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ボクを飼ってみないか?!  作者: 御HeSummer3
第2章

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翠先輩は磨いてもらいたい


 月曜日の朝八時五十分。


 インターホンが鳴った。


 大学へ出るには、まだ少し早い。


 俺は玄関まで行き、扉を開ける。


「予約客だ」


 翠先輩が立っていた。


 昨日と同じ白っぽい長袖のカットソーに、濃い色のスカート。髪は少し跳ねていて、顔にもまだ眠気が残っている。


 肩には大学用のバッグだけを掛けていた。


「本当に来たんですか」

「九時くらいと言っただろう?」

「予約は受け付けてません」

「でもヨーグルトはある」

「ありますけど」

「では問題ないな」


 何が問題ないのかは分からない。


 それでも追い返す理由もなく、身体を退ける。


 翠先輩は慣れた足取りで廊下を抜け、そのままキッチンへ向かった。


 冷蔵庫を開ける。


 昨日見つけたヨーグルトは、まだ二つ並んでいる。


 一つを取った。


「ボクの」

「一つだけですよ」

「昨日聞いた」


 棚から自分のグラスを取る。


 俺の右隣。


 もう場所を確認する必要もない。


 麦茶を注いで、ローテーブルへ運ぶ。


 そのままソファへ座った。


「朝飯、それだけですか?」

「家でバナナを食べた」

「ならまあ」

「褒めたまえ」

「何をです?」

「朝飯を食べたこと」

「普通です」

「冷たい」


 言いながら、翠先輩は少し嬉しそうだった。


 昨日から妙に「冷たい」を褒め言葉として受け取るようになっている。


 俺は自分の朝食の残りを片づけ、大学へ持っていく資料を確認した。


 後ろでは、スプーンがカップの底へ当たる音がする。


 朝の部屋に他人がいる。


 しかも、これから同じ大学へ行く相手が。


 少し前なら変な感じがしたはずなのに、今日はそこまででもなかった。


「悠人」

「何です?」

「歯を磨きたい」

「磨けばいいでしょう」

「歯ブラシがない」

「そりゃそうでしょうね」

「ここには」


 その言い方が引っかかった。


 俺は振り返る。


 翠先輩は空になったヨーグルトの容器を持ったまま、こちらを見ていた。


「家にはあるぞ」

「知ってます」

「取りに戻るのが面倒だ」

「十二秒ですよ」

「往復なら二十四秒だ」

「増やしても短いです」

「その二十四秒を削減したい」

「朝から全力で怠けますね」


 翠先輩は容器を捨て、バッグを持ち上げた。


「仕方ない。取ってくる」


「……」


 玄関へ向かおうとする。


 その背中を見て、俺は何となく口を開いた。


「歯ブラシくらい、こっちに置いとけばいいんじゃないですか」


 翠先輩が止まった。


 俺も止まった。


 言ってから、少しだけ考える。


 別に大したことではない。


 最近は夕飯を食べていくことも多い。


 昨日は風呂まで使った。


 朝に来ることも、今日で実績ができた。


 そのたびに歯ブラシを取りに帰るくらいなら、一本置いておいた方が楽だ。


 合理的ではある。


「いいのか?」


 振り返った翠先輩の声は、思ったより静かだった。


「一本くらいなら」

「一本くらい」

「歯ブラシだけですよ」

「分かった!」


 返事が妙に素直だった。


 そのまま玄関を出る。


 二分もしないうちに戻ってきた。


「早いですね」

「急いだ」

「二十四秒を惜しんでた人が」

「必要経費だ」


 今度は小さなポーチを持っている。


 洗面所へ入る。


 俺も何となく後ろから覗いた。


 翠先輩がポーチを開く。


 歯ブラシ。


 歯磨き粉。


 ヘアブラシ。


 小さな化粧水。


 乳液。


 替えの髪ゴム。


「多くないですか?」

「最低限だ」

「歯ブラシだけって言いましたよね」

「歯ブラシを置くなら、その周辺設備も必要だろう?」

「設備って」

「洗面所は生活インフラだ」

「言い方で正当化しないでください」


 翠先輩は俺の歯ブラシ立てを見る。


 一本分、空いている。


 そこへ自分の歯ブラシを差した。


 二本並ぶ。


「……」


 妙な絵だった。


 ただの歯ブラシなのに、急に洗面所だけ生活感が増した気がする。


「ボクの場所だ」

「歯ブラシの場所です」

「似たようなものだろう?」

「全然違います」


 翠先輩は気にせず、化粧水と乳液を棚の端へ置く。


 ヘアブラシは空いていた小さな籠へ。


 髪ゴムは一本だけ、鏡の前。


「増えてるじゃないですか」

「歯磨き関連だ」

「ヘアブラシが?」

「身だしなみ関連」

「範囲を広げないでください」


 結局、棚の端に小さな一角ができた。


 俺の物ではないものが、そこだけまとまっている。


 昨日まではなかった場所だ。


「これ以上は駄目ですよ」

「分かっている」

「本当に?」

「信用がないなあ」

「実績がありますから」


 翠先輩は満足そうに洗面台の前へ立った。


 新品ではない、自分の歯ブラシを取る。


 歯磨き粉をつける。


 ここまでは普通だった。


 そこから動かない。


「何してるんです?」

「考えている」

「何を?」

「飼い主について」

「朝からやめてください」


 翠先輩が鏡越しに俺を見る。


 歯ブラシを持ったまま、少し顎を上げた。


「飼い主はペットの歯を磨くものだろう?」

「嫌です」


 反射で返した。


 翠先輩が眉を寄せる。


「まだ何も頼んでいない」

「頼む顔してます」

「では正式に頼もう」

「嫌です」

「磨いてくれ」

「自分でできますよね」

「できる」

「じゃあ自分でやってください」

「やりたくない」

「できないとやりたくないは違います」

「結果として、今ボクの歯は磨かれていない」

「理屈が雑すぎる」


 翠先輩は歯ブラシを持ったまま、こちらへ向き直る。


「犬猫のデンタルケアは大切だ」

「それはそうですけど」

「口腔環境は全身状態にも関わる」

「知ってます」

「歯周病予防も必要だ」

「だから自分で磨いてください」


「飼育個体の健康管理は飼育者の責任では?」

「翠先輩は飼育個体じゃないです」

「人間型ペットだ」

「まだその分類使うんですか」

「首輪もある」

「自分で買ったやつです」

「餌も出る」

「夕飯です」

「風呂も借りた」

「昨日だけです」

「肩も揉んでもらった」

「全部歯磨きと関係ないでしょう」


 翠先輩は少し考えた。


「つまり、飼育実績は十分だな」

「どうしてそうなるんですか」


 朝から元気だ。


 眠そうだった顔も、いつの間にか楽しそうになっている。


 俺は時計を見る。


 まだ少し余裕はある。


 ただし、ここで付き合う必要はない。


「自分で磨いてください」

「悠人」

「嫌です」

「飼い主」

「違います」

「可哀想な翠先輩」


 そこで手が止まった。


 昨日の言葉を使ってきた。


 翠先輩は歯ブラシを握ったまま、洗面台の前に立っている。


 二十歳。


 国立大学の獣医学科二年。


 動物園では俺より経験が長く、ネコ科の仕事もちゃんとこなす。


 自分の歯くらい当然磨ける。


 なのに今は、人の家の洗面所で歯ブラシを持ったまま、磨いてもらうのを待っている。


「……」


 やっぱり少し可哀想だった。


「何だ、その目は」

「いや」

「可哀想だと思っただろう」

「少し」

「では」


 翠先輩が歯ブラシを差し出してくる。


 嬉しそうだ。


「一回だけですよ」

「やった」

「喜ぶところじゃないでしょう」


 歯ブラシを受け取る。


 翠先輩は素直に洗面台の前へ戻った。


 俺も隣へ立つ。


 鏡の中に二人映る。


 何をしているんだろうとは思う。


「口開けてください」


 翠先輩が素直に開ける。


「もう少し」


 少し顎が上がった。


 頬へ軽く手を添え、角度を変える。


 歯ブラシを当てる。


 さすがに適当にやる気にはならなかった。


 歯茎を傷つけないように力を抜き、外側から小さく動かす。


 翠先輩は鏡越しにこっちを見ていた。


「見なくていいです」

「ん」

「喋らないでください」

「んー」

「だから分かりませんって」


 指で奥を示す。


「奥ですか?」

「ん」

「後でやります」


 前歯。


 犬歯。


 臼歯。


 左右を順番に磨く。


 少し顔を横へ向けてもらい、奥へブラシを入れる。


 翠先輩は思ったより大人しくしている。


 たまに何か言いたそうにする以外は。


「口閉じないでください」

「ん」

「笑わない」

「んふ」

「磨きにくいです」


 肩が小さく揺れる。


 何がそんなに楽しいのか分からない。


 外側が終わる。


「次、内側」


 翠先輩の目が少し丸くなった。


「何です?」

「んー」

「ちゃんとやるなら全部やりますよ」

「ん」


 今度は前歯の裏側。


 奥歯の内側。


 噛み合わせ。


 最後にもう一度全体を軽く確認する。


 自分でも、少し丁寧すぎる気がした。


「はい、終わり」


 歯ブラシを渡す。


 翠先輩は口をゆすぎ、顔を上げた。


 鏡の中で満足そうに笑っている。


「かなり丁寧だった」

「やるならちゃんとやりますよ」

「飼い主適性が高い」

「二度とやりません」

「そこだけ適性が低いな」

「自分で磨ける人の歯を毎朝磨く趣味はないです」

「毎朝とは言っていない」

「明日も頼む顔してます」

「ばれたか」


 翠先輩は歯ブラシを水で洗った。


 軽く振って水気を落とす。


 それから、俺の歯ブラシの横へ戻す。


 二本並ぶ。


 さっきより、その光景が少しだけ馴染んで見えた。


「持って帰らないんですね」

「置いていいと言ったのは悠人だろう?」

「歯ブラシは、ですけど」

「明日も使う」

「自分で磨いてくださいよ」

「それは明日のボクと悠人が相談する」

「俺を当事者にしないでください」


 大学へ出る時間が近づいた。


 翠先輩は洗面所から出ると、自分のバッグを持つ。


 玄関で靴を履く。


「忘れ物ないですか?」

「ある」

「何です?」

「化粧水」

「置いたんでしょう」

「そうだった」

「忘れ物じゃないです」

「歯ブラシも」

「それも置いたんです」

「ヘアブラシも」

「全部自分で置いたんですよ」


 翠先輩は少し考える。


「では、忘れ物はない」

「最初からそう言ってください」

「ただ」

「まだ何か?」


 翠先輩が一度、洗面所の方を見る。


「置いていく物は増えたな」

「増やしたんでしょう」

「悠人が置いていいと言った」

「歯ブラシくらいって言いました」

「くらい、は範囲が広い」

「広くないです」


 翠先輩は笑いながら扉を開けた。


「行くぞ、悠人」

「はい」


 鍵を持って後を追う。


 玄関を出る前に、もう一度だけ洗面所へ目を向けた。


 見えなくても分かる。


 歯ブラシが二本。


 棚の端には、小さなポーチと化粧水。


 昨日までは全部なかった。


 俺は扉を閉めた。

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