第3話 悪女は治療院へ来る
その日の昼下がり、ヴェルナは療養院の裏門に着いた。門は厨房の勝手口と同じ幅しかなかった。
ヴェルナは荷車の御者台から降り、木箱を三つ数えた。どれも縄が緩んでいない。街道の轍で一つくらいは割れていると覚悟していたが、梱包した自分を褒めてやりたかった。
「河港機工組合から参りました。院内装置の据え付けの件で」
そう告げると門番は中へ走っていった。戻ってきたのは門番ではなく、白衣の女だった。髪を後ろで乱暴にまとめ、袖を肘までまくっている。四十代の半ば。目の下の隈が昨日今日できたものではない。
女はヴェルナの顔を見て、それから荷車の木箱を見て、最後にまた顔を見た。
「手配書の似顔絵より痩せてるのね」
ヴェルナは笑顔のまま帽子のつばを指で直した。
「似顔絵描きの腕が悪いのよ。医長のハンナさん?」
「そう。中に入る前に、三つ約束して」
ハンナは指を立てた。
「今日やるのは低負荷の試験だけ。時間は私が決める。私が止めろと言ったら、理由を聞かずに止める」
「二つ目は」
「患者に嘘をつかない。組合の技師だと名乗るのは構わない。でも装置について訊かれたら本当のことを答えて」
「三つ目」
「誰か一人でも具合が悪くなったら、あなたを門の外の衛兵に引き渡す」
ヴェルナは木箱の縄に手をかけた。
「一つ目と三つ目は飲むわ。二つ目は、訊かれ方による」
「なら入れない」
「……分かった。飲む。全部」
ハンナは返事をせず勝手口の扉を押さえて待った。
*
残留病棟は療養院の一番奥にあった。
大部屋に寝台が二列。窓は高く、どれも鎧戸が半分閉めてある。消毒液と、煎じ薬と、人が長く横になっている部屋の匂いがした。
寝台の頭板には名前を書いた札が下がっている。ヴェルナは木箱を運びながらそれを一枚ずつ目で拾った。マルタ。七十一。トマ。十九。寝台の脇で真鍮の固定術具が低く唸っている。グレン。五十四。
「あんたが技師か」
そのグレンが寝台の上から首を伸ばしている。日焼けの抜けきらない太い腕に、点滴の管が二本。脚には分厚い毛布がかかっている。
「そうよ」
「若いな。その箱は何だ」
「装置」
「何の装置だ」
「蝕を寄せつけない囲いを作る装置」
「囲いってのは、壁か」
「壁じゃない。膜。目には見えない」
「見えないもんをどうやって確かめる」
「あとで見せるわ」
ヴェルナは真鍮の枠を床に組み、四隅に刻印板を据えた。刻印の向きを一枚ずつ合わせる。ここで一度でも狂えば、膜は片側だけ薄くなる。
「その板は何でできてる」
「銅と銀の合金。あと秘密」
「秘密は嘘のうちに入らんのか」
ハンナが離れた寝台から咳払いをした。
ヴェルナは刻印板から目を上げずに答えた。
「銅が六、銀が三、残りの一は月光石の粉。月光石は霊素の通り道を揃える。揃えないと膜に穴が開く。これで満足?」
「月光石ってのは高いのか」
「この板一枚で、あなたの寝台が十台買える」
「なら壊すなよ」
「壊さないわよ」
グレンは満足したように枕へ頭を戻し、それから毛布の下で右脚を持ち上げようとした。毛布が少し盛り上がって、すぐに沈んだ。
「くそ。昔は荷を二つ担いで桟橋を走ってたんだがな」
「河港?」
「第三桟橋だ。組合の技師なら、親方のボルクを知ってるだろう」
ヴェルナの手が刻印板の上で止まった。
「さあ。私、事務方とは付き合いが薄くて」
「ボルクは事務方じゃない。荷役頭だ」
「その刻印、もう少し右に寄せたほうがいいかしら。どう思う、グレンさん」
「知るか。俺は荷役だ」
ハンナが今度ははっきりとこちらを見ていた。ヴェルナは見なかったことにした。
*
装置の中心に拳ほどの予備核を三つ嵌めた。
院内の自前の構成部品だけで動かす。大型核の供給は一滴も借りない。今日の試験はそれで足りる。ヴェルナは真鍮枠の脇に膝をつき、ハンナから受け取った細長い紙の束をほどいた。
「検蝕紙。蝕に触れると灰色になる。あなたたちのほうが詳しいでしょうけど」
「毎朝病棟に吊るしてる」
「なら話が早い」
ヴェルナは紙を三本ずつ、病棟の内側と、廊下の扉の外に吊るした。それから窓の鎧戸の隙間に、一本だけ別の紙を差し込む。外からの風が当たる場所だ。
「医長。時間を」
「十分。それ以上は止める」
「十分ね」
ヴェルナは真鍮枠の起動環に指をかけた。
霊素を流す。予備核が順に熱を持ち、四隅の刻印板に光が走った。枠の上で空気がわずかに歪み、病棟の天井へ向かって薄い膜が持ち上がっていく。
見えない、とグレンには言った。正確には見ようとしなければ見えない。
膜が天井に届き、壁を伝って床まで降りる。刻印板の光が四枚とも同じ色に揃った。
ヴェルナは息を吐いた。
「……何も起きんじゃないか」
グレンが言った。
「起きてるのよ」
「どこが」
「待って」
五分が過ぎた。
廊下の扉の外に吊るした検蝕紙の端が薄く灰色に染まり始めた。鎧戸の隙間の一本は、もう半分まで色が変わっている。巡潮の前の季節は、風に乗る蝕の量が増える。
病棟の内側の三本は白いままだった。
七分。外の紙は根元まで灰色になった。内側は白い。
九分。内側は白い。
ハンナが寝台の間を歩き、内側の紙を一本ずつ指で裏返して確かめた。それから廊下の紙を一本外して、窓の光にかざした。
誰も何も言わなかった。
「十分」
ハンナの声でヴェルナは起動環から指を離した。刻印板の光が順に消え、膜がほどけるように天井から降りてくる。予備核の熱が手のひらに残った。
「止めたわよ」
「見てた」
ハンナは灰色の紙と白い紙を並べて持ったまま、しばらく黙っていた。
「動いたわね」
「動いたわよ」
ヴェルナは笑っていた。笑いを止めるつもりもなかった。刻印板の一枚に手を当てると、まだほんのりと温かい。四枚とも狂わなかった。十分間、一度も。
「マルタさん、トマくん、グレンさん。今の十分間、この部屋の中には蝕が一粒も入らなかった。分かる? 一粒もよ」
「分からん」
グレンが言った。
「紙が白いのは見えた」
「それで十分」
隣の寝台でマルタという老女がしわだらけの手を叩いた。音はほとんど出なかったが、二度叩いた。トマの固定術具はさっきと同じ調子で唸っている。
ハンナが白い紙を胸の隠しにしまった。
「これで、巡潮の夜を越せる?」
「この規模なら通常の濃度で三十時間以上は保つ。でも巡潮の夜の濃度は桁が違う。この子たちだけじゃ足りない」
ヴェルナは予備核の一つを指で弾いた。
「だから要請を出してもらったんでしょう。大型核から、ほんの少しだけ」
「出したわ。返事はまだ来てない」
「来ないでしょうね。今の統治官なら」
「今夜、街へ行って直接話してくる」
ハンナは白衣の上に外套を羽織り、袖を通しながらヴェルナを見た。
「あなたのことは言わない。まだ」
「まだ、ね」
「装置が本物だとは言う」
ヴェルナは返事の代わりに刻印板を布で包み始めた。
*
厨房の勝手口で木箱を荷車に積み直していると、野菜を運んできた荷馬車の男が、門番と立ち話をしている。
「北門だよ。昼過ぎに異形が三匹出てさ。避難民が百人からいて、門が開かなくて」
「開かない?」
「錠前の術式が壊れてたんだと。そしたら旅の女剣士が来て、その錠前だけ斬っちまった。ばっさり」
「乱暴だな」
「それで結界が弱ったところに、三匹目が頭突っ込んできたんだ。もう駄目だって時に、聖女様が内側から金色の壁をどーんと」
「聖女様が北門に?」
「いたんだよ。で、その女剣士がまた、壁を足場にしてさ。こう、ひょいっと」
男は野菜籠を抱えたまま、片足で跳ねてみせた。
「あとで聞いたら、その剣士が勇者様だっていうじゃないか。魔王を斬ったっていう」
ヴェルナは木箱の縄を締めていた手を止めた。
錠前だけ斬った。結界が弱った。金色の壁。壁を足場に、ひょいっと。
喉の奥から勝手に笑いがこみ上げた。
一度噴き出してしまうと止まらなかった。肩が揺れる。縄を握ったまま荷車にもたれ、ヴェルナは声を殺して笑った。あの二人だ。八年経っても、あの二人は門一つ前にして同じことをしている。
「技師さん?」
門番が怪訝な顔でこちらを見ていた。
ヴェルナは咳払いを一つして帽子のつばを深く下ろした。
「ごめんなさい。埃が入ったの」
「荷馬車の埃か」
「そう。ひどい埃」
縄を締め直す。今度は指が少し震えた。
顔を上げると勝手口の内側にハンナが立っていた。旅用の外套を着て、手に馬の鞭を持っている。こちらを見ている目はさっき検蝕紙を光にかざしたときと同じだった。
ヴェルナは帽子のつばの下で最後の結び目を固く締めた。
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