翠先輩は可哀想
日曜日の午前十一時過ぎ、俺は一人でスーパーにいた。
昨日の夕飯で豚肉を使い切った。卵も残り二つ。牛乳はまだ半分以上あるが、麦茶のパックはそろそろ補充しておいた方がいい。
籠へ順番に入れていく。
鶏もも肉。
卵。
玉ねぎ。
じゃがいも。
牛乳。
ヨーグルト。
麦茶。
最後に菓子売り場の前を通りかかった。
冷蔵棚に、小さなカップのプリンが並んでいる。
昨日、翠先輩がスーパーで菓子を一袋だけ買っていた。
甘いものは好きだ。
「……」
一つ取る。
その隣から、もう一つ取った。
籠へ入れてから手が止まった。
「……何で二つ?」
誰に聞くでもなく呟く。
一つでいい。
俺が食べるだけなら、一つで十分だ。
翠先輩が今日来るという保証はない。
昨日の帰り際には「また明日」と言っていたものの、その直後に「予定は未定だ」とも言っていた。
未定なら来ない可能性もある。
とはいえ。
「どうせ来るか」
来なければ二つ食べればいい。
そういうことにした。
会計を済ませて家へ戻り、買ったものを冷蔵庫へ詰める。
プリンは二つ並べて入れた。
麦茶は新しく作った。
炊飯器には夜用の米を入れる。
一合半。
手が止まる。
一人なら一合でも余る。
「……まあいいか」
余ったら冷凍すればいい。
そういうことにした。
昼は適当に済ませ、午後はレポートの見直しをする。
昨日、翠先輩が腹へ載せたまま寝ていた獣医病理学の参考書は棚へ戻してある。
薄手のブランケットも畳んだ。
ソファのクッションも元の形へ戻した。
水切り籠にあったグラスは乾いていたので棚へ戻した。
右側。
俺のグラスの隣へ、翠先輩の分を置く。
何となく手が止まった。
別にそこへ置かなければならないわけではない。
空いている場所はいくらでもある。
でも、もうそこが一番自然だった。
午後一時。
連絡はない。
二時。
来ない。
三時を過ぎても、スマホは静かなままだった。
いつかの時みたく、気になるわけではない。
今日は日曜だ。
美緒さんや倉田さんと出かけているかもしれないし、自宅で寝ているかもしれない。
俺には関係ない。
そう思いながら、四時前に一度冷蔵庫を開けた。
プリンは二つ並んだままだった。
「……別にいいか」
一つ食べようかと思ったが、やめた。
夕飯の後でいい。
机へ戻る。
四時十八分。
スマホが鳴った。
『いる?』
画面を見て、少しだけ間を置く。
『いますよ』
送る。
それから十五分もしないうちにインターホンが鳴った。
「来たぞ」
「はい」
扉を開ける。
翠先輩は昨日より少し軽い格好だった。
白っぽい長袖のカットソーに、濃い色のスカート。髪は下ろしている。
首輪はない。
今日は普通らしい。
「遅かったですね」
「何が?」
「来るのが」
言ってから、少しだけ変な気がした。
翠先輩も一瞬だけ目を丸くした。
「待っていたのかい?」
「別に」
「ふうん」
「何です?」
「いや?」
口元だけ少し笑っている。
「入ります?」
「入る」
いつものように身体を退ける。
翠先輩は靴を脱ぎ、廊下を抜け、リビングへ入った。
バッグをソファの脇へ置く。
棚を見る。
自分のグラスを取る。
冷蔵庫を開ける。
「お」
「何です?」
「プリンがある」
「ありますね」
「二つ」
「ありますね」
冷蔵庫の前で振り返る。
「一つはボクのか?」
「違います」
「そうか」
翠先輩は冷蔵庫を閉めようとした。
「……一つは翠先輩のです」
手が止まる。
ゆっくりこちらを見る。
「ボクの?」
「はい」
「買ってくれた?」
「たまたま二つ買っただけです」
「たまたま同じプリンを二つ?」
「来るかもしれないと思ったので」
「ボクが?」
「他に誰がいるんですか」
翠先輩は何も言わなかった。
ただ、少しだけ頬が緩んだ。
「へへ〜」
「何です、その顔」
「別にぃ?」
「真似しないでください」
「ボクのだろう?」
「一つだけですよ」
「分かっている」
プリンを一つ取り出し、ついでにスプーンを探す。
引き出しを開ける。
場所は知っている。
それでも途中で俺を見る。
「悠人」
「そこにありますよ」
「取って」
「目の前でしょう」
「一歩動かなくて済む」
「自分で取ってください」
「むぅ」
結局、自分で取った。
ソファへ座り、プリンの蓋を剥がす。
一口食べる。
「うまい」
「それはよかったですね」
「悠人も食べるか?」
「俺の分ありますから」
「一口くらい」
「いりません」
「遠慮するな」
「してません」
翠先輩は少し残念そうにして、そのまま食べ続けた。
俺は机へ戻る。
しばらくして、後ろから小さくスプーンの触れる音が止まった。
「悠人」
「何です?」
「麦茶」
「自分でどうぞ」
「プリンを食べている」
「食べ終わってから取ればいいでしょう」
「喉が渇いた」
「冷蔵庫です」
「遠い」
「三歩くらいですよ」
「三歩もある」
「昨日十二秒を惜しんだ人が言いそうですね」
「分かってきたじゃないか」
「分かりたくなかったです」
翠先輩は空になったプリンの容器をローテーブルへ置き、仕方なさそうに立った。
自分のグラスへ麦茶を注ぐ。
飲む。
また戻る。
その一連の動きを見ながら、ふと思った。
この人は、本当に何でも面倒がる。
飯を作るのも。
飲み物を取りに行くのも。
風呂へ帰るのも。
昨日なんて、自宅まで十二秒なのに俺の風呂を使った。
首輪で肩が凝ったと言いながら外さず、七分も俺に揉ませた。
大学では普通に実習をこなす。
動物園では後輩の俺よりずっと経験がある。
友達もできた。
一人で生活できないわけでもない。
なのに、ここでは驚くほど駄目になる。
翠先輩はソファへ戻ると、ブランケットを膝へ掛けた。
まだ夕方なのに。
「寒いんですか?」
「少し」
「冷房つけてませんよ」
「じゃあ気分だ」
「何ですか、それ」
「落ち着く」
そう言って、ブランケットを腹まで上げる。
昨日も同じようにしていた。
その姿を見ているうちに、口から先に出た。
「……なんか可哀想ですね、翠先輩」
翠先輩が止まった。
「ボクが?」
「はい」
「どこが?」
「何となく」
「何となくで人を可哀想扱いするのかね」
「自分で何もしたくないって言いながら、人の家でプリン食べて麦茶取るのも面倒がってるの見てると」
「うん」
「何ていうか」
少し考える。
「可哀想だなって」
言い切ると、翠先輩はしばらく黙った。
怒ったかと思った。
次の瞬間、ぱっと顔が明るくなる。
「いいじゃないか!」
「何がです?」
「可哀想なんだろう?」
「まあ」
「可哀想は可愛いんだぞっ」
「誰が決めたんですか」
「ボクだ」
「またそれですか」
「つまり悠人は今、ボクを可愛いと言ったことになる」
「なりません」
「なる」
「ならないです」
「可哀想な翠先輩は可愛いだろう?」
「自分で言ったら台無しですよ」
「でも可愛い」
「はいはい」
「雑だなあ」
翠先輩はブランケットをどけた。
立つ。
「何です?」
「では」
「では?」
そのまま俺の横まで来る。
少し頭を下げた。
「撫でたまえ」
「何でそうなるんです?」
「可哀想だから」
「嫌です」
「可愛いのに?」
「嫌です」
「可哀想なのに?」
「嫌です」
「薄情者」
「プリン買ってきたでしょう」
「それとこれは別だ」
「昨日の肩揉みと同じ理屈じゃないですか」
「……別会計だ」
「嫌ですよ」
翠先輩はしばらく俺を見る。
俺も見返す。
先に諦めたのは向こうだった。
「仕方ないなあ」
「何がです?」
翠先輩がもう一歩近づく。
俺の右手を見た。
それから、その手へ顔を寄せる。
頬が触れた。
「……何してるんです?」
すり、と一度。
俺の手の甲へ頬を擦りつける。
もう一度。
「セルフ撫でだ」
「俺、何もしてませんよ」
「手を貸している」
「勝手に使ってるだけでしょう」
「細かいことを言うな」
翠先輩の頬は、少し冷たかった。
さっき麦茶を飲んだからかもしれない。
俺は手を動かしていない。
翠先輩が自分から頬を寄せ、ゆっくり擦っているだけだ。
まるで本当に、撫でてもらっているつもりらしい。
「満足しました?」
「まだ」
「長いですよ」
「もう少し」
「嫌です」
「動かしてもいないのに?」
「手を使われてるので」
「けち」
そう言いながらも離れない。
少しして、動きが止まった。
頬だけが俺の手へ触れたままになる。
「……でも」
「何です?」
「いつもありがとう」
声の調子が、少しだけ変わった。
ふざけている感じが薄い。
「急に何ですか」
「プリン」
「百円ちょっとですよ」
「それだけじゃない」
翠先輩は顔を上げなかった。
俺の手へ頬をつけたまま、視線だけ下へ落としている。
「いろいろだ」
「いろいろって」
「いろいろは、いろいろだ」
棚を見る。
翠先輩のグラスがある。
充電器がある。
参考書がある。
髪ゴム。
カーディガン。
昨日着たTシャツも、洗って乾かして畳んである。
飯も何度か食べている。
風呂も使った。
肩も揉んだ。
言われてみれば、いろいろあった。
「別に、大したことしてないですよ」
「ボクにとってはしている」
翠先輩が、もう一度だけ頬を擦った。
「だから、ありがとう」
「……そうですか」
「うん」
少しだけ間が空く。
「じゃあ」
「はい?」
「ちゃんと撫でたまえ」
「嫌です」
「ここまで言ったのに?」
「それとこれは別です」
「ひどい」
「自分で言ったでしょう、別会計って」
翠先輩が顔を上げる。
「覚えていたのか」
「昨日の話ですからね」
「執念深いなあ」
「翠先輩に言われたくないです」
それでも機嫌は悪くならなかった。
むしろ満足したらしく、そのままソファへ戻る。
ブランケットを掛け直し、スマホを取り出す。
しばらくして、俺も作業へ戻った。
夕方六時を過ぎる。
炊飯器が鳴った。
立ち上がってキッチンへ向かう。
今日は鶏肉とじゃがいもを使う。
鍋へ油を入れ、鶏肉を焼く。
玉ねぎを加える。
後ろから足音がした。
「今日は何だ?」
「鶏肉とじゃがいもの煮物です」
「いいな」
「そうですか」
「手伝うか?」
少し意外だった。
「珍しいですね」
「今日は感謝しているからな」
「じゃあ玉ねぎ切ってください」
「それは嫌だ」
「感謝どこ行ったんですか」
「皿なら出す」
「最初からそのつもりだったでしょう」
結局、皿だけ出した。
料理が完成する。
米をよそう。
二人分。
味噌汁も二つ。
翠先輩は食卓へ運びながら、一度手を止めた。
「悠人」
「何です?」
「今日も、聞かなかったな」
「何をです?」
「ボクが夕飯を食べるかどうか」
言われて、初めて気づいた。
買い物の時から二人分だった。
米も。
材料も。
皿も。
最初から、翠先輩が食べる前提になっていた。
「……どうせ食べるでしょう」
「うん」
「でしょうね」
翠先輩が椅子へ座る。
俺も向かいへ座った。
食べ始める。
しばらくして。
「悠人」
「今度は何です?」
「今日のボク、可哀想?」
「まだ引っ張るんですか」
「可愛い?」
「調子に乗らないでください」
「へへ〜」
機嫌がいい。
食後。
翠先輩が冷蔵庫を開けた。
「お」
「何です?」
「ヨーグルトも二つある」
「それはたまたまです」
「これもボクの?」
「違います」
「そうか」
少しだけ残念そうに冷蔵庫を閉めようとする。
「……食べるなら一つどうぞ」
また手が止まる。
「明日の朝にする」
「持って帰るんですね」
「いや」
「はい?」
翠先輩が振り返る。
「明日の朝、来て食べる」
「何でですか」
「ボクの分なんだろう?」
「いつからそうなったんです?」
「今日から」
「勝手に決めないでください」
「では予約しておく」
「予約制じゃないですよ」
「九時くらいでいいか?」
「来る気満々じゃないですか」
「だって」
翠先輩は冷蔵庫の中をもう一度見た。
ヨーグルトが二つ並んでいる。
「ボクの分もあるんだろう?」
俺は少し黙った。
「……一つだけですよ」
「うん」
翠先輩は満足そうに冷蔵庫を閉めた。




