翠先輩は変でもいい
水曜日の夕方、翠先輩は俺の部屋のソファで髪を結び直していた。
大学から帰ってきて、一度自分の部屋へ荷物を置いたらしい。
その十五分後には、もうこっちにいた。
今日は首輪もない。
薄い生成りのニットに、濃い色のロングスカート。大学へ行っていた時とほとんど変わらない格好で、ソファの背もたれへ寄りかかりながら、後頭部の髪を両手でまとめている。
俺はキッチンで夕飯の準備をしていた。
まな板の上には長ねぎ。
鍋には湯。
冷蔵庫から出した豚肉を横へ置き、包丁でねぎを斜めに切っていく。
「悠人」
「はい」
「見たまえ」
振り返る。
翠先輩は髪を一つにまとめ終え、得意そうに顎を少し上げていた。
「どうだ」
「何がですか」
「髪だ」
「結んだんですね」
「見れば分かるだろう」
「じゃあ何を聞いてるんです?」
「似合うかどうかだ」
そこまで言われて、もう一度見る。
明るい茶色の髪が後ろで一つにまとまり、普段は隠れている首筋が少し出ている。
似合っている。
というより、翠先輩は大体何をしてもそれなりに似合う。
「似合ってますよ」
「そうか」
「はい」
翠先輩の口元が少し上がる。
「可愛い?」
「可愛いですよ」
「ふむ」
「美人でもありますし」
「そうだろう?」
否定しない。
むしろ嬉しそうだった。
翠先輩は結んだ髪を指先で軽く触り、満足そうに一度頷いた。
「褒めても何も出ないぞっ」
「何か出してほしくて言ったわけじゃないです」
「お菓子くらいならあるが」
「出るじゃないですか」
「昨日買ったクッキーだ!」
「じゃあ後でもらいます」
「ちぇっ、現金な男だな」
「くれるって言ったの翠先輩ですよ」
俺はまたねぎへ向き直った。
包丁を動かす。
とん、とん、と小さな音が続く。
背後では翠先輩がソファの上で足を組み直した気配がした。
「しかし」
「何ですか」
「悠人は普通に言うな」
「何を」
「可愛いとか、美人とか」
「そうですか?」
「そうだぞ」
俺は少し考えた。
確かに、言う時は言う。
翠先輩がそう見えるなら、別に否定する理由もない。
「事実ですし」
「ほう」
「翠先輩、見た目はかなりいいですよ」
「見た目は?」
すぐ反応した。
俺は包丁を止める。
「はい」
「今、何か余計なものがついたな」
「つきましたね」
「詳しく聞こうじゃないか」
「やめた方がいいですよ」
「なぜだ」
「せっかく褒められて気分良さそうだったのに」
「構わない」
「本当に?」
「言ってみたまえ」
声が少し楽しそうだった。
俺は振り返った。
翠先輩はソファに座ったまま、こちらを見ている。
嫌そうではない。
むしろ何を言われるのか待っている。
「じゃあ言いますけど」
「うん」
「見た目だけなら、かなり普通に美人なんですよ」
「うん」
「服もちゃんとしてるし」
「うん」
「大学で黙って歩いてるだけなら、たぶん結構近寄りがたいくらい綺麗です」
「そうだな」
「自分で全部肯定しますね」
「悠人が言っているからな」
「でも」
「うん」
「喋った瞬間、だいぶ怪しくなるんですよね」
翠先輩の眉が少し上がった。
「怪しい?」
「まずボクって言うでしょう」
「言うな」
「語尾も変です」
「変ではない」
「『〜したまえ』とか『〜だろう』とか、普通の大学生あんまり言わないですよ」
「品があると言ってほしいな」
「あと妙に偉そうです」
「先輩だからな」
「同級生ですよ」
「先輩でもある」
「それを盾にするところも変です」
翠先輩は少し黙った。
俺は続ける。
「それに、昨日窓に頬つけてたんでしょう」
「冷たかったからな」
「十分」
「非常に良かった」
「そこですよ」
「何がだ」
「普通の人は十分もやらないです」
「気持ちいいのに?」
「そういう問題じゃないです」
翠先輩の口元が少し緩んだ。
怒ってはいない。
「他には?」
「まだ聞くんですか」
「せっかくだからな」
「何でそんな前向きなんです?」
「面白い」
「自分が攻撃されてるんですよ」
「攻撃なのか?」
「一応」
「では続けたまえ」
何となく嫌な予感がした。
俺は包丁を置き、手を洗った。
そのまま冷蔵庫から豆腐を出す。
「面倒くさがり」
「知っている」
「変なところだけ合理的」
「合理的なのはいいことだ」
「味噌汁を自然冷却するのは合理的じゃないです」
「待てば冷めるぞ」
「吹けば早いです」
「その一吹きが面倒だ」
「だから変なんですよ」
翠先輩が小さく笑った。
「あと、人の家に物を置きすぎです」
「便利だからな」
「俺の部屋ですよ」
「分かっている」
「最近、翠先輩の物が普通に視界に入るんですよ」
俺は顎でソファの横を示した。
薄いベージュのカーディガン。
テレビ台の脇の参考書。
ローテーブルの端のヘアゴム。
壁際のコンセントには、白い充電ケーブル。
「増えたな」
「増えました」
「いいことだ」
「何でですか」
「便利になる」
「翠先輩だけですよ」
「悠人もボクの物の場所が分かるようになっただろう」
「それはそうですけど」
「では双方に利益がある」
「俺の利益が薄い」
「ボクが便利そうにしているのを見られる」
「利益扱いしないでください」
翠先輩はまた笑った。
俺は鍋へ豆腐を入れる。
火を弱める。
「あと」
「まだあるのか」
「ありますよ」
「言ってみたまえ」
「家では下着だけで過ごす」
「それは効率だ」
「ペットシート使ったことある」
「それは忘れたまえ」
「首輪を自分で買った」
「気に入っている」
「自分用だって店員に言った」
「言ったな」
「それを大学の鞄に毎日入れてる」
「持っていたいからな」
「十分変ですよ」
翠先輩の頬が少し膨らんだ。
ただし、嫌そうではなかった。
「かなり言うな」
「自分で続けろって言ったじゃないですか」
「そうだが」
「もうやめます?」
聞く。
翠先輩は一瞬考えた。
「……いや」
「いや?」
「もう少し」
「何でですか」
「何というか」
翠先輩はソファの上で少し姿勢を変えた。
膝を抱えるように足を上げ、その上へ頬を乗せる。
「悠人に言われると、腹が立たない」
「それ褒めてます?」
「たぶん」
「普通は変人扱いされたら嫌でしょう」
「美人で可愛いとも言われたからな」
「帳消しになってるんですか」
「むしろ今のところプラスだ」
「強いですね」
「それに」
翠先輩は少しだけ目を細めた。
「悠人がボクの変なところをちゃんと覚えているの、ちょっと面白い」
俺は手を止めた。
「覚えたくなくても覚えますよ」
「そうか?」
「濃いんですよ、全部」
「濃い」
「一個一個が」
「例えば?」
「首輪」
「うん」
「ペットシーツ」
「だから、それはもういいだろう」
「下着生活」
「普通だ」
「普通じゃないです」
「ボクの家では普通だ」
「その理屈なら何でも成立するでしょう」
翠先輩はまた笑う。
さっきより楽しそうだった。
俺はそこで、少し妙なことに気づいた。
「翠先輩」
「何だ」
「変って言われるの、嫌じゃないんですか」
「誰に言われても平気というわけではないぞ」
「俺なら?」
少し間が空いた。
翠先輩は膝の上へ顎を乗せたまま、こちらを見る。
「悠人なら、まあ」
「まあ?」
「……いい」
「何で」
「知らない」
「適当ですね」
「でも」
翠先輩は一度視線を落とした。
「もう少し悪く言われても、多分平気だな」
「…………」
俺は黙った。
「何だ、その顔」
「いや」
「言いたいことがあるなら言いたまえ」
「翠先輩って」
「うん」
「ちょっとそういうところありますよね」
「どういうところだ」
「言わせようとするところ」
「何を?」
「自分への悪口」
「悪口ではないだろう」
「じゃあ何です?」
「観察結果」
「便利な言葉使いますね」
「獣医学科だからな」
「関係ないです」
翠先輩は楽しそうに足を揺らした。
俺は鍋の味を確認する。
少し薄い。
味噌を足す。
「じゃあ最後に一個だけ」
「うん」
「翠先輩、美人で可愛いですけど」
「うん」
「中身はかなり変です」
「うん」
「その喋り方も含めて」
「うん」
「あと、ちょっと面倒くさいです」
「うん」
「何でそんな嬉しそうなんですか」
翠先輩は少し考えた。
それから、口元を隠すでもなく笑った。
「褒められたあとだからかな」
「絶対それだけじゃないでしょう」
「さあ」
「怪しいな」
「では、もっと言ってみるかい?」
「やめときます」
「なぜだ」
「調子に乗りそうなので」
「もう少しならいいぞ」
「だから何で許可するんですか」
翠先輩は答えず、ソファの背もたれへ身体を預けた。
結んだ髪が肩の後ろへ落ちる。
俺は鍋の火を止めた。
「ご飯できましたよ」
「うん」
「運んでください」
「ボクが?」
「変人でも手は二本あるでしょう」
「言うようになったなあ」
そう言いながら、翠先輩は妙に機嫌よく立ち上がった。




