翠先輩は磨いてもらいたい
月曜日の朝八時五十分。
インターホンが鳴った。
大学へ出るには、まだ少し早い。
俺は玄関まで行き、扉を開ける。
「予約客だ」
翠先輩が立っていた。
昨日と同じ白っぽい長袖のカットソーに、濃い色のスカート。髪は少し跳ねていて、顔にもまだ眠気が残っている。
肩には大学用のバッグだけを掛けていた。
「本当に来たんですか」
「九時くらいと言っただろう?」
「予約は受け付けてません」
「でもヨーグルトはある」
「ありますけど」
「では問題ないな」
何が問題ないのかは分からない。
それでも追い返す理由もなく、身体を退ける。
翠先輩は慣れた足取りで廊下を抜け、そのままキッチンへ向かった。
冷蔵庫を開ける。
昨日見つけたヨーグルトは、まだ二つ並んでいる。
一つを取った。
「ボクの」
「一つだけですよ」
「昨日聞いた」
棚から自分のグラスを取る。
俺の右隣。
もう場所を確認する必要もない。
麦茶を注いで、ローテーブルへ運ぶ。
そのままソファへ座った。
「朝飯、それだけですか?」
「家でバナナを食べた」
「ならまあ」
「褒めたまえ」
「何をです?」
「朝飯を食べたこと」
「普通です」
「冷たい」
言いながら、翠先輩は少し嬉しそうだった。
昨日から妙に「冷たい」を褒め言葉として受け取るようになっている。
俺は自分の朝食の残りを片づけ、大学へ持っていく資料を確認した。
後ろでは、スプーンがカップの底へ当たる音がする。
朝の部屋に他人がいる。
しかも、これから同じ大学へ行く相手が。
少し前なら変な感じがしたはずなのに、今日はそこまででもなかった。
「悠人」
「何です?」
「歯を磨きたい」
「磨けばいいでしょう」
「歯ブラシがない」
「そりゃそうでしょうね」
「ここには」
その言い方が引っかかった。
俺は振り返る。
翠先輩は空になったヨーグルトの容器を持ったまま、こちらを見ていた。
「家にはあるぞ」
「知ってます」
「取りに戻るのが面倒だ」
「十二秒ですよ」
「往復なら二十四秒だ」
「増やしても短いです」
「その二十四秒を削減したい」
「朝から全力で怠けますね」
翠先輩は容器を捨て、バッグを持ち上げた。
「仕方ない。取ってくる」
「……」
玄関へ向かおうとする。
その背中を見て、俺は何となく口を開いた。
「歯ブラシくらい、こっちに置いとけばいいんじゃないですか」
翠先輩が止まった。
俺も止まった。
言ってから、少しだけ考える。
別に大したことではない。
最近は夕飯を食べていくことも多い。
昨日は風呂まで使った。
朝に来ることも、今日で実績ができた。
そのたびに歯ブラシを取りに帰るくらいなら、一本置いておいた方が楽だ。
合理的ではある。
「いいのか?」
振り返った翠先輩の声は、思ったより静かだった。
「一本くらいなら」
「一本くらい」
「歯ブラシだけですよ」
「分かった!」
返事が妙に素直だった。
そのまま玄関を出る。
二分もしないうちに戻ってきた。
「早いですね」
「急いだ」
「二十四秒を惜しんでた人が」
「必要経費だ」
今度は小さなポーチを持っている。
洗面所へ入る。
俺も何となく後ろから覗いた。
翠先輩がポーチを開く。
歯ブラシ。
歯磨き粉。
ヘアブラシ。
小さな化粧水。
乳液。
替えの髪ゴム。
「多くないですか?」
「最低限だ」
「歯ブラシだけって言いましたよね」
「歯ブラシを置くなら、その周辺設備も必要だろう?」
「設備って」
「洗面所は生活インフラだ」
「言い方で正当化しないでください」
翠先輩は俺の歯ブラシ立てを見る。
一本分、空いている。
そこへ自分の歯ブラシを差した。
二本並ぶ。
「……」
妙な絵だった。
ただの歯ブラシなのに、急に洗面所だけ生活感が増した気がする。
「ボクの場所だ」
「歯ブラシの場所です」
「似たようなものだろう?」
「全然違います」
翠先輩は気にせず、化粧水と乳液を棚の端へ置く。
ヘアブラシは空いていた小さな籠へ。
髪ゴムは一本だけ、鏡の前。
「増えてるじゃないですか」
「歯磨き関連だ」
「ヘアブラシが?」
「身だしなみ関連」
「範囲を広げないでください」
結局、棚の端に小さな一角ができた。
俺の物ではないものが、そこだけまとまっている。
昨日まではなかった場所だ。
「これ以上は駄目ですよ」
「分かっている」
「本当に?」
「信用がないなあ」
「実績がありますから」
翠先輩は満足そうに洗面台の前へ立った。
新品ではない、自分の歯ブラシを取る。
歯磨き粉をつける。
ここまでは普通だった。
そこから動かない。
「何してるんです?」
「考えている」
「何を?」
「飼い主について」
「朝からやめてください」
翠先輩が鏡越しに俺を見る。
歯ブラシを持ったまま、少し顎を上げた。
「飼い主はペットの歯を磨くものだろう?」
「嫌です」
反射で返した。
翠先輩が眉を寄せる。
「まだ何も頼んでいない」
「頼む顔してます」
「では正式に頼もう」
「嫌です」
「磨いてくれ」
「自分でできますよね」
「できる」
「じゃあ自分でやってください」
「やりたくない」
「できないとやりたくないは違います」
「結果として、今ボクの歯は磨かれていない」
「理屈が雑すぎる」
翠先輩は歯ブラシを持ったまま、こちらへ向き直る。
「犬猫のデンタルケアは大切だ」
「それはそうですけど」
「口腔環境は全身状態にも関わる」
「知ってます」
「歯周病予防も必要だ」
「だから自分で磨いてください」
「飼育個体の健康管理は飼育者の責任では?」
「翠先輩は飼育個体じゃないです」
「人間型ペットだ」
「まだその分類使うんですか」
「首輪もある」
「自分で買ったやつです」
「餌も出る」
「夕飯です」
「風呂も借りた」
「昨日だけです」
「肩も揉んでもらった」
「全部歯磨きと関係ないでしょう」
翠先輩は少し考えた。
「つまり、飼育実績は十分だな」
「どうしてそうなるんですか」
朝から元気だ。
眠そうだった顔も、いつの間にか楽しそうになっている。
俺は時計を見る。
まだ少し余裕はある。
ただし、ここで付き合う必要はない。
「自分で磨いてください」
「悠人」
「嫌です」
「飼い主」
「違います」
「可哀想な翠先輩」
そこで手が止まった。
昨日の言葉を使ってきた。
翠先輩は歯ブラシを握ったまま、洗面台の前に立っている。
二十歳。
国立大学の獣医学科二年。
動物園では俺より経験が長く、ネコ科の仕事もちゃんとこなす。
自分の歯くらい当然磨ける。
なのに今は、人の家の洗面所で歯ブラシを持ったまま、磨いてもらうのを待っている。
「……」
やっぱり少し可哀想だった。
「何だ、その目は」
「いや」
「可哀想だと思っただろう」
「少し」
「では」
翠先輩が歯ブラシを差し出してくる。
嬉しそうだ。
「一回だけですよ」
「やった」
「喜ぶところじゃないでしょう」
歯ブラシを受け取る。
翠先輩は素直に洗面台の前へ戻った。
俺も隣へ立つ。
鏡の中に二人映る。
何をしているんだろうとは思う。
「口開けてください」
翠先輩が素直に開ける。
「もう少し」
少し顎が上がった。
頬へ軽く手を添え、角度を変える。
歯ブラシを当てる。
さすがに適当にやる気にはならなかった。
歯茎を傷つけないように力を抜き、外側から小さく動かす。
翠先輩は鏡越しにこっちを見ていた。
「見なくていいです」
「ん」
「喋らないでください」
「んー」
「だから分かりませんって」
指で奥を示す。
「奥ですか?」
「ん」
「後でやります」
前歯。
犬歯。
臼歯。
左右を順番に磨く。
少し顔を横へ向けてもらい、奥へブラシを入れる。
翠先輩は思ったより大人しくしている。
たまに何か言いたそうにする以外は。
「口閉じないでください」
「ん」
「笑わない」
「んふ」
「磨きにくいです」
肩が小さく揺れる。
何がそんなに楽しいのか分からない。
外側が終わる。
「次、内側」
翠先輩の目が少し丸くなった。
「何です?」
「んー」
「ちゃんとやるなら全部やりますよ」
「ん」
今度は前歯の裏側。
奥歯の内側。
噛み合わせ。
最後にもう一度全体を軽く確認する。
自分でも、少し丁寧すぎる気がした。
「はい、終わり」
歯ブラシを渡す。
翠先輩は口をゆすぎ、顔を上げた。
鏡の中で満足そうに笑っている。
「かなり丁寧だった」
「やるならちゃんとやりますよ」
「飼い主適性が高い」
「二度とやりません」
「そこだけ適性が低いな」
「自分で磨ける人の歯を毎朝磨く趣味はないです」
「毎朝とは言っていない」
「明日も頼む顔してます」
「ばれたか」
翠先輩は歯ブラシを水で洗った。
軽く振って水気を落とす。
それから、俺の歯ブラシの横へ戻す。
二本並ぶ。
さっきより、その光景が少しだけ馴染んで見えた。
「持って帰らないんですね」
「置いていいと言ったのは悠人だろう?」
「歯ブラシは、ですけど」
「明日も使う」
「自分で磨いてくださいよ」
「それは明日のボクと悠人が相談する」
「俺を当事者にしないでください」
大学へ出る時間が近づいた。
翠先輩は洗面所から出ると、自分のバッグを持つ。
玄関で靴を履く。
「忘れ物ないですか?」
「ある」
「何です?」
「化粧水」
「置いたんでしょう」
「そうだった」
「忘れ物じゃないです」
「歯ブラシも」
「それも置いたんです」
「ヘアブラシも」
「全部自分で置いたんですよ」
翠先輩は少し考える。
「では、忘れ物はない」
「最初からそう言ってください」
「ただ」
「まだ何か?」
翠先輩が一度、洗面所の方を見る。
「置いていく物は増えたな」
「増やしたんでしょう」
「悠人が置いていいと言った」
「歯ブラシくらいって言いました」
「くらい、は範囲が広い」
「広くないです」
翠先輩は笑いながら扉を開けた。
「行くぞ、悠人」
「はい」
鍵を持って後を追う。
玄関を出る前に、もう一度だけ洗面所へ目を向けた。
見えなくても分かる。
歯ブラシが二本。
棚の端には、小さなポーチと化粧水。
昨日までは全部なかった。
俺は扉を閉めた。




