翠の飼育論
飼い主というものは、甘やかしてばかりではいけない。
これはボクの持論だ。
もちろん、誰かに教わったわけではない。
獣医学科の講義でも習っていない。
動物園の先輩たちに聞いたこともない。
ボクが勝手に考えた。
だから正しい。
少なくとも、ボクの中では。
金曜日の夜。
ボクは悠人の部屋のソファに座っていた。
首には、例の首輪。
黒に近い焦げ茶色の細い革。
大学から帰って一度自分の部屋へ入り、鞄を置き、着替え、少しだけ横になって、それから持ってきた。
大学ではつけない。
動物園でもつけない。
外でもつけない。
ボクはそこまでおかしくはない。
たぶん。
ただ、悠人の部屋ならいい。
ここはもう、そういう場所なのだと思う。
何がそういう場所なのかと聞かれると、説明は難しい。
ボクのグラスがある。
充電器がある。
参考書がある。
ヘアゴムもある。
カーディガンまである。
昨日、全部綺麗に整理された。
つまり、かなりボクの場所である。
割合で言えば、一割くらい。
いや、二割。
そのくらいは主張してもいいだろう。
「翠先輩」
キッチンから悠人の声がした。
「何だ」
「それ、邪魔じゃないんですか」
「何が?」
「首輪」
ボクは首元へ指をやった。
「別に」
「そうですか」
「似合っているしな」
「自分で言うんですね」
「悠人も言っただろう」
「まあ」
「では問題ない」
「そういう問題じゃないですけど」
悠人はそれ以上何も言わなかった。
冷蔵庫を開ける。
何かを取り出す。
今日は夕飯を食べに来たわけではない。
正確には、来た時点では食べるつもりはなかった。
ただ、午後七時半を過ぎて悠人の部屋にいて、悠人が台所に立っているなら、結果として食べることになる可能性は高い。
これは仕方がない。
自然現象に近い。
ペットというものは、餌の時間になると飼い主の近くへ行く。
これも持論だ。
たぶん犬も猫もそうだろう。
中央常磐動物園の動物たちは、もちろんそんな単純ではない。
給餌時刻と行動の結びつきは個体によって違うし、環境、体調、警戒、季節、刺激によっても変わる。
それは分かっている。
分かっているが、ボクはペットなので別枠だ。
都合の悪い専門知識は、今だけ棚へ上げる。
「悠人」
「はい」
「腹が減った」
「そうですか」
以上。
返事が終わった。
ボクは待った。
三秒。
五秒。
十秒。
悠人は鍋に水を入れている。
「悠人」
「聞こえてますよ」
「腹が減った」
「二回目ですね」
「一回目で何も出なかったからな」
「自分の家の冷蔵庫に何かあるでしょう」
「ある」
「じゃあ帰って食べてください」
いい。
非常にいい。
これである。
飼い主とは、こうでなくてはいけない。
何でも「はいはい」と聞いてしまう飼い主はよくない。
ペットが増長する。
要求をすれば全部通ると思ってしまう。
その結果、わがままになる。
ボクはすでにわがままなので、なおさらよくない。
適度に拒否される必要がある。
悠人はその点、優秀だった。
麦茶を取ってくれない。
夕飯も簡単には作ってくれない。
髪を撫でろと言っても毎回は撫でない。
ソファから動きたくないと言えば、自分で動けと言う。
遅い時間に来れば帰れと言う。
ボクのことを美人で可愛いと言いながら、同じ口で変人とも面倒くさいとも言う。
かなりいい。
非常にバランスがいい。
「何で笑ってるんですか」
気づかれた。
「笑っていない」
「笑ってますよ」
「気のせいだ」
「口元上がってますけど」
ボクは手で口を隠した。
「これでどうだ」
「隠しただけでしょう」
「観測できなければ存在しない」
「量子力学みたいなこと言わないでください」
悠人は呆れた顔で鍋を火にかけた。
その顔も悪くない。
ボクはソファの上で足を伸ばした。
首輪が少し動く。
革が首に触れる。
別に苦しくはない。
店でちゃんと試した。
指も入る。
安全。
見た目もいい。
何より、つけていると少しだけ気分が違う。
自分で買って、自分でつけて、自分で気に入っているだけなのだが、悠人の部屋でつけると妙に収まりがいい。
飼い主の家だからだろう。
たぶん。
いや、そういうことにする。
「翠先輩」
「うん」
「今日、それつけてるってことは」
「うん」
「また変なこと考えてます?」
鋭い。
「失礼だな」
「違うんですか」
「変ではない」
「じゃあ何考えてるんです」
「飼い主について」
悠人の手が止まった。
「…………」
「何だ」
「やっぱり変なこと考えてるじゃないですか」
「変ではないと言っている」
「飼い主って誰です?」
「悠人」
「違います」
即答だった。
いい。
これもいい。
「なぜだ」
「なぜも何もないですよ」
「ボクはペットだぞ」
「人間です」
「人間型のペット」
「新種作らないでください」
「分類上の問題だろう」
「分類以前の問題です」
悠人は包丁を取り出した。
まな板へ玉ねぎを置く。
今日も何か作るらしい。
さっき帰って食べろと言ったくせに、二人分になりそうな量を出している。
ここが悠人の面倒なところだ。
口では冷たい。
行動は少し甘い。
ただし、甘いことを本人は認めない。
ペットからすると非常に扱いやすい。
「飼い主はな」
「聞いてないです」
「聞きたまえ」
「嫌です」
「飼い主は、少し冷たいくらいがいい」
「だから聞いてないですって」
「何でもしてくれると駄目なんだ」
「はいはい」
「適度に断る」
「はい」
「必要なら叱る」
「はい」
「でも最終的にはちゃんと面倒を見る」
悠人がこちらを見た。
「誰の話です?」
「一般論だ」
「絶対俺の話でしょう」
「一般的な悠人の話だ」
「一般的じゃないですよ」
ボクは笑った。
悠人は眉を寄せる。
少し面倒そうな顔。
これも良い。
飼い主に呆れられるというのは、なかなか味わい深い。
完全に見放されるのは困る。
でも、少し呆れられるくらいがちょうどいい。
ペットというものは、たぶん少し手がかかる方が可愛がられる。
何でも完璧にできるペットでは、飼い主の出番がない。
その点、ボクはかなり優秀だった。
朝は弱い。
面倒なことは嫌い。
自炊はできるが、したくない。
掃除もできるが、なるべく後回しにしたい。
スマホを家に忘れたまま大学へ行く。
帰って寝る。
夜中に飼い主の家へ行く。
ご飯がまだだと言う。
かなり手がかかる。
つまり、ペット適性が高い。
「翠先輩」
「うん」
「今、またろくでもない結論出しました?」
「なぜ分かる」
「顔」
「ボクの顔は美人だぞ」
「そういう意味じゃないです」
「可愛くもある」
「昨日言いましたね」
「今日も言っていいぞ」
「嫌です」
「なぜだ」
「調子に乗るから」
胸のあたりが少しだけくすぐったくなった。
褒められなかったのに。
むしろ拒否されたのに。
それが少し楽しい。
「もう一回」
「何がです?」
「嫌です、を」
「は?」
「もう一回言ってみたまえ」
「嫌です」
「うん」
「……何ですか、その反応」
「いいな」
「何が」
「冷たい」
「褒めてます?」
「かなり」
悠人が包丁を止めた。
こちらを見る。
その目が少しだけ警戒している。
「翠先輩」
「うん」
「昨日から思ってましたけど」
「うん」
「本当にちょっとそういうところありますよね」
「どういうところだ」
「俺に冷たくされると妙に機嫌よくなるところ」
言われた。
かなり正確だった。
ボクは少し考えた。
「否定はしない」
「してくださいよ」
「なぜ嘘をつく必要がある」
「開き直りましたね」
「昨日、悠人が教えてくれたからな」
「何を」
「ボクはもう少し悪く言われても平気だと」
「自分で言ったんでしょう」
「そうだった」
「忘れるの早いな」
「細かいことはいい」
「よくないです」
悠人はまた玉ねぎを切り始める。
包丁の音が規則正しく続く。
ボクはその背中を見る。
冷たいと言っても、本当に冷たいわけではない。
そこは重要だった。
本当に嫌われるのは嫌だ。
本当に邪魔だと思われて、来るなと言われるのも困る。
でも悠人の「帰ってください」は、大抵そのあとご飯が出る。
「自分で取ってください」は、麦茶の場所をちゃんと覚えている前提で言われる。
「面倒くさい」は、ボクの物を棚へ整理してから言う。
だから安心して嫌がれる。
安心して拒否される。
たぶん、それが面白い。
ボクは膝を立て、その上に顎を乗せた。
「ねぇ、悠人」
「何です」
「もっと冷たくしてみたまえ」
包丁が止まった。
今度はかなり長く止まった。
「嫌です」
「うん」
「……喜ばないでください」
「無理だ」
「何で」
「今のはかなり良かった」
「知らないですよ」
「もう一回」
「しません」
「いい」
「何がいいんですか」
「そこだ」
「面倒くさいな、この人」
身体の奥が少しだけ跳ねた。
「……今のもいい」
「最悪だ」
「それもいい」
「もう喋らないでください」
「かなりいい」
悠人が額を押さえた。
ボクは笑った。
これは楽しい。
かなり楽しい。
悠人が困るほど、少し嬉しい。
飼い主を困らせるのもペットの仕事なのかもしれない。
いや、仕事ではない。
趣味だ。
「翠先輩」
「うん」
「一回黙っててもらえます?」
「嫌だ」
「じゃあ帰ってください」
「もっと嫌だ」
「子供ですか」
「ペットだ」
「人間です」
「人間型だ」
「その設定まだ続いてるんですか」
「一生続ける予定だ」
「勝手にしてください」
「うん」
「だから嬉しそうにしないでください」
「無理だな」
悠人は諦めたように息を吐いた。
鍋へ玉ねぎを入れる。
次に豚肉。
醤油。
みりん。
少し甘い匂いが広がる。
やはり二人分だった。
ボクはそこを指摘しない。
飼い主には飼い主なりの矜持がある。
ペットが全部分かっている顔をすると、たぶん面白くない。
だから黙って待つ。
これは気遣いだ。
かなり高度な。
数分後、悠人が器を二つ並べた。
「できましたよ」
「うん」
「運んでください」
「飼い主が運ぶものでは?」
「じゃあ食べなくていいです」
「運ぶ」
すぐ立った。
悠人が呆れた顔をした。
「素直ですね」
「ペットは学習するものだ」
「都合いい時だけ」
「褒めてもいいぞ」
「褒めません」
「うん」
「……だからそれで満足しないでください」
ボクは器を持った。
首元で革が少し動く。
悠人の横を通る時、ちらりと顔を見る。
また少し呆れている。
非常にいい。
たぶん飼い主というものは、こういうやつでいいのだ。




