第28話:王家の選択
夕暮れの光が、長い廊下に橙色の筋を落としていた。大陸の情勢が落ち着きを見せる中、ラディウスは、これまで先送りにしてきた、もう一つの大きな課題――王位継承問題に向き合う時が来ていた。
ガイウスの元へ向かう前夜、ラディウスは執務室で、バジルにだけ、胸の内を明かしていた。
「バジル。僕は、王位を継がないつもりだ」
「……坊っちゃまが、そう決められたのなら」
バジルは、驚く様子もなく、静かに頷いた。
「長年お仕えしてきて、思うことがございます。坊っちゃまは、椅子に座ることよりも、この国そのものを良くすることに、心を砕いてこられました。その坊っちゃまが出された結論であれば、私は、ただ支えるのみでございます」
その飾らない一言が、ラディウスの背中を、確かに押していた。
「――話がある。時間をもらえるか、兄上」
ラディウスは、これまで距離を置いてきた第一王子ガイウスの元を、自ら訪れた。ガイウスは、意外そうな顔をしながらも、彼を部屋に招き入れた。
「珍しいな、お前の方から訪ねてくるとは」
部屋に足を踏み入れた瞬間、ラディウスの胸には、少しの緊張が走っていた。これから告げる言葉は、単なる意思表明ではない。この国の未来の形そのものを、大きく左右する宣言になる。
(王位を継げば、僕がいなくなった後、また同じ問題が繰り返される。でも――)
本当にそれだけが理由なのか、と彼は自問した。前世、彼は組織の頂点に立ち、全ての決定権を握ることに、ある種の使命感すら覚えていた男だった。その果てに、燃え尽きるようにして倒れた。今世、同じように国の頂点に立ってしまえば、また同じ生き方を繰り返してしまうのではないか――その恐れも、正直、彼の中に全くないわけではなかった。
(理屈だけじゃない。僕自身が、あの生き方をもう一度選びたくないんだ)
それでも、目を逸らさずに、その気持ちごと言葉にすると決めていた。ラディウスは静かに息を吸い込んだ。
「単刀直入に言います。僕は、王位を継ぐつもりはありません」
ガイウスの表情が、少し強張った。
「……今更、何を言い出す。お前の実績も人望も、既に私を凌駕している。城下でも、そういう声が上がっているのは、知っているだろう」
「知っています。だからこそ、はっきりさせておきたいんです」
ラディウスは、静かに、しかし揺るぎない声で続けた。
「僕が欲しいのは、王位という権威じゃない。この国が、そしてこの同盟が、これから先も血を流さずに発展していける仕組みです。それは、王位に就くこととは、また別の話だと思っています」
「……では、お前は何を望む」
「王位は、兄上が継いでください。ただし――」
ラディウスは、一呼吸置いた。
「これからは、王だけが全てを決める仕組みではなく、貴族、商人、そしていずれは平民の代表も加えた議会を作り、そこでの合議によって国を運営していく体制に、少しずつ移していきたいと考えています。王家は、この国の象徴として、これからも敬われ続ける。ですが、実務は、より多くの声を汲み上げられる仕組みに委ねる」
ガイウスは、しばし絶句していた。
「王の権限を、自ら手放せと言うのか」
「手放すのではなく、分かち合うんです。今、自ら動かなければ、いずれ産業で力をつけた者たちに、力ずくで奪われることになりかねません。それよりは、王家自身の手で、少しずつ、この国の形を変えていく方が、遥かに良い結末を迎えられると、僕は思っています」
長い沈黙の後、ガイウスは、これまでにない複雑な表情を浮かべた。
「……お前は、ずっと、そんなことを考えていたのか」
「城壁が崩れたあの日から、ずっとです。あの日、僕は、守れるのに守らないのは罪だと気づきました。それは、魔物や敵国からこの国を守ることだけじゃない。この国の在り方そのものを、未来に向けて守ることも、同じだと思うんです」
ガイウスは、深く息を吐いた。
「正直に言えば、お前を、ずっと脅威だと思っていた。実績でも、人望でも、敵わない相手だと。だが……」
彼は、静かに笑った。
「王位という椅子に、ただ座っているだけの器では、お前には敵わない。だが、お前が望まぬというのなら――私が、その椅子に見合う王になってやろう。お前が作ろうとしている、新しい仕組みとやらと共に」
「ありがとうございます、兄上」
「礼を言うのは、まだ早い。この話、父上や他の兄弟たち、そして重臣たちの理解も必要だろう。一筋縄ではいかないはずだ」
「分かっています。時間をかけてでも、必ず実現させます」
その後、数ヶ月にわたる議論の末、アルベリク王、ガイウス、そしてラディウスを中心に、段階的な統治改革の骨子がまとめられていった。まず貴族院に商人代表の議席を設け、次いで各地の学舎で学んだ平民の中から、代表を選出する仕組みを整えていく――そんな、長い年月をかけた道のりの、最初の一歩が、静かに踏み出されようとしていた。
「殿下、いえ……これからは、何とお呼びすれば良いのでしょうか」
フェリクスが、戸惑いながら尋ねた。ラディウスは、小さく笑った。
「今まで通りでいいよ。僕は、王位を継がない。ただの、商会の代表であり、同盟の一員として、これからもこの国のために働くだけだ」
それから一年ほど後、長らく病床にあったアルベリク王は、改革の骨子が固まったことを見届けるようにして、静かに息を引き取った。国葬には、同盟諸国や、かつて敵対していた帝国からも、多くの弔問の使者が訪れた。喪が明けると、遺言と重臣たちの推挙に従い、ガイウスが正式に戴冠し、新たな国王として即位した。
「父上が最後に見届けてくださったこの国の形を、必ず守り抜く」
戴冠式の場で、ガイウスはそう静かに誓った。窓の外には、鉄道の煙がたなびき、遠く同盟諸国へと続く鉄の道が、地平線まで伸びていた。弱小国の第八王子として生まれ、力を隠して生きてきた青年は、こうして、剣ではなく知恵と信頼によって、一つの時代を切り拓いていったのだった。
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