↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ボクを飼ってみないか?!  作者: 御HeSummer3
第2章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
37/37

翠先輩の部屋の意味


 火曜日の午後六時二十分。


 大学から帰って、自分の部屋へ入ってから十五分ほど経った頃だった。


 鞄を置き、上着を脱ぎ、手を洗う。


 冷蔵庫を開ける。


 昨日買った卵と牛乳。作り置きの麦茶。野菜が少し。


 夕飯をどうするか考えながら、ふと思い出した。


「……あ」


 昨日、翠先輩が俺の部屋へ置いていったヘアブラシ。


 あれとは別に、大学の実習で使う細い油性ペンを貸したままだった。


 返してもらうほど急ぎではない。


 予備もある。


 ただ、明日の実習で同じものを使う予定だった。


 スマホを取る。


 連絡しようとして、やめた。


 向かいだ。


 わざわざメッセージを送って、返事を待って、いるかどうか確認する距離でもない。


 俺は鍵を持ち、そのまま部屋を出た。


 エレベーターで一階へ下りる。


 道路を渡る。


 見慣れた隣の建物へ入り、五階まで上がった。


 翠先輩の部屋へ来るのは久しぶりだった。


 最近はほとんど向こうから来る。


 俺がこっちへ来る理由がない。


 インターホンを押す。


 少し待つ。


 返事はない。


 もう一度押そうかと思ったところで、中から足音が聞こえた。


 ぱたぱたと軽い音が近づく。


 鍵が開く。


 扉が少しだけ開いた。


「どうした?」


 翠先輩が顔を出した。


「油性ペン、昨日貸したままで――」


 言いながら、止まった。


 翠先輩は下着姿だった。


 以前聞いたことはある。


 自宅では部屋着を着ない。


 帰宅したら外着を脱ぎ、そのまま過ごす。


 わざわざ部屋着へ着替える工程が面倒だから。


 聞いた時は、かなり翠先輩らしい話だと思った。


 ただ、実際に見る機会はなかった。


「……本当にその格好で生活してるんですね」

「言っただろう?」


 翠先輩は特に気にした様子もなく、扉をもう少し開けた。


「入る?」

「その前に何か着てください」

「家だぞ」

「俺がいます」

「悠人が急に来たんじゃないか」

「それはそうですけど」


 正論だった。


 突然来たのは俺だ。


 翠先輩は少しだけ考え、それから面倒そうに部屋の中へ戻った。


「待っていろ」


 扉は開いたままだった。


 玄関から奥を見る。


 以前と同じ、すっきりした部屋。


 というより。


「……」


 少し違う。


 前より、さらにすっきりしている。


 元から物は少なかった。


 必要以上に家具を増やさず、持ち物も最低限。


 片づいているというより、そもそも散らかるほど物がない。


 そういう部屋だった。


 でも今は、それよりさらに何かが抜け落ちている。


 翠先輩が戻ってきた。


 薄手の白いシャツを一枚羽織っている。


 太腿の辺りまである大きめのもので、前のボタンをいくつかだけ留めていた。


「これでいいか?」

「まあ」

「面倒だった」

「すみませんね」

「分かればいい」

「俺が悪いことになってる」

「実際そうだろう?」


 否定しきれない。


 俺は靴を脱いだ。


「油性ペンだけ取ったら帰ります」

「ゆっくりしていけばいい」

「翠先輩の部屋でそれ言われるの、久しぶりですね」

「最近はボクが行くからな」


 翠先輩はそう言って、先にリビングへ戻った。


 俺も後を追う。


 入って、やはり違和感が強くなった。


 ローテーブル。


 小さな棚。


 ベッド。


 カーテン。


 必要最低限の家電。


 家具自体は変わっていない。


 なのに、以前より部屋が広く見える。


「……何か減りました?」

「何が?」

「物」


 翠先輩は部屋を見回した。


「そうか?」

「そうですよ」

「気のせいでは?」

「前から少なかったですけど、もっと少なくなってません?」


 俺は棚を見る。


 以前なら置いてあった獣医病理学の参考書がない。


 知っている。


 俺の部屋にある。


 机の端に置かれていた充電器もない。


 それも知っている。


 俺の部屋にある。


 髪ゴムも、いくつか向こうにある。


 カーディガンも一枚。


 昨日からは歯ブラシまで増えた。


「……ちょっと洗面所見ていいですか」

「何で?」

「何となく」

「いいぞ」


 許可をもらい、洗面所へ入る。


 すぐ分かった。


「ほら」

「何だ?」

「空いてるじゃないですか」


 棚の一角が妙に白い。


 昨日までそこにあったはずの化粧水。


 乳液。


 ヘアブラシ。


 全部ない。


 昨日の朝、俺の部屋へ持ってきたからだ。


 歯ブラシ立ても一本分空いている。


 もちろん歯ブラシもない。


「ここにあった物、ほとんど俺の家ですよね」

「そうだな」

「そうだな、じゃないですよ」

「置いていいと言ったのは悠人だ」

「歯ブラシくらいって言ったんです」

「くらい、は便利な言葉だな」

「便利に使いすぎです」


 翠先輩は洗面所の入口へ寄りかかり、空いた棚を眺めた。


 特に困っているようには見えない。


 むしろ、少し満足そうですらある。


「すっきりしたな」

「片づけたんじゃなくて移しただけでしょう」

「結果としては同じだ」

「移動先、俺の家ですからね」

「近い」

「近いで全部解決しようとしないでください」


 洗面所を出る。


 ついでにキッチンを見る。


 何となく嫌な予感がした。


 冷蔵庫を開ける。


「……」


 さらに何もない。


 水。


 小さなペットボトル。


 卵が一つ。


 調味料。


 ヨーグルト一個。


 端に、小さなパックの豆腐。


 以上。


「前より減ってません?」

「そうかもしれない」

「食材買ってないんですか」

「最近、夕飯は悠人の家で食べることが多いからな」

「だからって自分の家の食材なくす必要あります?」

「余らせるよりいいだろう」

「まあ、それはそうですけど」

「合理的だ」

「便利な言葉ですね、それも」


 翠先輩は冷蔵庫の中を覗く。


 自分の部屋なのに、特に危機感はない。


「卵はある」

「一個ですよ」

「豆腐もある」

「それ今日までじゃないですか」

「じゃあ今日食べる」

「夕飯どうするつもりだったんです?」


 少し間があった。


「……悠人の家?」

「何で疑問形なんですか」

「行けば何かあるかなと思っていた」

「完全に俺の家を冷蔵庫扱いしてるじゃないですか」

「共同冷蔵庫だ」

「まだ違います」

「まだぁ?」

「そこ拾わないでください」


 冷蔵庫を閉める。


 改めて部屋を見る。


 元から空間に余白の多い部屋だった。


 今は、その余白がさらに広がっている。


 棚には物が減り。


 洗面所も空き。


 冷蔵庫も空き。


 参考書も一冊向こう。


 カーディガンも向こう。


 充電器も向こう。


 歯ブラシも向こう。


 俺は少し考えた。


「翠先輩」

「何だ?」

「この部屋、必要です?」


 翠先輩が俺を見る。


「あるぞ」

「何に使ってるんです?」


 即答はなかった。


 翠先輩は自分の部屋を見回した。


 ベッド。


 机。


 クローゼット。


 テレビはない。


 ソファもない。


 最低限の生活スペース。


「寝る」

「それだけ?」

「着替える」

「着替えも少しずつ俺の家に置き始めてますよね」

「全部ではない」

「全部になったらどうするんです?」

「その時考える」

「風呂は?」

「昨日は悠人の家」

「歯磨きは?」

「今朝は悠人の家」

「朝飯は?」

「ヨーグルト」

「俺の家」

「そうだな」

「夕飯は?」

「たぶん悠人の家」

「決定事項みたいに言わないでください」


 並べていくと、思った以上にひどかった。


 食事。


 歯磨き。


 風呂。


 勉強。


 充電。


 休憩。


 最近は、そのほとんどを俺の部屋でやっている。


 翠先輩の部屋に残っている大きな役割は、本当に寝ることくらいだった。


「……寝るためだけの部屋になってません?」

「寝るための部屋なら、部屋として正しいのでは?」

「正しいのかな……」

 

 自信がなくなる。


 家賃を払っている以上、もう少し使った方がいい気はする。


 ただ、本人が困っていないなら、それはそれで成立しているのかもしれない。


 翠先輩はその辺りに疑問を持っていない。


 俺だけが妙に気になる。


「ところで、油性ペンだったな」

「あ、そうでした」


 完全に忘れていた。


 翠先輩は机へ向かう。


 引き出しを開ける。


 中から黒い油性ペンを一本取り出した。


「これ?」

「それです」

「返す」

「ありがとうございます」


 受け取る。


 本来の目的は終わった。


 なら帰ればいい。


 俺は玄関へ向かおうとした。


「待て」

「何です?」


 翠先輩がクローゼットを開けていた。


 中を少し探し、薄手のTシャツを一枚取り出す。


 それから小さな布袋も。


「何してるんです?」

「ついでだ」

「何の?」

「置いておく」

「どこに?」


 聞く必要はなかった。


 翠先輩がこっちを見る。


「悠人の家」

「また減るじゃないですか」

「一枚だ」

「昨日もそうやって増えたんですよ」

「着替えは必要だろう?」

「何で俺の家で着替える前提なんです?」

「昨日、風呂に入った」

「昨日だけです」

「また入るかもしれない」

「入らないでください」

「雨で濡れるかもしれない」

「その時は自分の家に帰ってください」

「十二秒かかる」

「そこを惜しまないでください」


 翠先輩は気にせず、Tシャツを畳む。


 布袋へ入れる。


 さらに引き出しを開けた。


「まだ何か入れるんですか」

「下着も一組」

「……何で?」

「着替えだ」

「そこまで置いたら本当に住み始めますよ」

「泊まらないぞ?」

「泊まる泊まらないの話じゃないんです」

「では問題ない」

「問題あります」


 翠先輩にとっては本当に不思議らしい。


 下着一組とTシャツ一枚。


 確かに、単体で見れば大した荷物ではない。


 ただし、移動先にはすでに歯ブラシがある。


 化粧水もある。


 乳液もある。


 ヘアブラシ。


 充電器。


 カーディガン。


 参考書。


 髪ゴム。


 専用のグラスまである。


 一個ずつは小さい。


 積み重なると、話が変わる。


「これ以上増やさないでくださいよ」

「分かった」

「昨日も聞いた気がする」

「気のせいだろう」

「絶対違います」


 翠先輩は小さな布袋を自分のバッグへ入れた。


 そこまでしてから、自分が今羽織っている白いシャツを見る。


「これも置いておくか」

「それまで?」

「着やすい」

「今着てるでしょう」

「だから着やすい」

「理由になってません」

「悠人が急に来た時にも役立った」

「俺の家に置いたらここで役立たないでしょう」

「そうか」

「そこは納得するんですね」


 翠先輩は少し考え、シャツの裾を見る。


「ではこれは残す」

「よかった」

「何が?」

「翠先輩の家に服が一枚残った」

「まだいっぱいあるぞ」

「そういう問題じゃないです」


 時計を見る。


 もう七時前だった。


 夕飯を作るなら、そろそろ戻った方がいい。


「じゃあ俺、帰ります」

「うん」

「豆腐、今日中ですよ」

「うん」

「卵も食べてください」

「うん」


 やけに素直だ。


 嫌な予感がする。


「……夕飯、どうするんです?」


 翠先輩はバッグを肩へ掛けた。


 Tシャツと下着の入った布袋も、その中に入っている。


「行く」

「どこに?」

「悠人の家」

「やっぱり」

「豆腐は持っていく」

「持ってくるんですか」

「今日までだからな」

「自分で食べるって言ったでしょう」

「悠人の家で食べる」

「場所が変わっただけじゃないですか」

「ちゃんと食べるから問題ない」


 翠先輩は冷蔵庫から豆腐を取り出す。


 ついでに卵も一個。


「それも?」

「使えるだろう?」

「俺の家の夕飯に参加する気満々ですね」

「食材持参だ」

「豆腐と卵一個で偉そうにしないでください」


 小さなビニール袋へ入れる。


 その姿を見て、俺はもう一度部屋を見回した。


 洗面所から物が減った。


 棚から本が減った。


 冷蔵庫から食材が減った。


 クローゼットからTシャツと下着が減った。


 今度は豆腐と卵まで消える。


 翠先輩の生活が、少しずつ向こうへ移っている。


 本人は移しているつもりすらないのかもしれない。


 便利だから。


 近いから。


 面倒だから。


 理由は全部その程度だ。


 玄関へ向かう。


 翠先輩も後ろからついてくる。


 靴を履く。


 俺が先に外へ出た。


 翠先輩も出る。


 鍵を閉める前に、ふと中を見る。


 静かな部屋。


 物の少ない棚。


 ほとんど空の冷蔵庫。


 洗面所には歯ブラシすらない。


 ベッドだけは、ちゃんと残っている。


「悠人」


 廊下から呼ばれる。


「何です?」


「早く」


「今行きます」


 翠先輩が鍵を閉める。


 その手には、豆腐と卵。


 肩のバッグには、俺の家へ置く予定の着替え。


 二人でエレベーターへ向かう。


「……本当に寝るためだけになってきてません?」

「まだ着替えもする」

「その着替え、今また減りましたよ」

「全部なくなったら考えよう」

「その前に考えてください」


 翠先輩は笑った。


 エレベーターの扉が開く。


 二人で乗る。


 一階へ下り、建物を出る。


 狭い道を渡る。


 隣棟にある俺の部屋へ向かった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。