第2話 聖女の勘定
最後の一本を縫い込むと指先の感覚がなくなった。
リゼルは外門の金具から手を離し、膜を見上げた。破れた箇所はふさがっている。厚みは元の七割ほどで、残りは明日技師に錠前ごと直させるしかない。巡潮まで四日。北門に予備の術者を回す余裕はどこにもなかった。
「聖女様」
検疫官が帳面を抱えて駆けてきた。白い前掛けの裾に灰色の染みが散っている。
「待機区画への収容は百十七人です。咬傷はなし。異形の体液が肌や傷口に触れた者が三人いて、こちらは二晩留めます。あとは今夜中に検査を終えます」
「百十七」
「はい。それと、老人が一人、腰を打っています。歩けます」
リゼルは天幕の並ぶ広場を見渡した。水樽の前に列ができ、子供が母親の膝で眠っている。さっきの少女は毛布の端を噛みながら門の外を見ている。
日が落ちるまで外に置いていたら、何人がここにいたか。
数えかけて、やめた。あの錠前が斬られなければ、百十七人はまだ門の外だった。
「ご苦労さま。三人の隔離区画には私の名前で毛布を追加して」
「はい」
検疫官が去ると入れ替わりに足音が近づいてきた。走ってくる足音だ。昔から変わらない、踵を落とさない走り方。
「検査、通った!」
レオナが手甲を外した両手を振っている。肩当ては新しい布で縛ってあり血はもう止まっているようだ。
「体液は手甲だけで、肌には付いてないって。消毒の水がめちゃくちゃしみたけど」
「それは良かった」
「でしょ」
レオナは笑ったままリゼルの隣で外門を見上げた。
「直ったね」
「直ってない。ふさいだだけ」
「同じじゃない?」
「同じじゃない」
リゼルは手袋をはめ直した。指がまだうまく曲がらない。
「百十七人。全員、待機区画に入ったわ」
「ほんと? よかった」
「あなたのおかげよ。それは本当」
レオナの口が開きかけたところで、リゼルは続けた。
「でも、あの錠前を斬る前にどうして私を呼ばなかったの」
「呼ぶ?」
「聖堂の詰所はこの門から半刻よ。隊長の伝令は、あなたが斬る前にもう私のところへ着いていた。私は向かっていたの」
「知らなかったもん。リゼルがラグナにいるなんて」
「聞けば誰でも答えた」
「聞く暇なんかなかったって! あと一体来てたんだよ、見てたでしょ」
「見ていた。だから言っているの」
声が尖ったのが自分でも分かった。止めなかった。
「あなたが斬ったのは錠前だけじゃない。予備結界の出力も一緒に落ちた。私が間に合わなければ、三体目は待機区画の中まで入っていた。百十七人と一緒に」
「閉めたままなら、外の人が襲われてた」
レオナはもう笑っていなかった。
「隊長に確かめたよ。内門の結界は別系統で落ちないって。だから外門だけ開けた」
「開けた後を、一人で守れると思ったの」
「思った」
一拍おいて、レオナは肩当ての布に触れた。
「……ちょっと危なかったけど。でもリゼルが来たじゃん」
最後の一言だけが昔のままだった。助けが来ることを、この子は疑わない。
それに何度救われたか、数えたことはない。数えたくもない。
「次は待って」
「待ってたら死んでた人がいたら?」
「そのときは」
言いかけてリゼルは口を閉じた。その先を言える立場に自分がいないことを、目の前の相手より自分のほうがよく知っている。
レオナが首を傾げた。
「ねえ。さっきの、『今度は』ってさ――」
「アディラ」
リゼルは振り返らずに呼んだ。内門の脇に控えていた副官がすぐに馬の手綱を引いてくる。
「詰所へ戻ります。北門の報告書は今夜中に」
「承知しました」
「ちょっと、リゼル」
「レオナは今夜どこに泊まるの」
「え? 決めてない」
「聖堂の宿坊に一部屋空いてる。アディラ、案内の者を一人つけて」
「待ってよ、まだ話――」
「宿坊の夕食は日没までよ。急いで」
リゼルは鐙に足をかけた。背中でレオナが何か言っていたが、蹄の音が先にそれを消した。
*
詰所の机には書類が三山積まれている。
アディラが燭台を寄せ、一番上の束を差し出す。
「先に二件だけ、今夜中に目を通していただきたいものがあります」
「どうぞ」
「一件目は東部療養院です。入院患者は百六十人。検疫済みの受入施設への移送は明日から順次始めますが、受入側の病床と専用の運搬車が足りません。全員の移送日程はまだ組めていないと」
「足りないのは何台」
「数字は明日、医長から直接出すそうです。ただ、移送に耐えられない患者が一定数いる、とだけ書き添えてありました」
リゼルは書類をめくった。療養院の印章の下に几帳面な字で日付と署名がある。ハンナ。医長の名前だ。
「二件目は」
「大型予備魔導核の運用計画です。セファ技師長の班から。巡潮の間、予備核の出力は西方迂回路の弁と送出設備にほぼ全量を回す、という案です」
「ほぼ、というのは」
「残りは環塔の非常系統の保持分だそうです。余剰はない、と」
アディラは二枚目の書類を重ねた。
「これに対して、東部療養院から予備核の供給の一部を分けてほしいという要請が出ています。院内の防衛装置に追加で霊素を回したいと」
「療養院に、予備核の供給を受けられる装置があるの?」
「そこまでは書いていません。誰の装置なのかも」
リゼルは要請書を燭台に近づけた。署名は同じハンナ。装置の仕様欄は空白だった。
「統治官は」
「今夜、二の鐘のあとに関係者を集めて緊急の協議を開くそうです。聖女様にもご出席をと」
予備核は一基しかない。西方迂回が止まれば、巡潮で東の主導管に集まる蝕は行き場を失う。その一基を割けと言われて、割けるはずがなかった。
けれど要請書の空白が妙に目に残った。仕様も書けない装置に、医長が自分の名前を貸している。
「アディラ。協議の前に医長と話せないか当たって」
「はい。それと」
アディラは三山目の書類の上に紙に包んだパンを一つ置いた。
「昼から何も召し上がっていません」
「あとで」
「北門で結界を繕われた分、今夜はもう術をお使いにならないでください。巡潮は四日後です」
リゼルは包みを見て、それからアディラを見た。副官は表情を変えずに待っている。
結局包みを開き、パンを半分に割った。
「残りは自分で食べて」
「私は食べました」
「じゃあ明日の朝の分」
アディラは諦めた顔で半分を受け取った。
*
訪問者が来たのは燭台を一本替えたあとだった。
「医長が、どうしても今夜お会いしたいと」
取り次いだ衛兵の後ろから女が一人入ってきた。四十半ばくらいだろうか。白衣の上に旅用の外套を引っかけ、髪は後ろで乱暴にまとめている。靴に泥が乾いている。
「東部療養院医長のハンナです。夜分に失礼します」
「ちょうどお話ししたいと思っていました。どうぞ」
ハンナは椅子を勧められても座らなかった。
「協議の席では話せないと思ったので」
「予備核の要請のことですか」
「それもあります。でも先に、これを」
ハンナは外套の内側から紙束を出し机に置いた。帳簿ではない。一枚ごとに筆跡が違い、端に薬液の染みがついている。
「処置の記録です。一番上は、先月うちから聖都の病院へ移した患者のものです」
リゼルは一枚目を取った。
年齢は十九。肺に蝕の沈着。固定術具で呼吸を補助。移送の途中、二つ目の橋を渡ったところで術具の安定が崩れ、搬送車の上で心拍が止まった、とある。受入先に着いたのは遺体だった。
「移送で、かえって死ぬ患者がいます」
ハンナの声は平らだった。
「うちに今残っている人の中にも。全員じゃありません。でも、動かせば確実に何人かはこうなる。動かさなければ、巡潮の夜を越せないかもしれない」
リゼルは二枚目をめくろうとして指を止めた。
紙の端に子供の字で落書きがあった。下手な馬の絵と、名前らしい三文字。患者が描いたのか、患者の家族が描いたのか。
「この記録を、私に見せる理由は」
「数字だけ聞いたら、あなたは計算をするでしょう。聖女様は計算が速いと聞いています」
ハンナはそこで初めて机の端に片手をついた。
「計算する前に、一枚でいいから読んでください。このあとの協議で、私はそれをお願いします」
リゼルは何も答えなかった。
二枚目の落書きの馬は脚が五本あった。
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