぎ、その中の一人が翠たちへ手を振った。
「野々宮、あとで!」
「うん」
翠も手を上げる。
同じ実習を取っている学生だった。
少し前までなら、名前を呼ばれて手を振り返すこと自体がなかったわけではない。
ただ、そこで終わっていた。
最近は、そのあとがある。
次の授業で隣へ座る。
昼を一緒に食べる。
資料を送り合う。
帰りに店へ寄る。
どれも特別なことではない。
それでも、以前より大学にいる時間が少しだけ賑やかになった。
「そうだ」
美緒がサンドイッチを持ったまま翠を見る。
「今日、駅前の新しい店行く?」
「何の店?」
「焼き菓子」
翠の動きが止まった。
「詳しく」
「食いついた」
「重要な情報だ」
「先週言ったでしょ。フィナンシェとかマドレーヌとか、あとプリンもあるって」
「プリン」
「そこだけ拾ったね」
「プリンは重要だろう」
「この前、高瀬くんと食べてなかった?」
「食べた」
「じゃあ今日は別のにしなよ」
「プリンは競合しないぞ」
「何と?」
「プリン同士で」
「意味分かんない」
莉央が笑う。
翠は野菜ジュースのストローを差しながら少し考えた。
今日は午後に二コマある。
最後は四時十分に終わる。
そのあと特に予定はない。
動物園もない。
悠人から何か言われているわけでもない。
「行く」
「珍しく即答」
「焼き菓子があるからな」
「私たちじゃなくて?」
「もちろん君たちもいる」
「順番が怪しいなあ」
「気にするな」
翠は二つ目のおにぎりを開けた。
午後の講義は二つ。
一つ目は病理学。
二つ目は公衆衛生学だった。
病理学では翠、美緒、莉央の三人で並んで座った。
教授がスライドを切り替えるたび、薄暗い講義室の前方に組織像が浮かぶ。
翠はいつものように必要なところだけメモを取った。
全部を書くことはしない。
あとで資料を見れば分かるものは書かない。
ただ、教授が口頭で補足した箇所だけは残す。
途中、美緒が小さく紙を滑らせてきた。
『ここ試験出そうじゃない?』
翠はその下へ書く。
『出ると思う』
少し考え、さらに付け足す。
『面倒だな』
紙が戻る。
『そこは勉強しなよ』
翠は無言で丸をつけた。
公衆衛生学では席が少し離れた。
翠は前から四列目。
美緒と莉央は一つ後ろ。
講義開始から十五分ほどで、翠のスマホが一度震えた。
机の下で確認する。
悠人からだった。
『昨日の参考書、こっちにありますけど今日使います?』
翠は画面を見た。
昨日、悠人の部屋へ置いてきた病理学の本だ。
今日の講義では別の教科書を使っている。
『使わない』
送る。
少しして返事。
『じゃあ置いときます』
『うん』
それだけだった。
翠はスマホを伏せ、前を向いた。
数分後には、そのやり取りをほとんど忘れていた。
四時十二分。
講義棟を出ると、空はまだ明るかった。
「行こ」
美緒が先頭に立つ。
三人で駅へ向かう。
大学から駅までは学生が多い。
自転車を押す者。
バス停へ向かう者。
そのまま研究棟へ戻る者。
翠は美緒と莉央の間を歩きながら、今日の実習の話をしていた。
「レポート、今日やる?」
莉央が聞く。
「明日」
翠が答える。
「絶対明日?」
「おそらく」
「それはやらない人の言い方」
「では明後日」
「悪化した」
「締切は金曜だろう?」
「そうだけど」
「なら木曜でも間に合う」
「その理屈で毎回ぎりぎりになるんじゃん」
「間に合っているなら問題ない」
「野々宮ってほんとそういうとこあるよね」
「褒めている?」
「褒めてない」
三人で笑う。
駅前の商店街へ入る。
新しい焼き菓子店は、通りの少し奥にあった。
小さな店だった。
白い壁。
木製の看板。
ガラス越しに焼き菓子が並んでいる。
店内へ入ると、甘いバターの匂いがした。
「いい匂い」
莉央が言う。
翠も頷いた。
棚にはフィナンシェ、マドレーヌ、クッキー、パウンドケーキ。
冷蔵ケースにはプリンと小さなタルトもある。
「翠、プリンあるよ」
「見えている」
「顔が真剣」
「選択は慎重に行うべきだ」
「一個買うだけでしょ」
翠は冷蔵ケースの前で少し悩んだ。
プリン。
カスタードタルト。
季節限定の栗の焼き菓子。
全部食べたい。
しかし全部買うと高い。
「……困った」
「珍しく深刻そう」
「予算というものは人間を不自由にするな」
「壮大に言わないで」
結局、翠はプリン一つと、フィナンシェを二つ買った。
「二個?」
美緒が会計後の袋を見る。
「うん」
「両方食べるの?」
「一個は悠人」
「へえ」
その返事には特に含みがなかった。
翠も何も気にしない。
「美味しかったら食べさせる」
「まだ食べてないのに買ったんだ」
「美味しそうだからな」
「まず自分で確認しない?」
「失敗だったら一緒に失敗すればいい」
「高瀬くん巻き込まれてるじゃん」
「問題ない」
「本人に聞いた?」
「聞いてない」
「もっと駄目じゃん」
翠は紙袋を持ち直した。
「食べなかったらボクが食べる」
「抜け目ないなあ」
三人は近くの小さなイートインスペースへ移動した。
翠はそこでプリンを食べた。
少し固め。
卵の味が濃い。
上に薄くカラメルがかかっている。
「どう?」
美緒が聞く。
「美味しい」
「よかったじゃん」
「フィナンシェも期待できる」
「そこ繋がる?」
「同じ店だからな」
莉央はタルトを食べながら笑った。
それから三人で、次の試験の話をした。
教授の癖。
去年の過去問。
実習班。
来月の予定。
美緒が週末に映画を見に行った話。
莉央が新しい靴を買った話。
翠は聞きながら、時々返事をする。
自分から話すこともある。
動物園でシラユキの歩き方を見ていたこと。
玄は悠人の担当側なので詳しくないこと。
昨日、悠人の部屋でレポートをやっていたら夕飯が他人丼になったこと。
「他人丼?」
美緒が聞き返す。
「豚肉と卵」
「ああ」
「名前ちょっと怖いね」
「ボクも昨日知った」
「高瀬くん作ったの?」
「うん」
「野々宮、だいぶ高瀬くんの家でご飯食べてない?」
「そうか?」
「聞くたび食べてる気がする」
翠は少し考えた。
昨日。
その前。
先週。
確かに何度か食べている。
「ああ、近いんだっけ」
「道路を挟んで向かいだ」
「それもうほぼ隣じゃん」
そこで話は終わった。
誰もそれ以上掘らない。
翠もプリンの最後の一口を食べた。
店を出た頃には、五時半近くになっていた。
駅前は帰宅する人が増えている。
美緒は別の路線。
莉央も途中で乗り換える。
改札前で三人は立ち止まった。
「じゃあまた明日」
美緒が言う。
「うん」
「明日二限からだよね?」
「そう」
「寝坊しないでね」
「努力する」
「信用できない」
「八時半には起きる」
「遅いって」
莉央が笑った。
「翠、また今度別の店行こうよ」
「いいぞ」
「今度は予定が合えばじゃないんだ」
翠は一瞬考えた。
そういえば以前は、よくそう答えていた気がする。
「まあ、行けるなら行く」
「それほぼ同じじゃん」
「少し前向きになった」
「自己申告なんだ」
三人で笑う。
「じゃあね」
「また明日」
手を振り、それぞれの改札へ向かった。
翠が自宅の最寄り駅へ着いた頃には、外は少し暗くなっていた。
マンションへ向かう。
右手には鞄。
左手には焼き菓子の紙袋。
玄関へ入り、エレベーターに乗る。
五階。
扉が開く。
自分の部屋の前まで歩いたところで、翠は止まった。
「……」
紙袋を見る。
フィナンシェが二つ。
一つは自分。
一つは悠人。
自分の部屋へ入り、靴を脱ぐ。
鞄を置く。
紙袋も一度テーブルへ置いた。
それから冷蔵庫を開ける。
特に食べたいものはない。
閉める。
スマホを見る。
時刻は十八時十二分。
少し考えた。
メッセージを開く。
『いる?』
送る。
数十秒後。
『いますよ』
翠は紙袋からフィナンシェを一つ取り出した。
もう一つはそのまま残す。
玄関へ戻る。
靴を履く。
鍵を持つ。
廊下へ出た。
向かいの建物へ渡り、エントランスへ入る。
エレベーターを待つ。
今日は急がなかった。
悠人が玄関を開ける。
「どうしたんですか」
「これ」
翠は紙袋からフィナンシェを一つ差し出した。
「何です?」
「今日、美緒たちと店に行った」
「へえ」
「美味しそうだったから買った」
「俺に?」
「うん」
悠人は受け取る。
「ありがとうございます」
「まだ美味しいかは分からないぞ」
「食べてないんですか」
「ボクはプリンを食べた」
「じゃあ何で俺にこれを」
「美味しそうだったから」
「なるほど」
悠人は袋を見る。
翠も見る。
「……入らないんですか?」
「入る」
「やっぱり」
悠人が少し横へ退く。
翠は靴を脱いだ。
「今日、大学どうでした?」
「普通だったぞ」
「何したんです?」
「実習して、講義受けて、美緒たちと昼を食べて、帰りに店へ行った」
「ちゃんと大学生してますね」
「失礼だな」
「褒めてますよ」
「ならいい」
翠は自分の部屋へ戻った時より自然に廊下を進み、リビングへ入った。
ソファの肘掛けには、昨日置いたままのベージュのカーディガンがまだ掛かっていた。
ローテーブルの端にはヘアゴム。
テレビ台の脇には参考書。
翠はそれらを一度だけ見てから、いつもの場所へ座った。




