第1話 開かない北門
北門まで、あと三百歩。
轍の深い街道を避難民の列が這うように進んでいる。荷車が二台、手押し車が五台。歩ける者はみな歩いている。先頭はもう城壁の影に入ったが、最後尾の老人はまだ丘の下りで杖をついている。
レオナは列の脇を逆に走った。
「止まるな! 門まで行けば入れる!」
怒鳴りながら、本当に入れるのかは知らなかった。ラグナの北門がどういう門なのかレオナは見たこともない。知っているのは背後の丘に何がいるかだけだ。
稜線の灌木が揺れた。
四つ脚の異形が斜面を滑り降りてくる。犬にしては大きすぎ、牛にしては速すぎる。灰色の外殻の継ぎ目に青白い紋が脈打っている。
一体。二体。
昼に見たときは三体いた。
「爺さん、荷物捨てて!」
「孫の……」
「孫は前にいる! 走って!」
老人の背を押し出し、レオナは振り向きざまに剣を抜いた。
先頭の一体が跳んだ瞬間、レオナは前へ潜った。頭上を腹が通り過ぎる。着地した後脚の付け根、紋が二本交わる結び目へすれ違いざまに切っ先を引っかけた。
《断界》。
手首に糸を断ったような軽い手応えが返る。後脚が支えを失って折れ曲がり、異形は自分の勢いで斜面を転がっていった。
二体目はレオナを見ていなかった。
列の後ろをまっすぐ追っている。
「こっちだって!」
石を拾って投げたが、外殻で跳ねただけで振り向きもしない。
賢い。一番弱いところを知っている。
レオナは舌打ちして走った。足が轍を踏み外し膝が石にぶつかる。痛いと思う前に立っていた。
轍が石畳に変わる。門の前だ。
石畳を転がった水桶に子供の足が引っかかった。
少女が倒れる。前を走る母親が振り向いた瞬間、背後の異形が城門脇の荷車を踏み潰した。
「伏せろ!」
レオナは少女の前に滑り込み、振り下ろされた前脚を剣の腹で逸らした。腕が痺れたが踏み込んだ足は動かさない。
肩の関節に光の継ぎ目が走っていた。そこへ刀身を斜めに滑らせる。
紋が途切れた。巨体が傾く。
だが倒れながら振った爪はまだ動いている。
「しつこい!」
少女を背中に庇い身体を半歩開いた。爪が肩当てを裂く。踏みとどまり、剣を喉の隙間へ突き込んだ。
重い頭が石畳を叩いた。
少女はレオナの外套の裾を握ったまま泣くのも忘れて固まっていた。
「ほら、お母さん」
指を一本ずつ外してやると、少女はようやく母親へ手を伸ばした。母親が娘を抱えて走り出す。その背中を見送る暇もなくレオナは北門を見上げた。
鉄張りの門は黒ずんだ扉をぴったりと閉じ、その上の胸壁を兵士が何人も走っている。
扉の前では避難民の先頭が団子になり、扉を叩く音と子供の泣き声と誰かの祈りが混ざる。門の外に残っていた兵が二人、扉に押しつけられる人々を引き剥がそうとしていた。
「おい、まだ開かないのか!」
胸壁に向かって怒鳴ると兵士が身を乗り出した。
「施錠の制御が死んでる! 触るな、結界の予備系統も通ってる!」
「じゃあどうすんの!」
返事の代わりに別の男が胸壁に立った。槍を背にした肩幅の広い中年の男だ。兜の下の顔は日に焼けて慌てた様子がまるでなかった。
「防衛隊長のガルダだ。内門は開けられん。検疫が済むまで市内には一人も入れない」
「中に入れろなんて言ってない!」
「最後まで聞け。外門の内側は待機区画だ。そこまでなら全員入れる。天幕も水もある。問題は外門のほうだ」
ガルダは足元を顎で示した。
「今朝から錠前の術式が噛んだまま動かん。技師を呼んだが来るのは夕方だ」
「夕方まで待てるわけないでしょ」
丘の上を振り返ったが、まだ何も見えない。
三体目はどこへ行った。
レオナは扉の脇へ回った。錆びた金具の奥、石に刻まれた溝の中で術式の光が脈打っている。太い線と細い線が一本ずつ、金具の手前で寄り添い奥で分かれている。
手を伸ばしかけて、止めた。
指で線を一本ずつ辿る。どこから来てどこへ行くのか。細い線は扉の閂の中へ消え、太い線は壁を伝って上へ、胸壁の向こうへ延びている。
「隊長! どっちが錠前?」
ガルダは眉を上げ、すぐに答えた。
「左の細いほうだ。ただ錠前を切っても予備結界の出力は落ちる。ここで制御が繋がってる」
「弱まるだけ?」
「ゼロにはならん。だが切った後は、異形が一体でも来れば扉の前は保たないと思え。内門の結界は別系統だ。そっちは落ちない」
レオナは丘を見た。それから扉の前に固まった人の数を数えようとしてやめた。百人より多く、その中にはさっきの少女もいる。
「なら施錠だけ斬る。離れて!」
扉の前の人々が兵士に押されて左右に割れた。
レオナは剣先を金具の奥へ差し入れた。細い線の、太い線から一番離れたところ。
切っ先が光に触れる。
ぷつりと何かがほどけた。
閂の奥で金属が落ちる音がして扉が指一本ぶん浮いた。兵士が二人がかりで押し開けると、鉄の蝶番が悲鳴を上げた。
「入れ! 押すな、全員入れる!」
ガルダの声が胸壁から降ってくる。人の波が門の口へ吸い込まれていった。
開いた扉の向こうに、二十歩ほどの石敷きの広場がある。奥にもう一枚の門が閉じていて、両脇に並んだ天幕のあいだを白い前掛けの者たちが走り回っている。
レオナは扉の脇に背をつけて列の最後尾を待った。
頭上で空気の膜が鳴った。
見上げると外門の上に張られた半透明の壁が、灯の消えかけた行灯みたいにまたたいている。思っていたより薄い。
「……あれ、ほんとにゼロじゃないんだよね」
誰にともなく言ったとき丘の灌木がまた揺れた。
三体目はほかの二体より一回り大きかった。
稜線を横に走って列の脇へ回り込み、門を目がけて斜面を駆け下りてくる。
最後尾の老人がまだ二十歩ほど外にいた。
「爺さん!」
レオナは門を飛び出した。
老人の腕を掴み半ば担ぐように引きずる。後ろで地面を蹴る音が近づいてくる。十歩。五歩。門の口に老人を放り込んで振り返った。
異形はもう跳んでいた。
剣を立てる。前脚を受けた刀身が軋み両腕が肘まで痺れた。足が石畳の上を滑り、押し込まれて背中が門の柱に当たった。
外殻の紋が肩と肘と首の三か所で光っている。どれも厚く、さっきの二体とは継ぎ目の太さが違う。
斬れなくはない。ただ一か所ずつだ。
一つ目、右肩。刃を返して紋を払う。前脚が垂れた。
異形は止まらなかった。垂れた脚を引きずったまま首を低くして門の口へ頭をねじ込もうとする。頭上の結界にぶつかり膜が大きくたわんだ。
破れる。
レオナは異形の首にしがみつくように剣を回した。二つ目の紋を探すが、暴れる首の上で光の位置が定まらない。
「じっとしてろ、この――」
膜が裂ける音がした。
異形の頭が門の内側へ半分入る。待機区画の天幕の下で誰かが悲鳴を上げた。
次の瞬間、異形の鼻先に金色の壁が立った。
石敷きから門の天井まで届く光の壁に、異形の頭がぶつかって跳ね返される。
壁の端は斜めに折れていた。
門柱に沿ってちょうど四十五度。敵の頭が滑って外へ逃げるように。
レオナは笑った。
この張り方を知っている。
金色の壁がもう一枚、異形の後ろに立つ。門の外側へ。二枚の壁に挟まれて巨体が身動きを失った。首だけが暴れる場所を探して上を向く。
喉の紋がまっすぐ見えた。
「もらった!」
レオナは金色の壁の縁を蹴った。硬い。昔と同じ硬さだ。跳び上がった勢いのまま首の継ぎ目へ剣を振り下ろす。
《断界》。
紋が弾けて消えた。剣はそのまま外殻の隙間を割り首の奥まで沈んだ。
異形の膝が折れる。巨体が石畳に沈み、二度痙攣して動かなくなった。
着地したレオナはしばらく剣を抜かずに立っていた。腕が震え、肩当ての裂け目から血が一筋流れていた。
それでも口の端が上がるのを止められなかった。
「よし……!」
待機区画のほうで誰かが手を叩いた。一人、二人。すぐに拍手と歓声になった。
*
異形の死骸を兵士たちが鉤で引きずっていくあいだに、ガルダが胸壁から降りてきた。槍を肩に担ぎ、まず死骸を、次に外門の上でまたたく結界を、最後にレオナを見た。
「錠前の修理代は誰に請求すればいい」
「私に。払えないけど」
ガルダは笑わなかった。
「待機区画に入った者は全員、検疫官が一人ずつ診る。体液が肌や傷口に触れていれば二晩留める。あんたもだ。勇者だろうと検査は免除しない」
「私も?」
「異形の血を浴びてるだろう」
言われてレオナは自分の腕を見た。灰色の体液が手甲にこびりついている。
「……分かった。診てもらう」
「それから」
ガルダは外門の上を見上げた。金色の壁はもう消えていたが、破れかけた予備結界の膜に細い光の糸が何本も縫い込まれている。誰かがそこへ手を入れて繕っている最中のように見えた。
「あれは俺の部下の仕事じゃない。礼を言っておけ」
レオナが訊き返すより先にガルダは兵士たちの方へ歩いていった。
レオナは待機区画を見回した。天幕、水樽、座り込んだ避難民たち、検疫官の白い前掛け。さっきの少女が母親の膝の上で水を飲んでいる。老人は孫を見つけたらしく二人で同じ毛布にくるまっている。
内門の手前に白い外套の一団がいた。聖堂の紋章をつけた兵が十人ほどで、その真ん中に背の高い女が一人、外門の結界を見上げて立っていた。天幕の陰で誰かが「聖女様だ」と囁いた。
金色の髪をうなじで固く結っている。
「レオナ」
八年ぶりに聞く声だった。
結界から目を下ろしたリゼルがこちらを見たとき、レオナはもう笑っていた。
「リゼル! 久しぶり!」
駆け寄りかけて手甲が汚れているのを思い出し、両手を背中に回す。リゼルはそれを見て何も言わなかった。
昔より痩せて、頬の線が鋭くなった。それなのに外套の裾を払うときに左手だけを使う癖は少しも変わっていなかった。
「さっきの壁、リゼルでしょ。すぐ分かった。端っこ折るやつ」
「門の術式を斬ったのは、あなた?」
リゼルはレオナの言葉には答えなかった。
「施錠だけ。今度はちゃんと確かめた」
胸を張って言った。隊長にも聞いた、線も辿った、と付け加えようとした。
リゼルは目を逸らした。
「……『今度は』、ね」
それきり彼女は外門の金具へ歩いていき手のひらを当てた。弱った予備結界の膜に金色の糸がまた一本縫い込まれていく。
レオナは背中に回した両手をどこへ戻せばいいのか分からなかった。
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