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ボクを飼ってみないか?!  作者: 御HeSummer3
第2章

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翠先輩はめんどくさい


 木曜日の夕方、俺の部屋は静かだった。


 玄関を開けた時から、それは分かっていた。


 誰もいない。


 当たり前だ。


 自分の部屋なのだから、本来はそれが普通である。


 靴を脱ぎ、鞄を置く。


 上着をハンガーへ掛ける。


 洗面所で手を洗う。


 キッチンへ入り、冷蔵庫を開ける。


 そこまでやっても、何も起こらない。


「……静かだな」


 思わず口に出た。


 いつもなら、帰宅してしばらくするとインターホンが鳴る。


 あるいは先にメッセージが来る。


『いる?』


 最近はそれだけで済む。


 俺が『いますよ』と返すと、少しして翠先輩が来る。


 来たあとは大体、勝手に麦茶を飲み、ソファへ座り、俺の部屋なのに自分の部屋みたいな顔をする。


 今日はそれがない。


 午後六時を少し過ぎている。


 翠先輩からの連絡もなかった。


 俺はスマホを取り出した。


 通知は何件か来ている。


 大学のグループ。


 宮坂。


 家族。


 翠先輩はいない。


「珍しいな」


 別に毎日来ると決まっているわけではない。


 むしろ、来ない日の方が普通だったはずだ。


 少なくとも少し前までは。


 俺はスマホを机へ置いた。


 夕飯を作る。


 今日は一人分でいい。


 これが思った以上に楽だった。


 豚肉は百五十グラム。


 玉ねぎは半分。


 卵は二個もいらない。


 味噌汁も小さい鍋で済む。


 米も炊飯器に残っている分で足りる。


 献立を考える時に、「翠先輩はこれ食べるかな」とか「嫌いじゃないよな」とか考えなくていい。


 食卓へ並べる皿も一人分。


 箸も一膳。


 麦茶のグラスも一つ。


「……楽だな」


 また口に出た。


 かなり楽だった。


 食べる時間も自由。


 食後すぐ片づけてもいい。


 ソファを占領されない。


 座布団を奪われない。


 勝手に冷蔵庫を開けられない。


 「何か甘いものはないか」と聞かれない。


 髪を撫でろとも言われない。


 妙なことを言われるたびに返事を考える必要もない。


 俺は静かな部屋で夕飯を食べた。


 テレビはない。


 もともと置いていない。


 音が欲しい時はスマホかノートパソコンで何か流せばいいし、普段はなくても困らない。


 今日はそれすらつけなかった。


 箸が皿へ触れる音。


 エアコンの小さな送風音。


 外を通る車の音。


 それだけだった。


 食べ終わる。


 食器を洗う。


 拭く。


 棚へ戻す。


 十五分もかからなかった。


「早い」


 誰も途中で話しかけてこないと、こんなに早いらしい。


 そのまま風呂を済ませた。


 髪を乾かす。


 洗濯機を回す。


 大学のレポートを開く。


 机へ向かう。


 開始時刻は午後七時二十六分。


 かなり早い。


 いつもならこの時間、翠先輩がソファにいる。


 あるいはローテーブルの横で何か食べている。


 あるいは俺の作業を覗き込んで、「まだ終わらないのか」と言ってくる。


 今日はない。


 集中できた。


 かなりできた。


 文章が進む。


 資料を確認する。


 図表を整理する。


 気づけば一時間経っていた。


 時計を見る。


 八時二十九分。


「……すごいな」


 進捗がいい。


 誰にも邪魔されていない。


 当然といえば当然だ。


 翠先輩が来ると、何かしら起きる。


 麦茶。


 お菓子。


 参考書。


 充電器。


 髪。


 寝る。


 話しかける。


 ソファから呼ぶ。


 意味もなく隣へ来る。


 そういう細かいものが全部ない。


 俺は一度椅子の背もたれへ身体を預けた。


 部屋を見る。


 静かだった。


 それから、妙に目についた。


 翠先輩の物が多い。


「……増えたな」


 前にも思ったが、改めて見るとかなりある。


 ソファの肘掛けには、薄いベージュのカーディガン。


 ローテーブルの端にはヘアゴムが二本。


 棚の横には獣医病理学の参考書。


 コンセントには白い充電ケーブル。


 キッチンの棚には翠先輩用のグラス。


 小さな紙袋の中には、この前持ってきた焼き菓子の残りの包装。


 ソファの隙間には、見覚えのないボールペンまで落ちていた。


「これもか」


 拾う。


 薄い水色。


 翠先輩が大学で使っていた気がする。


 いつ置いていったのかは分からない。


 俺はボールペンをローテーブルへ置いた。


 改めて見る。


「ちょっと片づけるか」


 本人がいない。


 今ならできる。


 翠先輩がいる時にやると、「それはそこがいい」とか「まだ使う」とか「動かすな」とか言い出しそうだった。


 俺はまずカーディガンを畳んだ。


 ソファの肘掛けへ掛けっぱなしだったものを、軽く整える。


 シワを伸ばす。


 それから棚の一段を空けた。


 もともと俺の参考書が入っていたが、少し詰めれば余裕ができる。


 そこへ翠先輩の病理学の本を入れる。


 隣にボールペン。


 ヘアゴムは小さなトレーへまとめる。


 充電ケーブルはコンセントへ刺したままだと邪魔なので、コードを軽くまとめ、棚の横へ引っかける。


 グラスはそのまま。


 キッチンの棚の中。


 俺のグラスの右隣。


 そこだけは、もう場所が決まっている。


「……何してるんだ、俺」


 途中で少し思った。


 捨てるでもなく。


 返すでもなく。


 片づけている。


 しかも、使いやすいように。


 俺は一度手を止めた。


 棚を見る。


 上段は俺の本。


 その横に翠先輩の本。


 小さなトレーに翠先輩のヘアゴム。


 横に翠先輩のボールペン。


 充電ケーブル。


 畳んだカーディガン。


「……まあ」


 散らかっているよりはいい。


 それだけだ。


 本人が次に来た時も、探さなくて済む。


 俺も床に落ちている物を踏まなくて済む。


 合理的である。


 そういうことにした。


 片づけが終わると、部屋はさらに静かになった。


 視界もすっきりする。


 ソファも空いている。


 ローテーブルの上にも物がない。


 かなり快適だった。


 俺は満足して机へ戻った。


 レポートを再開する。


 午後九時十八分。


 進捗はまだいい。


 今日は十二時前に寝られるかもしれない。


 素晴らしい。


 そこで、ふとスマホを見た。


 通知は増えていない。


 翠先輩からも来ていない。


「本当に来ないな」


 別に来なくていい。


 来ない方が楽だ。


 今日の俺はかなり順調だ。


 そう思いながら、なんとなくメッセージ画面を開いた。


 最後のやり取りは昨日。


『明日も大学だな』

『そうですね』

『寝坊しないようにする』

『してください』

『努力する』


 そこで終わっている。


 俺は入力欄を開いた。


『今日は来ないんですか』


 打つ。


 少し見る。


 消す。


「別にいいか」


 来ないなら来ないでいい。


 用事があるかもしれない。


 美緒さんや莉央さんとどこかへ行っているのかもしれない。


 自分の部屋で寝ている可能性も高い。


 俺はスマホを伏せた。


 またレポートへ戻る。


 九時四十三分。


 インターホンは鳴らない。


 十時十二分。


 鳴らない。


 十時半。


 さすがに今日は来ないだろう。


 俺はレポートを保存した。


 今日はかなり進んだ。


 シャワーも済んでいる。


 部屋も片づいた。


 洗濯物も干してある。


 明日の準備もできる。


「平和だな」


 俺は立ち上がった。


 冷蔵庫から麦茶を出す。


 グラスを取る。


 一つ。


 棚へ手を伸ばした時、右隣のグラスが目に入った。


 翠先輩のもの。


 俺は一瞬だけそこを見る。


 取らない。


 一人だから当然だ。


 麦茶を注ぐ。


 飲む。


 静かだ。


 本当に静かだった。


 そこで、スマホが鳴った。


「ん?」


 メッセージではない。


 電話でもない。


 玄関のインターホンだった。


「……まさか」


 時計を見る。


 午後十時四十一分。


 モニターを見る。


 いた。


 翠先輩だった。


 髪は少し乱れている。


 大学へ行った時の服とは違い、ゆるい長袖のシャツにスカート。


 片手には何も持っていない。


 妙に困った顔をしている。


 俺は通話ボタンを押した。


「どうしたんですか」


『開けてくれ』


「遅いですよ」


『事情がある』


「何です?」


『スマホを忘れた』


「どこに」


『家に』


「……今ここに来るまで気づかなかったんですか」


『違う』


「じゃあ何です?」


『今日一日ずっと忘れていた』


「…………」


『大学にも持っていかなかった』


「何で」


『朝、充電していた』


「はい」


『そのまま置いてきた』


「はい」


『帰ってからも見ていなかった』


「はい」


『寝ていた』


「でしょうね」


『起きたら十時半だった』


「でしょうね」


 予想通りだった。


 美緒さんたちと出かけていたわけでもない。


 何か特別な予定があったわけでもない。


 ただスマホを家に忘れ、帰宅して寝ていた。


 それだけだった。


「で、何で今来たんです?」


 少し間が空いた。


『起きたから』


「理由になってないですよ」


『悠人がいると思った』


「いますけど」


『なら開けてくれ』


「もう寝る準備してたんですけど」


『まだ寝てないだろう』


「そうですけど」


『では問題ない』


「ありますよ」


『寒い』


「廊下で何してるんですか」


『待っている』


 俺はため息をついた。


 ロックを解除する。


「上がってきてください」


『うん』


 通話が切れた。


 数分後。


 玄関のチャイムが鳴る。


 扉を開ける。


 翠先輩が立っていた。


「こんばんは」

「こんばんはじゃないですよ」

「遅くにすまない」

「分かってるなら来ないでください」

「でも来た」

「知ってます」


 翠先輩は靴を脱ぎ、当然のように上がる。


 そこで廊下の先を見る。


「何か綺麗になったな」

「片づけたんですよ」

「何を?」

「翠先輩の物」


 足が止まった。


「ボクの?」

「増えてたので」


 翠先輩はリビングへ入る。


 棚を見る。


 自分の参考書。


 ボールペン。


 ヘアゴム。


 まとめた充電ケーブル。


 畳まれたカーディガン。


 一つずつ確認する。


「……整理されている」

「散らかってたので」

「ボク専用みたいだな」

「違います」

「でも一箇所にある」

「俺が楽だからです」

「そうか」


 翠先輩は妙に満足そうだった。


 それからキッチンへ向かう。


「麦茶」

「自分でどうぞ」

「うん」


 棚を開ける。


 右隣のグラスを取る。


 さっき俺が使わなかった方。


 麦茶を注ぐ。


 一口飲む。


「生き返った」

「家でも飲めたでしょう」

「面倒だった」

「じゃあ何でこっちまで来たんですか」

「それは来たかったからだな」


 あまりにも普通に言ったので、俺は一瞬だけ黙った。


 翠先輩は気にせずグラスを持ってソファへ向かう。


「あ」


 俺が声を出す。


「何だ」

「そこ、今日ずっと空いてたんですよ」

「そうか」

「かなり平和でした」

「ほう」

「レポートも進んだし、夕飯も一人分で楽だったし、片づけもできたし」

「よかったじゃないか」

「はい」

「ではボクは邪魔なのか?」


 翠先輩がソファの前で振り返る。


 少しだけ楽しそうな顔をしていた。


 昨日の続きみたいだった。


 俺は少し考える。


「かなり」

「そうか」

「かなり邪魔です」

「うん」

「静かな一日が終わりました」

「それは残念だな」

「誰のせいですか」

「ボクだな」

「分かってるじゃないですか」


 翠先輩は笑った。


 それから、何の遠慮もなくソファへ座る。


 背もたれへ身体を預ける。


 麦茶をもう一口飲む。


「落ち着く」

「俺はさっきまで落ち着いてたんですけど」

「では交換だ」

「何と何を」

「ボクが落ち着いて、悠人が落ち着かなくなる」

「最悪の交換ですね」

「公平だろう?」

「どこが」


 翠先輩は答えなかった。


 代わりに、棚へ視線を向ける。


「ヘアゴム、そこなんだな」

「まとめました」

「ボールペンもあったのか」

「ソファの隙間に」

「知らなかった」

「でしょうね」

「カーディガンも畳んだ?」

「畳みました」

「悠人」

「何です」

「ありがとう」

「どういたしまして」


 少しだけ間が空いた。


 それから翠先輩はソファの上で足を伸ばした。


「今日は何も食べていない」


「は?」

「夕方から寝ていたからな」

「昼は」

「食べた」

「夕飯は?」

「まだ」

「もう十時過ぎですよ」

「うん」


 静かだった部屋が、急に面倒になった。


 冷蔵庫を見る。


 残り物。


 卵。


 ご飯。


 何か作れなくはない。


 翠先輩はソファからこちらを見る。


 何も言わない。


 ただ見る。


「……何ですか」

「別に」

「その顔やめてください」

「何もしていないぞ」

「分かりましたよ」


 俺は冷蔵庫を開けた。


 背後で、翠先輩が小さく笑った気配がした。


「何か作るんですか」

「簡単なものだけです」

「うん」

「食べたら帰ってくださいよ」

「善処する」

「帰る気ない人の言い方でしょう、それ」

「よく分かったな」


 俺は卵を取り出した。


 十分前まで、この部屋はとても平和だった。

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