第5話 盗めない記録
三の鐘が鳴ったとき、ヴェルナはもう療養院の洗濯場の裏にいた。
表門では庁舎から付き添ってきた警備が二人、鐘の余韻を聞きながら槍を握り直しているはずだった。保証が切れた瞬間に中へ踏み込む。手配状のとおりに。彼らはそれを怠けずにやるだろう。
だから鐘より先にシーツの山を積んだ洗濯女の荷車にもぐり込んだ。荷車の持ち主とは昨日のうちに話がついている。月に一度、療養院の洗濯物を川の下流の晒し場まで運ぶ女だ。運び賃の三倍と引き換えに今夜だけは荷台の底を確かめないことを、本人が分かったうえで誓約の紙に指を置いた。
荷車が動き出す。シーツは消毒液の匂いがした。
表門のほうで扉を叩く音がしたのは、荷車が裏の坂を半分下りたころだった。
*
翌朝、ヴェルナは中央環塔の西側にある記録別館の前にいた。
帽子は替えた。上着も替えた。袖口の銀の粉だけはどうしても落ちなかったので、手袋をはめた。
目当てはラグナの護界環の排出記録だった。一年分の、東の主導管と西方迂回路の流量。それがあれば、セファの言う「実測していない数字」に、少なくとも過去の実績で反論できる。協議の席で数字一つ持たずに「数分でいい」と言った自分が、今朝になってもまだ腹立たしかった。
別館の通用口で若い記録係が待っていた。痩せて眼鏡の曲がった男で名前をピムという。三日前に酒場の隅で話をつけた相手だ。
「来てくれたのね」
「来ないと誓約が……いえ、来るって言ったので」
ピムは眼鏡を押し上げ、声を落とした。
「すみません。話が変わりました」
「どう変わったの」
「排出の流量記録が、昨日の夕方に全部移されたんです。統治官府の指示で」
ヴェルナは笑顔を崩さなかった。
「全部?」
「一年分を三つに分けて。うちに残ったのは弁の稼働記録だけです。流量の月報は統治官府の書庫に、日報の原本は聖堂の文書室に」
「聖堂」
「はい」
よりによって、あの女のいるところに。
ヴェルナは帽子のつばを指で弾いた。昨日の夕方。協議の前だ。ハンナが統治官府に保証を願い出た時点で、ダレスはもう、ヴェルナが記録を欲しがることまで見越していたことになる。
「弁の稼働記録は、見られる?」
「見るだけなら。でも閲覧簿の写しを、昨日から毎日統治官府へ出す決まりになりました」
「書いたら?」
「名前が統治官府に回ります。毎日」
ヴェルナは通用口の柱にもたれた。
腹立たしい。腹立たしいが、やり方は正しい。自分が統治官でも同じことをする。
「ピム。あなた、閲覧簿に自分の名前を書いたことはある?」
「仕事で、毎日」
「じゃあ今日も書いて。仕事で」
ピムが眼鏡の奥で目をしばたたいた。
*
弁の稼働記録は別館の二階の棚に、革の綴じ帳で十二冊並んでいた。
ピムが一冊ずつ机に運び、自分の名前で閲覧簿に記していく。ヴェルナは隣の机で組合から来た製図工のふりをして白紙を広げた。写すのではない。読むのだ。写した紙は持ち出せば見つかる。頭に入れたものは見つからない。
西方迂回路の弁がいつ、何刻開いて、いつ閉じたか。予備核からの供給が途絶えたとき、蓄勢槽で何分持ったか。
三冊目で手が止まった。
昨年の秋、供給が一度途絶えている。弁は蓄勢槽の蓄えだけで動き続け、閉じたのは途絶から十一分後。設計値どおりなら十四分は持つはずだった。
十一分。
三分足りない。
ヴェルナは白紙の端に意味のない線を一本引いた。三分。去年の秋の時点で三分。今年はそれより少ないかもしれないし、点検で戻っているかもしれない。どちらとも書いていない。
セファは知っているのだろうか。知っているから、実測していない数字では動かせないと言ったのだろうか。
四冊目、五冊目と進めるうちに、もう一つ気づいた。
この春の綴じ帳だけ、七日分の頁が薄い。ほかの日は一刻ごとに弁の開度が記されているのに、その七日は一日一行しかない。日付の横に「別紙参照」とあり、別紙は綴じられていなかった。
頁の端に小さく署名があった。統治官府の印と、ダレスの頭文字。
ヴェルナは頁をめくる指を止めた。
この書き方を、前にも見たことがある。
一刻ごとの記録が途中で消えて、要約の一行と責任者の署名に置き換わる。何が起きたかは書かれていない。書かれていないということだけが、はっきり残る。
八年前の灰門の事故報告書も、こうだった。
「あの」
ピムが小声で言った。
「階段の下に、統治官府の人が来てます」
ヴェルナは顔を上げなかった。
「何人」
「一人です。閲覧簿の今日の頁を、指でなぞってます。僕の欄のところで止まりました」
「あなたの名前しか書いてないでしょう」
「はい。でも、僕が十二冊も一度に借りたことはないので」
ヴェルナは息を吐いた。名前ではなく、借りた冊数を見ているのかもしれない。
「ピム。綴じ帳を棚に戻して。順番どおりに」
「全部ですか」
「全部。あなたは今日、棚の整理をしてたの」
ヴェルナは白紙を丸めてくずかごに放り込み、窓の掛け金を外した。二階だ。下は別館の裏庭で植え込みがある。
「あの、誓約の報酬は」
「半分しか仕事してないから、半分ね」
「そんな」
「残りは、あなたが今日のことを誰にも言わなかったら来月払う」
窓枠に足をかけたとき、階段を上がってくる足音が聞こえた。急いでいない。急ぐ必要がないと知っている足音だった。
ヴェルナは植え込みへ飛び降りた。
枝が上着の袖を裂き、手袋の片方が脱げた。拾っている暇はない。裏庭の塀に取りつき、乗り越え、路地へ降りる。
路地を三本曲がってから振り返った。追手の姿は見えなかった。
手袋が片方、植え込みに残っている。袖口に銀の粉のついた手袋が。組合の製図工が二階の窓から飛び降りる理由を、あの役人はきっと考える。
*
昼過ぎ、ヴェルナは河港の安宿の二階で、頭の中のものを紙に書き出していた。
去年の秋の十一分。設計値の十四分。春の七日間の空白。
流量の数字は一つもない。持ち帰れたのは、手に入れようとしたものの三分の一以下だった。
それでも、十一分は使える。
セファに向かって「設計値は知ってる」と言うより、「去年の秋は十一分持った」と言うほうがずっといい。
問題はセファにどうやって会うかだった。
ヴェルナは紙をたたみ、窓の外の河を見た。荷船が三艘、上流の桟橋へ向かっている。巡潮の前に荷を運び込もうと、どこの船も急いでいた。
西の採掘場の工兵の中に昔、聖都の工房で一緒に刻印板を磨いた男がいる。今は西方迂回路の弁の保守をしているはずだ。セファの班の下にいる。
会いに行けば、また名前が統治官府に回るだろう。
ヴェルナは書きつけの最後の行を指でなぞった。
春の七日間。別紙参照。署名、ダレス。
なぜこの七日だけ、一行で済ませたのか。
紙を折って上着の内側にしまった。
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