翠って変な人
火曜日の昼休み、翠は講義棟の窓際に立っていた。
立っているだけなら、絵になる。
九月の終わりを越えた陽射しが薄く差し込み、明るい茶色の髪が肩のあたりで柔らかく光っている。白いブラウスに淡い色のカーディガン。細身のスカート。横顔だけ見れば、獣医学科で少し有名になるのも分かるくらいには整っていた。
問題は、その姿勢だった。
「何してんの?」
美緒が聞いた。
翠は窓ガラスへ頬をつけたまま答えた。
「ちべたい」
「うん」
「ひじょーにいい」
「それで額つけてるの?」
「うん」
「五分くらい?」
「もっとだな」
莉央も隣から見る。
「跡つくよ」
「その時はその時だ」
「何その覚悟」
翠は動かなかった。
午前の講義が終わってから、すでに十分近く経っている。
廊下では学生たちが食堂や売店へ向かっていた。
その流れの中で、翠だけが窓ガラスへ頬を押しつけている。
遠目には物憂げに外を眺めているように見えるかもしれない。
近づけば、ただ冷たいから貼りついているだけだった。
「翠、昼どうする?」
莉央が聞く。
「ここでいい」
「何を?」
「昼」
「窓食べるの?」
「違う」
「じゃあ移動しようよ」
「面倒だな」
翠はようやく頬を離した。
薄く赤くなっている。
それを気にする様子もなく、鞄を持った。
「食堂?」
「今日は空いてそう」
「では行こう」
三人で階段を下りる。
途中、別のクラスの学生とすれ違った。
「あ、野々宮さん」
「うん」
「この前の資料ありがとう」
「いいよ」
「助かった」
「ならよかった」
普通に返す。
相手が去る。
少し離れてから、美緒が言った。
「やっぱ外から見ると普通なんだよなあ」
翠が振り向いた。
「何が?」
「何でもない」
美緒は笑った。
食堂は予想より混んでいた。
三人は入口で一度止まり、列を見る。
翠は三秒考えた。
「帰ろう」
「大学から?」
「家へ」
「まだ午後あるよ」
「では無理だな」
「判断が極端なのよ」
仕方なく列へ並ぶ。
翠は前の人のトレーをぼんやり見ていた。
定食。
カレー。
麺。
丼。
選択肢は多い。
そのせいで余計に決めたくないらしい。
「何食べる?」
莉央が聞く。
「同じのでいい」
「誰と?」
「前の人」
「知らない人じゃん」
「美味しそうだった」
「じゃあ同じの頼めばいいじゃん」
「名前を見るのが面倒だ」
「メニュー上見て!」
翠は顔を上げた。
前方のボードを見る。
「生姜焼き定食」
「読めるじゃん」
「読めるぞ」
「じゃあ解決したね」
「うん」
翠は少し満足そうだった。
席を確保し、三人で昼を食べる。
翠は定食を半分ほど食べたところで箸を止めた。
そのまま味噌汁を見る。
「どうしたの?」
「熱い」
「今さら?」
「今さら熱い」
「冷めてるでしょ、もう」
「中が熱かった」
「味噌汁の中って何」
翠は椀を少し遠ざけた。
それから冷ますためなのか、しばらく眺める。
何もしない。
ただ見る。
「ふーってしないの?」
「面倒だ」
「一秒だよ」
「自然冷却を待つ」
「工学みたいに言わないで」
美緒が笑う。
翠は真顔だった。
午後の一コマ目は薬理学だった。
講義室へ入ると、翠はいつものように後ろから三列目あたりへ座った。
美緒と莉央も隣。
教授が来るまでの数分、周囲では雑談が続いている。
翠は鞄からペンケースを出した。
開ける。
中を見る。
閉じる。
「どうしたの?」
「シャーペンがない」
「ペンは?」
「ボールペンはある」
「それで書けば?」
「間違えた時に消せない」
「ノートなんだからいいじゃん」
「嫌だ」
「こだわりあるんだ」
「ある」
翠は少し考えた。
それから前の席の学生の背中を指先で軽く叩いた。
「すまない」
振り向いた男子学生が一瞬止まる。
「え、あ、何?」
「シャーペンを一本貸してほしい」
「あ、うん。いいよ」
「ありがとう」
渡される。
翠は普通に受け取った。
相手は少しだけ緊張した顔のまま前を向いた。
美緒が横から小声で言う。
「今の人、めっちゃ固まってたよ」
「なぜ?」
「野々宮に突然話しかけられたからでしょ」
「同じ学科だぞ」
「そういう問題じゃなくて」
「ではどういう問題なんだ」
「美人だからじゃない?」
翠は一度瞬いた。
「そうか」
「反応薄いな」
「自分の顔は毎日見ているからな」
「その返しもまあまあ変だよ」
翠は借りたシャーペンでノートを書き始めた。
講義が終わる頃には、借りたことを忘れかけていた。
男子学生が帰ろうとしたところで、美緒に肩を叩かれる。
「シャーペン」
「あ」
翠は席を立った。
「すまない」
「あ、全然大丈夫」
「助かった」
「うん」
返す。
相手はやっぱり少し嬉しそうだった。
翠は何も気づいていない。
次の講義まで三十分空いた。
三人は学内のベンチへ移動した。
翠は座った途端、鞄を膝へ置き、その上へ頬を乗せた。
「寝るの?」
莉央が聞く。
「休む」
「最近その言い方好きだね」
「寝ると言うと起こされるからな」
「休むって言っても起こすよ」
「では死んだふりをする」
「やめて」
翠は目を閉じた。
五分後。
「翠」
「……」
「翠」
「……」
「生きてる?」
「うん」
「返事するんだ」
「死んだふりは中止した」
「いつ?」
「今」
目は閉じたままだった。
莉央が笑う。
そこへ、別の女子学生が二人通りかかった。
「あ、野々宮」
翠は片目だけ開けた。
「うん」
「今度の実習、同じ班だよね?」
「そうだったか」
「そうだよ!」
「よろしく」
「よろしくね」
二人は少し笑いながら去った。
翠はまた目を閉じる。
美緒がその横顔を見る。
「ほんと、黙ってると綺麗なんだよね」
「喋っても綺麗だぞ」
「自分で言うんだ」
「事実なんだろう?」
「そこは否定しづらいのが腹立つ」
翠は目を開けた。
「それで?」
「何が?」
「さっきから、ボクを見て何か言いたそうだが」
美緒と莉央が顔を見合わせた。
少し間が空く。
「……これ、言っていい?」
美緒が聞く。
「いいぞ」
「野々宮ってさ」
「うん」
「美人じゃなかったら、ただの大学の変な人だよね」
「…………」
翠は黙った。
莉央が慌てて付け足す。
「いや、悪口じゃなくて!」
「かなり悪口に近い気はするな」
「でも意味は分かるでしょ?」
「分からない」
「窓にほっぺたつけて冷たいって喜ぶし」
「気持ちいいぞ」
「味噌汁を自然冷却とか言うし」
「合理的だ」
「机で即寝るし」
「休息だ」
「友達の家にヘアゴムとか参考書とか置きっぱなしにするし」
「悠人の家は近いからな」
「それも普通ではないからね?」
「そうなのか?」
二人が同時に頷いた。
翠は少しだけ考えた。
「でも、困ってはいないぞ」
「それはそう」
「むしろ何か成立してるんだよなあ」
美緒が唸る。
「何が?」
「全部」
「曖昧だな」
「野々宮って、たぶん顔が強すぎるんだよ」
「攻撃力の話か?」
「違う」
「防御力?」
「もっと違う」
莉央が笑う。
美緒は少し身を乗り出した。
「例えばさ」
「うん」
「知らない女子が窓に十分ほっぺつけてたら、ちょっと心配になるじゃん」
「なるかもな」
「野々宮がやってると、なんか絵になる」
「なるほど」
「でも近づいて理由聞くと『冷たいから』って言う」
「事実だ」
「そこでもう全部台無し」
「台無しなのか」
「いい意味でね」
「いい意味の台無しとは?」
「分かんない」
三人で笑う。
翠はしばらく考えていた。
自分が変だと言われること自体には、それほど抵抗はない。
昔から、少しずれていると言われることはあった。
ただ、美人だから許されているという発想はあまりなかった。
自分の顔は、自分にはほとんど見えない。
鏡を見る時くらいだ。
毎朝そこにあるものなので、特別ありがたいとも思っていなかった。
「つまり」
翠が言う。
「ボクは顔に救われているのか」
「かなり」
美緒が即答した。
「即答だな」
「かなりね」
莉央も頷く。
「そんなにか」
「うん」
「では感謝しよう」
「誰に?」
「両親」
「そこは真面目なんだ」
「ボクの顔を作った人たちだからな」
「急に遺伝学みたいになるのやめて」
翠は少し笑った。
その日の最後の講義が終わると、三人はそれぞれ帰り支度を始めた。
外はもう少し暗くなっている。
翠は鞄を肩へ掛けた。
その時、机の横へ置いていたペットボトルを見た。
中身は少し残っている。
飲む。
空になる。
捨てるために立つ。
「お」
美緒が言う。
「何だ」
「ちゃんと自分でゴミ捨てるんだ」
「当然だろう」
「いや、ちょっと期待してた」
「何を?」
「面倒だから誰かに頼むのかなって」
「そこまでではないぞ」
「線引きあるんだ」
「ある」
「どこ?」
「近くにゴミ箱があるかどうか」
「そこなんだ」
翠は廊下の端にあるゴミ箱へペットボトルを捨てた。
戻る。
すると莉央が笑っていた。
「やっぱ変だなあ」
「失礼だ」
「でも可愛いから成立する」
「それは褒めているのか?」
「かなり」
「なら許そう」
三人で講義棟を出る。
夕方の空気は少し涼しかった。
翠は駅へ向かう途中、前髪が風で顔にかかったので指で払った。
横断歩道の向こうから来た学生が、翠を見て一瞬だけ振り返る。
本人は気づかない。
「ほら」
美緒が小声で言った。
「何が?」
「今また見られてたよ」
「誰に?」
「もういい」
「気になるじゃないか」
「気にしなくていいって」
翠は首を傾げた。
そのまま歩く。
駅前で美緒と莉央と別れたあと、スマホを確認する。
悠人から一件。
『今日、こっち来ます?』
翠は少しだけ目を細めた。
『行く』
送る。
すぐ返事が来る。
『夕飯食べます?』
『食べる』
『何か希望あります?』
翠は歩きながら考えた。
考えるのが面倒になった。
『美味しいもの』
送る。
少しして、
『一番困るやつですね』
と返ってきた。
翠は画面を見て笑った。
そのまま最寄り駅まで帰る。
マンションへ着き、自分の部屋へ一度入った。
鞄を置く。
上着を脱ぐ。
靴下も脱ぐ。
それから、玄関へ戻る。
向かいの悠人の部屋へ行くために、また靴を履いた。
数分後。
玄関を開けた悠人は、翠を見るなり少し眉を寄せた。
「どうしたんですか」
「何が?」
「何か変な顔してますよ」
「今日、言われた」
「何をです?」
翠は靴を脱ぎながら答えた。
「ボクは美人で可愛くなかったら、ただの大学の変なやつらしい」
悠人は黙った。
「…………」
「何だ、その間は」
「いや」
「否定したまえ」
「……難しいですね」
「悠人?」
「美人でよかったですね、翠先輩」
翠はしばらく無言で悠人を見た。
「そこは否定するところだろう」
「でも窓に頬つけて冷たいって喜んでたんでしょう?」
「なぜ知っている」
「やってそうなので」
「失礼だな」
「当たってるんですか」
「当たっている」
「じゃあ仕方ないです」
悠人は先にリビングへ戻っていった。
翠はその背中を見送る。
少しだけ頬を膨らませた。
それから、いつものように後をついていった。




