第8話:紛れ込んだ影
エルダシア商会の工房は、日に日に活気を増していた。魔石機関の需要は同盟諸国からも殺到し、王都の一角に建てられた大工房では、常に数十人の職人と技師が忙しく立ち働いている。
その中に、カイルという青年がいた。半年前に採用された技師見習いで、無口だが手先が器用で、任された仕事は丁寧にこなす。周囲の職人たちからの評判も悪くなかった。
「カイル、今日は選鉱の記録をまとめておいてくれ」
「承知しました」
主任技師の指示に淡々と応じながら、カイルは鉱石の分類台に向かった。だが彼の本当の仕事は、日中の作業ではなく、工房の灯りが落ちた後に始まる。
その夜も、カイルは誰もいなくなった工房の片隅で、設計図の保管庫にそっと忍び込んだ。魔石機関の心臓部――発熱と冷却のバランスを取る「安全弁」の制御術式が描かれた図面を、油紙越しに手早く書き写していく。
(この術式さえ持ち帰れば……母さんの薬代が)
書き写し終えた紙片を懐にしまい込んだ、その時だった。
「――遅くまで熱心だね、カイル」
背後から静かな声がかかり、カイルの背筋が凍りついた。振り返ると、そこにはダグラスが、油断のない目つきで立っていた。
「ダ、ダグラス様……こんな時間に、どうして」
「工房の見回りだよ。夜遅くまで働く者がいないか、たまに確かめているんだ」
ダグラスの視線が、カイルの懐――紙片を隠した辺りに、一瞬だけ向けられた。それだけで、カイルは全身から冷や汗が噴き出すのを感じた。
「見せてもらえるかな、その紙」
「これは、その……選鉱の記録を」
「選鉱の記録なら、こっちの帳簿を使うはずだ。それに、油紙にわざわざ書き写す必要もない」
穏やかな声のまま、しかし逃げ場を塞ぐように、ダグラスは一歩前に出た。護衛隊長として、これまで幾度となく不審者やスパイの類を見てきた彼の目は、些細な所作の乱れも見逃さなかった。
「半年間、よく働いてくれた。仕事ぶりも真面目だった。だからこそ、少し寂しいよ」
ダグラスは静かに、しかしはっきりと告げた。
「――帝国のスパイだろう、君は」
沈黙が工房に満ちた。カイルの手が懐の短剣にかかりかけたその時、工房の入り口と窓の外から、いつの間にか配置されていた護衛兵たちが姿を現した。
「逃げ場はないよ、カイル」
観念したように肩を落としたカイルは、それでも唇を固く結び、何も語ろうとはしなかった。
その夜のうちに、カイルは王城の一室に移された。だが尋問は、予想以上に難航していた。
「誰の指示で動いていた。答えろ」
ダグラスが問い詰めても、カイルは俯いたまま、かたくなに口を閉ざし続けていた。
「……何を言おうと、無駄です。喋れば、殺される」
「帝国が、お前を殺すと?」
「私のような下端の駒が捕らえられれば、口を割る前に始末される――それが、これまで幾つも見てきた、この稼業の末路です」
カイルの声には、諦めにも似た響きがあった。
「殿下、少しお時間をいただけますか」
ダグラスは、隣室で報告を聞いていたラディウスに、一枚の報告書を差し出した。
「カイルの身辺を、フェリクスと共に調べさせておりました。奴の故郷に、病床の母親がいるようです」
「病、か」
「はい。長年にわたる原因不明の高熱と、咳、そして体の消耗――土地の医者にも、匙を投げられている状態だとか。薬代を工面するために、法外な報酬に釣られて帝国のスパイに身を落とした、というのが、どうやら実情のようです」
ラディウスは、報告書に記された症状の記述に、静かに目を通した。
(この症状……高熱に、長引く咳、体力の消耗。もしかして、肺炎か何かか)
幸い、手立てがないわけではなかった。研究院で密かに進めてきた、あの薬の研究――まだ完成にはほど遠いと思っていたが、試す価値はあるはずだった。
「――ちょうどいい。使える手がある」
ラディウスは、自ら尋問の場に姿を見せた。
「カイル。一つ、提案がある」
「……殿下が、私に、何を」
「お前の母上は、原因不明の高熱と、長引く咳、そして体の衰弱に、長く苦しんでおられるそうだね。おそらくは、肺炎だ」
カイルの顔から、みるみる血の気が引いた。
「な……なぜ、それを」
「調べさせてもらった。今、この国の研究院では、青カビから抽出した薬――『抗生物質』と呼んでいる――の研究を進めている。肺炎のような感染症による高熱には、これまでのどんな薬草よりも効く。お前の母上の病状にも、効く見込みがある」
「そんな……薬など、聞いたことも」
「まだ、この世界のどこにもない薬だ」
ラディウスは、静かに、しかし力強く続けた。
「お前が、これまでのことを正直に話してくれるなら、僕はこの薬を、お前の母上に届けよう。治療が終わった後は、母上共々、この国のどこか静かな町で暮らせるよう、僕が取り計らう。名も、身分も、新しく用意する。……お前を裁くよりも、僕はそちらの方が、よほど意味があると思っている」
カイルの体が、小刻みに震え始めた。
「なぜ……そこまで」
「お前は、母親を救いたかっただけだ。方法は間違っていたかもしれない。だが、その気持ちまで、僕は断罪するつもりはない」
長い沈黙の後、カイルは、床に崩れ落ちるようにして頭を垂れた。
「……お受けします。全て、お話しします」
声は、涙で掠れていた。
「帝国の密偵を束ねる、ゼルギウス閣下の指示です。半年前、母の薬代に困っていた私に接触してきて……法外な報酬と引き換えに、この国の技術を探るよう命じられました」
「ゼルギウス、か」
ラディウスは静かに、その名を記憶に刻んだ。
「閣下は、私のような下端の駒に、いつも仰っていました。『捕らえられれば、それまでの縁だ』と。使い捨てにされる覚悟は、最初からできておりました」
カイルの声に、深い諦念が滲んでいた。ダグラスとラディウスは、静かに視線を交わした。
数日後、ラディウスの命により、研究院で培養されていた抗生物質が、早馬でカイルの故郷へと届けられた。
「殿下……本当に、よろしかったのですか。スパイとして捕らえた相手に、ここまで」
フェリクスの問いに、ラディウスは静かに答えた。
「情に流されたわけじゃない。ゼルギウスがどんな男か、そして、この国の技術を狙う帝国の本気度が、これでよく分かった。それに――」
ラディウスは、窓の外に目をやった。
「救えるのに救わないのは、罪だ。それは、敵だった相手にも、変わらない」
一月後、快方に向かった母親と共に、カイルはエルダシア国内の小さな町へと移り住んだ。新たな名で、新たな職を得て、静かに暮らし始めたという報告が、ダグラスのもとに届けられた。
その報告を受け取った夜、ラディウスは一人、執務室の窓辺で、ふと小さく笑みをこぼした。
(前世、好きだったあのドラマ、何回も観ておいてよかったな。医者が江戸時代にタイムスリップするやつ、丁寧に抗生物質の作り方教えてくれてたもんな)
小さな縁のようなものを感じながら、ラディウスは静かに、窓の外に広がる夜の王都を見つめていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
【技術おまけ】抗生物質が作られるまで
現実の世界でペニシリンが発見されたのは1928年、イギリスの細菌学者アレクサンダー・フレミングが、培養していたブドウ球菌の皿に、たまたまアオカビが紛れ込み、その周囲だけ細菌が死滅しているのを見つけたことがきっかけでした。ただし、発見から実際に治療薬として使えるようになるまでには、さらに十年以上の歳月がかかっています。カビを大量に培養し、そこから有効な成分だけを抽出・精製し、安定した濃度の薬として量産する技術を確立する必要があったからです。第二次世界大戦中、負傷兵の感染症治療のために量産体制が整えられたことで、ペニシリンはようやく人類にとって身近な薬となりました。
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