第32話:会社という仕組み
積み上がった帳簿の山が、商会の急成長ぶりを物語っていた。エルダシア商会が大きくなるにつれ、新たな課題も浮かび上がっていた。
「殿下、商会の事業が多岐にわたるようになり、個人の資産と、商会全体の資産の境目が、次第に曖昧になってきております。もし何か大きな失敗があれば、殿下個人の財産まで、全て失われかねません」
経理を預かる文官の懸念に、ラディウスは頷いた。実際、つい先日も、新たに立ち上げたばかりの製鉄事業の一つが、見込み違いから大きな損失を出したばかりだった。幸い商会全体としては持ちこたえたものの、もしこれがもっと大きな事業で、しかも個人の資産にまで累が及んでいたらと思うと、背筋が冷える思いだった。
(そうか……この世界には、まだ「法人」という概念そのものがないのか。このままでは、大きな事業に挑もうとする者は、いつまで経っても現れない。一度の失敗が、その者の人生そのものを終わらせかねないんだから)
前世の知識にある、個人と組織の責任を切り離す仕組み――株式会社という制度の骨子が、ラディウスの中で像を結んでいった。事業のために出資した金額の範囲内でのみ責任を負う、という仕組みさえあれば、人々はもっと安心して、大きな挑戦に資金を投じられるようになるはずだった。
「新たに、『会社法』を制定しよう。事業を営む組織を、個人とは切り離された、独立した法的存在として扱う。出資者は、出資した範囲内でのみ責任を負い、それ以上の負債を個人で背負う必要がなくなる。これにより、多くの人が、安心して事業に出資できるようになる」
「個人とは切り離された、法的存在……?」
議会の場で、この提案を聞いた貴族の一人が、不思議そうな顔で問い返した。
「殿下、それは、まるで『商会』そのものが、人であるかのような話に聞こえます。人でないものに、権利や義務を負わせるなど、聞いたこともありません」
「その通りです。商会そのものを、あたかも一人の人間のように扱う、というのが、この制度の核心です」
ラディウスは、頷きながら続けた。
「出資者は、商会という一つの『器』に資金を投じる。もしその器が失敗しても、失われるのは器の中身だけで、出資者個人の財産にまでは及ばない。この仕組みがなければ、人々はいつまでも、小さな商いにしか手を出せなくなります。大陸を横断する鉄道網のような大きな事業に挑むには、多くの人から広く資金を集める必要がある。そのためには、出資する側の安心が、何より大事なんです」
「……なるほど。器が壊れても、注いだ水の一部を失うだけで済む、ということですか」
別の議員が、そう言い換えて頷いた。ギルバートも、感心したように口を開いた。
「殿下の発明の数々にも、そういえば、いつも同じ発想がある気がします。無駄なものを削ぎ落とし、本当に必要な仕組みだけを取り出す、という」
「見抜かれていたか」
ラディウスは、小さく笑った。
議会での長い議論の末、大陸で初めてとなる「会社法」が、エルダシア王国で正式に制定された。
会社法の制定を見届けた夜、ラディウスはギルバートを執務室に呼んだ。
「ギルバート。約束していた通り、そろそろ、この役目を降りようと思う」
「……総理の座を、ということでございますか」
「ああ。議会は、もう十分に機能している。貴族院にも商工代表が根付き、平民代表も、地に足のついた議論を重ねられるようになった。何より――」
ラディウスは、静かに続けた。
「会社法という、この国の経済の土台になる仕組みも、形になった。これ以上、僕が居座り続ける理由はない」
「ですが、後任は、どなたに」
「ギルバート、お前に任せたい」
ラディウスの言葉に、ギルバートは驚いたように目を見開いた。
「私、でございますか。しかし、私は、殿下のように、新しい発明も、大胆な構想も、持ち合わせておりません」
「それでいい。むしろ、それがいいんだ」
ラディウスは、静かに笑った。
「これから先、この国に必要なのは、突飛な発想を次々と打ち出す指導者じゃない。議会の声を丁寧に汲み上げ、着実に舵を取れる者だ。お前は、この国の議論を、誰よりも近くで見てきた。適任だと思っている」
数日後、議会にてこの人事が正式に諮られ、満場一致でギルバートの総理就任が承認された。ラディウスは、以後、総理の職を退き、エルダシア商会の代表として、経済・産業の面から国を支える立場に専念することとなった。
「殿下が、いなくなられるわけではないのですね」
ギルバートが、少し安堵したように尋ねた。
「もちろんだ。ただ、椅子を変えるだけだよ」
議会の運営という重責を降りたことで、ラディウスの時間は、以前にも増して、商会の経営と、産業のさらなる発展へと注がれるようになっていった。
会社法の制定に続き、ラディウスは、もう一つの新たな仕組みを導入した。
「出資者が、必要に応じて自らの持分を、他の者に売買できる場を作りたい。『株式市場』と呼ぶことにする」
「殿下、それは、いささか危ういのではありませんか」
ギルバートが、すぐさま懸念を示した。
「持分を自由に売買できるとなれば、事業の中身をろくに知らぬ者までもが、金儲けのためだけに売り買いを繰り返すようになりはしませんか。それでは、堅実に事業を営む商人たちが、かえって振り回されることになりかねません」
「その懸念は、もっともだ」
ラディウスは頷いた。
「だからこそ、無秩序な売買を許すつもりはない。上場する会社には、事業の内容や財務状況を、定期的に公開する義務を課す。出資者が、正しい情報をもとに判断できる仕組みを整えれば、投機だけが横行する事態は避けられるはずだ」
「情報を、公にする、と……。それは、商会にとっては、手の内を晒すようなものでは」
商工代表の一人からも、疑問の声が上がった。
「短期的には、そう感じるかもしれません。ですが、正しい情報が開示されるからこそ、出資者は安心して資金を投じられる。信頼が、資金を呼び込む。それが、長い目で見れば、事業を営む者自身の利益にも繋がるはずです」
議論は幾度も紛糾したが、最終的には、情報公開を義務付けるという条件のもとで、株式市場の開設が認められた。王都の一角に、エルダシア証券取引所が開設された。エルダシア商会をはじめ、鉄道会社、製鉄会社、農業機械の会社――これまで商会の一事業として運営されてきたものが、次々と独立した会社として株式を発行し、市場に上場していった。ダグラスもまた、護衛隊の一部を割いて取引所の警備にあたらせ、バジルは長年の家計管理の経験を買われ、取引所の運営規則作りに助言を求められるほどになっていた。
「執事の私に、まさか国の経済の仕組み作りを手伝うことになるとは、思いもしませんでした」
「バジルの目利きなら、安心して任せられる」
ラディウスの言葉に、バジルは満更でもなさそうに目を細めた。
「これにより、民間の資金が、より効率的に有望な事業へと流れ込むようになる。銀行を通じた融資と合わせて、この国の産業を支える、二本目の柱になるはずだ」
株式市場は、当初こそ戸惑いを持って迎えられたが、次第に、商人だけでなく、一般の民の間にも、余剰資金を投資に回すという新たな習慣が根付いていった。
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【史実おまけ】株式会社と証券取引所の起源
世界初の株式会社は、1602年に設立されたオランダ東インド会社だとされます。それまでの航海事業は、一回の航海ごとに出資者を募る形が主流でしたが、東インド会社は「永続的な事業体」として、出資者が出資額の範囲内でのみ責任を負う仕組みを確立しました。同時にアムステルダムには、この会社の株式を売買するための証券取引所も誕生し、世界初の本格的な株式市場となりました。
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