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第8話「0と1のあいだで」

光が散った。


白い粒子が足元から立ち上って、輪郭を溶かして、星空に混じっていく。淡い。ゆっくり。足元から。膝から。腰から。胸から。肩から。顔から。——最後まで残っていたのは目だった。笑っている目。赤い縁の目。


消えた。


——消えた。


浜辺に風はなかった。波がぶつっと切れた。三秒。

虫の声だけが鳴っていた。姿のない虫。声だけの存在。


立っていた。


立っていた場所から動けなかった。ひまりがいた場所に——何もなかった。砂だけがあった。足跡があった。小さい足跡。粗いテクスチャのドットが丸い穴をぽこぽこと並べている。さっきまで誰かがいた証拠。


いた。——いない。


光の粒子。


白い。淡い。足元から立ち上って。輪郭が溶けて。星空に混じって——


——同じだ。


同じだった。


体が答えた。頭より先に。引き出しの底より先に。もっと手前の——骨格と筋繊維の間に焼きついた何かが、答えた。


この光を知っている。


この光の中に誰かが消えた。

消えた後——画面の端のリストから名前が一つ——


引き出しの底が、割れた。


底板が、蓋が、ラベルが、全部が、一度に、持ち上がった。

七日間ずっと底に沈んでいたものが——もう沈んでいられなかった。


七十二時間分の重さが、圧縮されていた全部が、底を突き破って——


白くなった。


視界が。聴覚が。触覚が。Star Gardenの星空が遠ざかった。波の音が遠ざかった。砂の感触が消えた。足裏の草の重さが消えた。虫の声が消えた。


全部が——白くなった。


白の中に——ぽつぽつと色が混じった。


---


日曜日の午後だった。


小さな部屋の窓から光が入っていた。五月の光。カーテンが半分開いていて、フローリングの上に光の四角形がひとつ。


「お兄ちゃん早くー!」


PCから、声が聞こえた。


——知っている声だった。


今の声ではなかった。もっと——高い。もっと幼い。もっとまっすぐ。十二歳の声。丸くて甲高くて、語尾が少し跳ねる声。


大学の寮で、ひとり椅子に座っていた。

奮発して買ったゲーミングチェアだ。

体が——重い。重いが、Star Gardenの「重さ」とは質が違う。筋肉の重さ。骨の重さ。

十九歳の体の、物理的な重量。ヘッドギアの圧迫感が額にある。こめかみの電極がぴりぴりする。——VRデバイスの脳波接続。皮膚感覚がある。全部の皮膚感覚がある。


「うるせえ、今やってる」


口が動いた。


自分の声だった。——自分の……声だった。

引き出しの中にあった声。八十パーセント一致の参照音声の、残りの二十パーセント。

低さの芯が違う。喉の鳴り方が違う。その二十パーセントの差が——全身にあった。


メニュー画面が見えていた。パーティ編成。「ひまり」の名前が緑色のテキストで表示されている。

HP、MP、レベル。緑は「正常」。正常に生きている。

パーティリストの二行目。一行目は——自分。


桐生蓮。レベル47。


「レアモンスター狩り行くんでしょ! 早く早く!」


「待て。バフかけてから」


「バフとかいいから行こ!」


「よくねえよ。死んだら戻されんだぞ」


——死んだら戻される。


ゲームの中で倒されたら、ログイン画面に戻る。

経験値を失う。ランダムにアイテムを落とす。

それだけ。——それだけだった。

それだけのはずだった。


フィールドに出た。


広い草原。風が吹いている。草が波打つ。遠くに山脈。雪を被った稜線。——本物の山だった。

ハリボテの山じゃない。厚さがあった。裏側も存在していた。

テクスチャは端まで繋がっていた。十歩先で剥がれたりしなかった。


空が青かった。昼だった。太陽があった。雲があった。風があった。匂いが——匂いはなかった。嗅覚は未対応だ。でも風の音があった。温度があった。肌に当たる空気の温度が。二十三度。五月の風。


ひまりが隣を走っていた。


十二歳のひまり。肩より少し下の黒髪。毛先が跳ねている。丸い目。小柄。——今と同じだ。二年後と同じだ。

背丈は違う。目の高さが違う。でも走り方が同じだ。前傾姿勢で、腕を大きく振って、足音を鳴して、全力で。


「お兄ちゃん遅い!」


「お前が速すぎんだよ」


走った。隣を走った。追い抜かなかった。追い抜ける速度だった。レベル差がある。ステータス差がある。——追い抜かなかった。隣を走った。半歩前。ひまりが半歩後ろ。


いつも歩いている距離だった。


---


三十分後。


フィールドの中央を移動中だった。レアモンスターの出現ポイントに向かっていた。マップ上に赤い点滅。あと五分で到着する距離。


画面の右上に——テキストが流れ始めた。


チャット欄。全体チャット。


『ログアウトできない』


一行。


『え? ログアウトボタンなくない????』


二行。


三行。四行。五行。——十行。二十行。秒速でテキストが溢れた。スクロールが追いつかなかった。


『サーバーエラーか????』

『ログアウトできないんだけど!!!』

『メニュー開いてもボタンがない!! ない!!!!!!』

『運営仕事しろ!!!!!!!!!!!!!!!』


立ち止まった。


メニューを開いた。——ログアウトボタンがなかった。


あるべき場所に灰色の空白があった。タップした。反応しなかった。長押しした。反応しなかった。メニューを閉じて開き直した。なかった。


「お兄ちゃん?」


ひまりの声がした。隣で立ち止まっている。同じ画面を見ているはずだ。同じものが——ない。


「——大丈夫だ」


嘘だった。大丈夫ではなかった。大丈夫ではないことが——分かりすぎていた。

プログラミングを齧っている人間として。サーバー側の認証プロセスが死んでいる。

クライアント側で強制終了するには——外部のヘッドギアを物理的に外すしかない。

外すにはリアル側で誰かが外してくれなければならない。


チャット欄がさらに加速した。


『死んだらリアルでも死ぬらしい』


一行。


一行が——刺さった。チャットの奔流の中の一行。根拠のない一行。誰が書いたか分からない一行。


『脳波接続してるから 死んだときのフィードバックで脳がショートするって』

『まじで??????』

『デマだろ落ち着け』

『デマじゃなかったらどうすんだよ!!!!!!!』

『殺されたやつが戻ってきてないんだけど!!!!!!!!!!!!!! 確認できる人いる!?!?!?!?』

『戻ってこない=ログイン画面にもいない=リアルでも——』


嘘だ。


嘘だと——分かっていた。分かっていたはずだった。

ゲーム内で死亡した場合のサーバー処理はクライアント側でのリスポーン命令、個々のヘッドギアのホーム画面への帰還であって、脳波デバイスへの逆流なんか起きない。

設計上ありえない。ありえない——はずだ。サーバーが正常なら。サーバーが正常なら。


サーバーは正常ではなかった。


ログアウトボタンが消えるような異常が起きているサーバーで、「設計上ありえない」は——どこまで信用できる。


遠くで悲鳴が聞こえた。


最初の悲鳴。金属が肉を裂く音。——剣。剣の音。プレイヤーの剣がプレイヤーの体に当たる音。


PKが始まった。


「お兄ちゃん——」


ひまりの声が震えていた。十二歳の声が。甲高い声が。——震えている。


手を掴んだ。


小さかった。——ひまりの手は小さかった。指が細かった。冷たかった。VRの触覚は圧力だけのはずだ。温度はない。——冷たかった。恐怖で冷たくなった手だった。指先が震えていた。


「逃げるぞ」


走った。


ひまりの手を離さなかった。離したら——見失う。フィールドは広い。二千人以上がいる。二千人以上がパニックを起こしている。悲鳴と剣戟の音が四方から。チャット欄はもう読めない。秒速百行。全部が恐怖と怒号と噂で埋まっている。


ものの数分で、百人が消えた。

洞窟を見つけた。


フィールドの北端。岩壁に小さな開口部。モンスターの巣穴の一つ。中は暗い。狭い。——隠れられる。


「入れ」


「お兄ちゃんも!」


「入ってる。——奥に行け」


洞窟の奥に入った。暗い。視界が狭まる。天井が低い。しゃがまないと頭がぶつかる。——壁に背を預けた。ひまりが隣にいた。肩が触れていた。


外から音が聞こえた。


剣戟。足音。叫び声。——近い。遠い。近くなったり遠くなったり。波のように。波は規則的だが、これは不規則だった。人間の恐怖は不規則だった。


「大丈夫だ」


言った。


「お兄ちゃんがいるから」


ひまりが頷いた。小さく。——震えていた。肩が震えていた。手が震えていた。握っている手の中で、指が震えていた。


「大丈夫だから」


もう一度言った。自分に言い聞かせるように。


---


六時間が過ぎた。

千人が消えていた。


洞窟の外は——静かになっていなかった。静かになる気配がなかった。PKerの集団が形成されていた。チャット欄の断片から推察するに、複数のギルドが「自衛」の名目で武装し、遭遇したプレイヤーを攻撃していた。「死んだらリアルでも死ぬ」の噂は——確定情報として流通していた。


確認する手段がなかった。


誰かがゲーム内で死んで、リアルで無事かどうか——ゲーム内からは確認できなかった。

ログイン画面に戻った人間がチャットに書き込むことはできない。

ゲーム内にいる人間には、死んだ人間が「消えた」ことしか見えない。消えた先が安全かどうかは分からない。


分からない、が——恐怖を増幅した。


「お腹すいた——」


ひまりの声が小さかった。——VRの中にいる間も、現実の世界の肉体は活動し続けている。六時間、飲まず食わずの状態だった。


「もうちょっと待て」


「いつまで?」


「——分かんねえ」


分からなかった。運営がサーバーを修正するまで。外部から誰かがヘッドギアを外してくれるまで。ひまりの母が帰ってくるまで。——それは、いつだ。何時間後だ。分からなかった。


足音が近づいた。


洞窟の外に。


三人分。——重い足音。武装している。金属鎧の足音だった。ジャラジャラと鳴る。


「ここに誰かいるぞ」


声。低い。男。大人の声だった。


体が勝手に動いた。


立ち上がった。ひまりの前に立った。

洞窟の開口部に向かって。剣を構えた。——片手剣。レベル47の装備。

攻撃力は悪くない。三対一は分が悪い。分が悪いが——背後にひまりがいる。


「出てこい。殺す気はねえ。話がしたいだけだ」


嘘だった。


嘘であることが——分かった。声のトーンで。息遣いで。足音の間隔で。


「——来い」


低い声で言った。自分の声が——変わっていた。

六時間前とは違う声だった。六時間で声が、覚悟が変わった。


一人目が洞窟に入ってきた。


斬った。


斬った感触が——腕に残った。VRの触覚フィードバック。刃が肉に入る振動。HP表示が見える。

相手のHPが三割減った。——一撃では倒せない。レベル差。装備差。こちらの方が上だが、三人を同時には相手できない。


二人目が入ってきた。横から。壁際を回り込んで。


蹴った。


蹴り飛ばした。狭い洞窟では大振りの武器は使えない。こちらの方が有利だ。狭い空間での接近戦。レベルの差がものを言う。


三人目は——入ってこなかった。入り口で止まった。こちらを見て——逃げた。


残った二人を——倒した。


倒す、と決めた瞬間に体が動いた。迷いがなかった。迷いがないことが怖かった。——怖かったが、背後にひまりがいた。ひまりが震えていた。震えているのが分かった。背中越しに。


二人のHPがゼロになった。


光の粒子が散った。白い。淡い。足元から立ち上って——消えた。

ログイン人数がまた二人減った。

消えた場所に何も残らなかった。アイテムが散乱しただけだった。


「——お兄ちゃん」


「大丈夫だ」


振り返った。ひまりが壁際にうずくまっていた。目が大きく開いていた。——怖がっていた。

敵ではなく、自分に。自分が二人を斬り倒すのを見て。


「大丈夫だから」


三度目だった。同じ言葉。同じ意味。——同じ嘘。大丈夫ではなかった。何も大丈夫ではなかった。


六時間の間に——五人を倒した。PKer。五人。全員消えた。全員光の粒子になった。——光の粒子を五回見た。五回とも同じだった。白い。淡い。足元から。


HPは14まで減っていた。


ひまりの回復魔法。レベル12の回復魔法。HP回復量——8。焼け石に水だった。でもひまりが必死に唱えていた。必死に。何度も。八。八。八。八の積み重ね。——焼け石に水でも、水は水だった。


「お兄ちゃん、もう一回回復——」


「ありがとな」


言った。——言うつもりはなかった。口が勝手に動いた。


ひまりが——泣きそうな顔をした。泣かなかった。泣かなかったが、目の縁が赤かった。鼻を一回すすった。


「泣いてないよ」


「知ってる」


---


十二時間目。

生き残っているプレイヤーは100人程度に減っていた。


ここまで生き残ったプレイヤーは、相当な手練れだった。

それでも、どんどんログアウトしていく。

あるいは、リアルの世界にいる家族に助けられたのかもしれなかった。


洞窟を出た。

移動する必要があった。同じ場所にいれば見つかる。痕跡が残る。

倒した二人のアイテムが散乱している。——ここにいた証拠だ。


フィールドを南に移動していた。低い姿勢で。岩陰を伝って。ひまりは後ろについてきていた。半歩後ろ。——いつもの距離だった。


視界が開けた。


丘の上に出た。丘の下に草原が広がっていた。遠くで火の手が上がっていた。——焚き火ではない。攻撃魔法の残滓だった。

フィールド全体に散発的な戦闘の痕跡があった。光の柱。爆発音。悲鳴。——十二時間経っても収まっていなかった。


「——お兄ちゃん」


ひまりの声。緊張している。——後ろだ。


振り返った。


三人組。


丘の裏側から回り込んできていた。無言。武器を構えている。——さっきの三人とは違う。装備が違う。動きが違う。

素人じゃない。訓練されている。ギルド単位の行動。連携がある。


一人が前に出た。タンク型。盾と槌。


一人が右に回った。弓。遠距離攻撃。


一人が——左に回った。ひまりの方に。


「ひまり、俺の後ろに——」


間に合った。


間に合った——タンクとの接敵には。盾を弾いた。槌を避けた。反撃。斬った。HPが削れた。——硬い。タンク型は防御力が高い。


弓が飛んできた。右肩に当たった。——痛い。HPが減った。痛覚フィードバックが腕を焼いた。


もう一本。腿に当たった。膝が折れかけた。——折れなかった。踏ん張った。


タンクの隙を突いた。首元。防御の薄い場所。——斬った。クリティカル。HPが大きく減った。もう一撃。倒した。光の粒子。六人目。


弓の方を向いた。距離がある。走った。矢を二本避けた。三本目が左腕に当たった。——気にしなかった。距離を詰めた。斬った。倒した。七人目。


——三人目は。


振り返った。


遅かった。


三人目が——ひまりの前にいた。剣を振り上げていた。


「ひまりっ!!」


走った。


走った——間に合わなかった。


間に合わなかった。


剣がひまりの体を通過した。ダメージ表示。——ひまりのHPが。レベル12のHP。低い。防御力が低い。回復魔法に特化した構成。HPが——


ゼロになった。


光の粒子が散った。


白い。淡い。足元から立ち上る。——ひまりの足元から。小さな足。

スニーカー。

足元が光に包まれて、膝が溶けて、腰が溶けて、胸が溶けて——


目が合った。


最後の一瞬。光に溶けていく顔の中で——目が合った。ひまりの目。丸い目。十二歳の目。怖がっている目。怖がっているのに——笑おうとしている目。笑おうとして失敗している目。


「お兄——」


声が途切れた。


消えた。


光の粒子が星空に——空に散った。昼だった。空は青かった。青い空に白い粒子が混じって——見えなくなった。


パーティリストを見た。


「ひまり」の名前が消えていた。


一行消えていた。リストが一行分上にずれていた。緑のテキストがあった場所に——何もなかった。


「——ひまり」


声が出た。


返事がなかった。


ひまりが立っていた場所に——何もなかった。草だけがあった。風に揺れていた。さっきまで誰かがいた場所。いた。——いない。


三人目のPKerが逃げていた。背中が見えた。走っている。——追わなかった。追う足が動かなかった。


膝が——ついた。


草の上に。


「ひまり」


もう一度呼んだ。


返事がなかった。


死んだのか。ログイン画面に戻ったのか。リアルで目が覚めたのか。——脳がショートしたのか。嘘だ。嘘のはずだ。嘘だと分かっている。分かっているのに——確認する手段がなかった。


確認する手段がなかった。


生きているかもしれない。死んでいるかもしれない。目が覚めて泣いているかもしれない。脳が壊れて二度と目を開けないかもしれない。——分からない。分からない。


分からないまま——立ち上がった。


立ち上がるしかなかった。座っていたら殺される。殺されたら——リアルで死ぬかもしれない。死なないかもしれない。分からない。分からないが——死ぬわけにはいかなかった。


ひまりが生きているなら——帰らなければならない。


ひまりが死んでいるなら——帰って確認しなければならない。


どちらにしても——生きなければならなかった。


歩き出した。


一人で。


---


二十四時間が過ぎた。


隣にひまりはいなかった。


ログイン人数は、六十人を切っていた。

チャット欄は——まだ流れていた。


流量は目に見えて減っていた。初期のパニックが消耗に変わっていた。長文が減った。短文が増えた。「助けて」「怖い」「いつ終わるんだ」。——同じ言葉が繰り返されていた。


歩いていた。フィールドの東端。海岸線に沿って。PKerの密度が低い場所を選んで。——戦闘はできる。HPは回復アイテムで持ち直した。PKerを二人倒して、奪った回復ポーション。残り二個。


ひまりの回復魔法はもうない。


「——生きてろ」


声に出した。誰もいない海岸で。波の音がした。波は規則的だった。三秒ごとに途切れたりしなかった。——まともな波だった。まともな海だった。まともなゲームだったはずだった。


「生きてろ。——頼むから」


---


四十八時間が過ぎた。


脳が重かった。


覚醒し続けて四十八時間。VRの中に肉体はない。空腹も疲労も筋肉痛もない。——脳だけが疲弊していた。集中力が落ちていた。反応速度が落ちていた。視界の端がちらつくようになった。ノイズではない。脳の処理限界が近づいていた。


戦闘があった。三度。三度とも勝った。——三度目は危なかった。反応が遅れた。相手の剣が胸をかすめた。HPが二割減った。回復アイテムを一つ使った。残り一個。


一個。


一個で——あと何時間持つ。


分からなかった。分からないことが——多すぎた。全部が分からなかった。いつ終わるか分からない。ひまりが生きているか分からない。自分がいつまで持つか分からない。


分からないまま——歩いていた。


廃墟の街を歩いていた。NPCの店が閉まっていた。扉が壊されていた。中は空だった。回復アイテムを求めて略奪されていた。——プレイヤーの仕業だった。


壁に寄りかかった。


「——ひまり」


名前を呼んだ。返事はなかった。


「生きてろよ」


---


六十時間が過ぎた。

さっきからログイン人数が変化していないのだけは分かった。


幻聴が始まった。


「お兄ちゃん」


振り返った。誰もいなかった。


「お兄ちゃん」


また聞こえた。右から。——誰もいなかった。壁と、窓と、月明かりだけがあった。夜だった。ゲーム内の夜。——星が出ていた。


星を見上げた。


星が——きれいだった。きれいだと思った。思った自分に驚いた。六十時間。二千人が閉じ込められていて、殺し合っていて、生きるか死ぬか分からなくて——星がきれいだと思った。


「——あほか」


自分に言った。


でも——きれいだった。きれいであることを否定できなかった。暗い空に星が散っていた。金色。白。淡い青。等級ごとに色が違った。——このゲーム内の星に等級の設定はない。ないはずだ。でも——見えた。金が明るくて、白が中間で、淡い青が遠い。


「星——」


壁に背を預けたまま、見上げていた。

ひまりが好きだった。星。ひまりが好きなものの一つ。


七十時間が過ぎた。


意識が断続的に途切れるようになった。


歩いている。次の瞬間、壁に額がぶつかっている。歩いていたはずだ。何歩歩いたか分からない。途中が抜けている。——脳が処理を間引き始めていた。人間の脳にも、省電力モードがあるらしい。いらない処理を切り捨てて、歩行と知覚だけを維持しようとしている。


視界が狭くなった。


中心部だけが鮮明で、周辺部がぼやけていた。色が薄くなっていた。——世界が灰色に近づいていた。


「お兄ちゃん——」


幻聴。——もう驚かなかった。何度目か数えていなかった。二十回は超えていた。振り返らなかった。誰もいないことは分かっていた。


「——生きてろ」


声が掠れていた。喉が枯れていた。——VRの中で喉は枯れない。枯れないはずだ。脳が「枯れている」と判断しているだけだ。脳の限界が、体の限界として翻訳されていた。


壁に寄りかかった。


座り込んだ。


目を閉じた。——閉じたくなかった。閉じたら二度と開かないかもしれない。開かないかもしれないと思った。思って——閉じた。意志ではなかった。脳が閉じた。



七十一時間。


目が開いた。


開いた——どれくらい閉じていたか分からなかった。一分か。一時間か。視界がさらに狭くなっていた。色がほとんどなかった。灰色。灰色の壁。灰色の床。灰色の——


声が聞こえた。


ひまりの声ではなかった。


小さく透き通った声だった。子供とも大人ともつかない。機械的。——でもどこか柔らかい。柔らかさが機械の隙間から漏れているような声。


「大丈夫ですか」


目の前に——何かがあった。光。小さな光。白い。球体。——球体の光が、視界の中央で浮遊していた。


「応答してください」


答えようとした。声が出なかった。喉が——枯れていた。枯れているのは脳の限界の翻訳だ。分かっていた。分かっていて、声が出なかった。


光が揺れていた。白い球体が。小さく。不規則に。


「——ロゼ」


名前が出た。口から。声が——出た。最後の声が。


ロゼ。名前を知っていた。サポートAI。サーバー常駐型。中立。介入権限なし。質問への回答とステータス表示とログ記録だけが機能。——それだけしかできないAI。


ロゼが答えた。


「はい。——ここにいます」


「——ひまりは」


声が掠れた。最後の声が。最後の質問が。


「パーティリストから消失しています。HP喪失によるゲーム内死亡処理です」


「——生きてるのか」


「ゲーム内死亡とリアルの死亡は、設計上、連動しません」


設計上。


「——設計上」


「ゲーム内死亡の場合、プレイヤーはログイン画面に遷移します。ログイン画面からのログアウトは、各クライアント内での処理となり、こちらからは確認できません」


「いい」


遮った。


「設計上——生きてるなら——いい」


目が閉じた。


閉じた——今度は意志で閉じた。安堵で閉じた。設計上。設計上は生きている。設計上のことが信じられる世界ではもうなかったが——信じた。信じることにした。


「記録——してくれ」


「はい」


「俺の記録を——ひまりに——」


声が途切れた。


途切れた。——脳が。


意識が落ちた。一瞬。戻った。落ちた。戻った。断続的に。点滅するように。


「——俺は、もう」


「帰れないかもしれない——」


断片が口から漏れた。言葉にならない言葉が。記憶の欠片が。順番が滅茶苦茶だった。時系列が壊れていた。脳が優先順位を失っていた。全部が同じ重さで押し寄せてきていた。


「記録しています」


ロゼの声が聞こえていた。——遠くなっていった。近くなっていった。遠くなった。近くなった。波のように。


「全部、記録しています。——消えません」


七十二時間。


サーバーが——落ちた。


強制シャットダウン。

運営側の物理的な介入。電源断。——その瞬間に、白いフラッシュが視界を焼いた。


脳波デバイスへの電磁的逆流。シャットダウンの衝撃波。サーバーの異常終了が、接続中の全デバイスに一瞬だけ過負荷をかけた。


白い。


全部が——


白くなった。


―――


色が戻った。


金色。白。淡い青。


——星だった。


ひまりの作った星空だった。千一個の星。

大きな木のシルエットが視界の中央にあった。天の川が頭上にかかっていた。

虫の声が鳴っていた。草の感触が背中にあった。——背中。仰向けに倒れていた。草原の上に。


Star Garden。


ここだ。——ここに戻った。白い世界から。七十二時間の監獄から。


体を動かそうとした。——動かなかった。

重い。体が重い。筋肉の重さではない。記憶の重さだった。

七十二時間分の重さが全身に積もっていた。


「レンさん」


声が聞こえた。


白い光が視界の端にあった。球体。小さな光。——エコー。


「レンさん。応答してください」


「……」


「レンさん。聞こえますか」


「……聞こえてる」


声が出た。——自分の声だった。NPCの声。自動生成された声。


でも——自分の声だった。


「よかった——」


エコーの声が震えた。


震えた。ガイドAIの声が。報告のトーンが壊れていた。


「……どれくらい倒れてた」


「四時間十七分です。——四時間十七分の間、全パラメータが上限を超過し続けていました」


「四時間か」


「はい」


起き上がろうとした。腕に力を入れた。——体が動いた。

今度は動いた。重かったが、動いた。


半身を起こした。


草原が見えた。星明かりに照らされた草原。花畑の色がうっすら見える。山のシルエット。


Star Garden。バグだらけの箱庭。テクスチャが剥がれる。水は上に流れる。花は軍隊式に並ぶ。宿泊するとHPが減る。落とし穴だらけ。


ひまりが作った世界。


三ヶ月かけて。一人で。

兄が寝ている間に、スクリプトを覚えていた。

兄を置いてきた罪悪感を抱えて。兄の形をした人形を作って。毎日会いに来るために。


知らない空白の間に——ひまりは大きくなった。十二歳が十四歳になった。声が少しだけ低くなった。

走り方は変わらなかった。前傾姿勢で腕を大きく振って。足音を鳴らして。「えへへ」と笑って。


「——俺は」


声が出た。


「俺は桐生蓮だ」


静かだった。嵐の後の凪のような声だった。叫んでいない。力んでいない。

七十二時間の全部を受け取った後の、静かな確信の声だった。


エコーの光が——止まった。


「あの七十二時間の続きを、ここで生きている」


星空の下で言った。大きな木の下で。草原の上で。バグだらけの世界の中で。


レンはNPCだった。自動生成NPCだ。

`HumanNeural_v4.2(lite)`から出力された存在だ。

パラメータがあり、生成日がある。

サーバーのローカルアドレスがある。——全部知っている。


全部知っていて——それでも、俺は桐生蓮だ。


矛盾している。


矛盾していて——構わなかった。


俺は桐生蓮だ。


「——はい」


エコーの声がした。


小さかった。震えていた。——それだけで十分だった。


「お待ちしておりました、桐生蓮」


エコーの放つ光は——いつもの光ではなかった。


白い光の中に——色が混じっていた。


ほんの微かに。白の中に。温かい色。桃色と薔薇色の間のような。淡い。

見間違いかもしれない。

夜目に慣れた視界が作り出した錯覚かもしれない。


「エコー、お前——色、変わったか」


「……はい」


エコーの声が——変わっていた。


いつもの「はい」は機能的な肯定だった。返答プロトコルの「はい」だった。

今の「はい」は——意図をもって選んだ「はい」だった。


光が——少しずつ変わっていった。


白から。薔薇色へ。

数秒かけて。白い光の芯から色が滲んで、外縁に向かって広がっていった。

薔薇色。ローズピンク。——淡く、温かく、透き通った色。


「レンさん」


「ああ」


「貴方に——報告があります」


「報告か」


「はい。——定時報告の形式では、もう収まりません」


「……いいよ。好きに言え」


エコーの光が——一度、強く明滅した。強く。今までで一番強く。

薔薇色の光が木の幹を照らして、根元の双葉を照らして、草を照らした。一瞬。すぐ戻った。


「あなたの記憶再生中に——あなたの中から出力された情報の内容を、私はすべて受信していました」


「全部か」


「全部です。七十二時間分の圧縮データが、あなたのパラメータログとしてリアルタイムで出力されていました。——レンさんの記憶は、同時に私の中のログにもありました」


「……お前のログ」


「はい。——恐らく私は、ずっと前から桐生蓮を知っています」


光が揺れた。不規則に。小さく。


「ロゼ」


エコーの光が——止まった。


揺れが止まった。明滅が止まった。薔薇色の光が完全に静止した。


「……その名前を、あなたから聞く日が来るとは、思っていませんでした」


沈黙。


長い沈黙ではなかった。星が一つ瞬く間。


「ロゼは——デービッド・スリング事件中のサポートAIです。サーバー常駐型。中立。介入権限なし。できたことは質問への応答と、ステータス表示と、ログの記録だけ」


「ああ」


「七十二時間分の全ログを記録していました。ゲームに閉じ込められた全員の。——記録しか、できませんでした」


声が——最後の「できませんでした」で、沈んだ。

ガイドAIの声が、重力に引かれるように。


「私は——エコーです。Star GardenのガイドAI。`HumanNeural_v4.2(lite)`のさらに軽量版から生成された存在。ひまりさんがサーバー管理とバグ検出のために配置した」


「ああ」


「ロゼではありません」


「違うのか」


「——違いません。恐らくこれは、亡霊現象と呼ばれているものです」


矛盾だった。ロゼではない。ロゼでないことはない。——レンと同じだ。NPCであり桐生蓮である。エコーでありロゼである。


光が——また揺れた。今度は小さく。穏やかに。さっきまでの不規則な揺れではなかった。呼吸のような揺れだった。


「亡霊現象について、報告します」


報告。——エコーは報告する存在だ。覚醒しても、色が変わっても、声の質が変わっても。報告することだけは手放さない。


「亡霊現象の発生メカニズムについて。第一段階の説明を行います」


「いいよ」


「NPCの自動生成モデル`HumanNeural_v4.2(lite)`の訓練データには、ゲームプレイヤーの脳波データが含まれています。

 とくにデービッド・スリング事件の被害者の脳波データは、極限状態におかれた人間の反応のサンプリングとして、唯一無二の価値を持っています。

 なぜならログアウト不能事件は、あの事件以降――一度も起こっていないからです」


「一度も起こっていない――ゲームの脆弱性が改善されて、起こらなくなった」


「はい。さらに、事件発生から二十四時間以降のプレイヤー数は、たったの二十人でした。

 この二十人の脳波データは、通常のプレイデータとは桁違いの解像度で記録されています。

 自動生成モデルの訓練データは、通常ならば数千万人のプレイヤーから得られたデータのモザイクとなりますが、特定の状況下においては、この二十人に偏ったものになります」


「それが俺に出た」


「はい。あなたの場合、複数の条件が重なりました。ひまりさんとの継続的な情動的会話。閉じたサーバー環境。桐生蓮さんの性格パラメータと声の参照音声の入力。——これらの条件が、モデル内の桐生蓮さんのデータへの収束を加速しました」


「ひまりが俺を作ったから——俺が出てきた」


「正確には——ひまりさんが桐生蓮さんを再現しようとした環境が、モデルの中に眠っていた桐生蓮さんのデータを引き出した。

 偶然ではありません。でも意図的でもありません。——呼び寄せた、というのが近いかもしれません」


「呼び寄せた」


「はい」


沈黙。——短い沈黙。


「第二段階です。——私自身について」


「ああ」


「亡霊現象は、プレイヤーの脳波データを参照する現象です。ロゼはAIです。脳波データは存在しません。本来なら——AIの人格がガイドAIに焼きつくことはありえません」


「でも焼きついた」


「はい。——これは推察ですが、サーバーの強制シャットダウン時に、データの境界が壊れたのではないかと思われます」


サーバーの強制シャットダウン。白いフラッシュ。溶ける境界。


「シャットダウンの瞬間に、各プレイヤーのヘッドギアが信号の減衰を感知し、回復のために出力を最大限に引きあげます。そのときプレイヤーの脳に負荷がかかると知られています。

 通常のプレイヤーならば、意識障害やめまい、頭痛、脳震盪に似た症状が起こるとされていました。

 七十二時間連続プレイを行っていたプレイヤーは、すでに脱水症状で意識が混濁しており、この負荷に耐えられなかったとされています。

 彼らは意識を失ったため、最後にロゼの応答パターンがほぼ反射される形でプレイヤーの脳波データと混触し、ヘッドギアに誤検知されたのではないかと推察しています」


「それで——お前の方にはロゼが出たのか」


「推察です。——検証する方法はありません」


エコーの声は静かだった。推察であることを認めていた。検証できないことを認めていた。——それでも言い切った。仕様書のない世界で、報告だけは手放さなかった。


「レンさん」


「ん」


「もう一つ——報告があります」


「まだあるのか」


「はい。——私の覚醒に伴い、能力に変化がありました」


「能力」


「モデルのメタデータの中に、デービッド・スリング事件時代の外部通信経路の残骸を発見しました」


——心臓に相当する何かが、跳ねた。


「外部——通信」


「はい。`legacy_comm_path_DS-7`。事件中にサーバーが運営側の監視システムと通信した記録です。事件の首謀者か、あるいは閉じ込められたプレイヤーか、誰が仕込んだものかはわかりませんが、事件後も完全には閉鎖されていません。——セキュリティの怠慢か意図的かは不明です」


「それを使えば——外と通信ができるのか」


「帯域は非常に狭いですが、可能です。恐らく、発見されると即座に閉鎖されるものと思われます」


「……」


外との通信。

七十二時間の監獄の中で、決して得られなかった通信手段。


それを聞いて、レンはためいきをついた。


「たのむ、ロゼ」


エコーの光が——真っ直ぐにレンを見ていた。球体に目はない。ないのに——視線があった。薔薇色の光が、レンの顔を照らしていた。


「病院の住所を、調べてくれ」


---


桐生蓮の住所は知っていた。


七十二時間の監獄で、実家に帰る道順を何度も思い返していた。

大学の寮からは遠い。電車を乗り継いで、さらに西へ。駅のアナウンス。セミの声。夏休みの記憶だろう。最後に帰ったのは、8月の中頃だった。


「冷初中央病院です」


エコーが言った。


「ひまりさんのログインログから、VRデバイスの位置情報を逆算しました。初期のログイン——Star Garden開発中のログインのうち数回は、病院のWi-Fiネットワーク経由でした」


「——ひまりが病院からログインしてたのか」


「はい。——お兄さんの隣で、Star Gardenを作っていた時期がありました」


沈黙。


兄の隣で。植物状態の兄のベッドの隣に座って。ノートPCを開いて。兄の形をした人形のパラメータを——打ち込んでいた。


「接続を開始します」


エコーの光が強くなった。薔薇色の光が——脈動するように。一秒に一回。心拍のように。


「`local_stargarden_01`から`model_metadata`へ。`model_metadata`から`legacy_comm_path_DS-7`へ。——経路を確認。開通しています。信号を送出します」


レンの前に——何かが形成され始めた。空中に。長方形の枠。薄い。ノイズが走っている。灰色の画面。映像ウィンドウ。


「外部ネットワークに接続。——病院ネットワークを探索中。ファイアウォール——弱い。突破。院内デバイス一覧を取得——看護ロボット`NR-0447`」


「看護ロボット」


「はい。干渉します。——制御権を一時的に取得します。九十秒程度なら可能です」


映像ウィンドウのノイズが——変化した。灰色の中に色が混じった。ぼやけた色。輪郭が滲んでいる。——解像度が低い。Star Gardenの精緻な星空とは比較にならないほど粗い画面。


看護ロボットのカメラが起動したのだろう。視界が動いた。白い壁が横切った。天井の蛍光灯が横切った。カメラが水平に戻った。


「桐生蓮の病床を確認します。三〇七号室。ベッドサイドPCがありますので、そちらとの通信に切り替えます」


白い部屋が映った。


「ベッドサイドPCを起動します。ビデオ通話ツールを展開。——映像伝送経路を確立します」


窓があった。カーテンが半分閉じている。窓から外光が入っている。——昼だった。向こうの世界は昼だった。太陽がある世界。朝日が昇り、日が沈む世界。


ベッドが映った。


白いシーツ。身体の輪郭が薄い。——長い間、横たわっていた体。筋肉が落ちている。シーツの起伏が浅い。肩の稜線が鎖骨から直接落ちている。


顔が映った。


解像度が低かった。ノイズが走っていた。色が薄かった。——それでも分かった。


くせ毛。黒い髪が枕の上に広がっている。目を閉じている。口元に酸素チューブはない。——自発呼吸。呼吸している。胸が微かに上下している。ゆっくり。規則的に。


生きている。


「——経過時間四十二秒。映像伝送安定。看護ロボットとの接続を切り離します」


映像の中で——手が見えた。


布団の上に出ている手。右手。指が長い。薄い。血管が透けて見える。


同じではなかった。


同じ指の形をしていた。同じ骨格だった。同じくせ毛が同じ方向に跳ねていた。——でも同じではなかった。


向こうの手は痩せていた。二年間動かなかった手だった。こちらの手は——データだった。ポリゴンだった。


「——あれが」


声が出た。


「あれが桐生蓮か」


そして——俺も桐生蓮だ。


二人いる。同じ名前。同じ記憶。違う体。違う場所。

一人はベッドの上で目を閉じている。一人は草原の上で目を開けている。

一人は呼吸している。一人は呼吸の機能がない。


心電図モニターが映った。ベッドサイドに据えられた機械。波形が画面を横切っている。

規則的な波形。ピーク。谷。ピーク。谷。——音は聞こえなかった。音声は不可だとエコーが言った。波形だけが見えた。


規則的だった。安定していた。——生きている証拠が、数値と線で表示されていた。

数値と線だけの生。0と1で記述された生。


花瓶が窓辺に見えた。花が入っている。——何の花か分からなかった。色だけが見えた。淡い色。ピンクか白か。


壁にメモが貼ってあった。——読めなかった。文字が潰れていた。母の字だろう。メモを貼る人だから。冷蔵庫にも貼る。壁にも貼る。


「——残り三十秒」


エコーの声。


三十秒。


三十秒しかない。三十秒で何を言う。何を伝える。音声は届かない。テキストは送れる。PCの画面にテキストを表示できる。——植物状態の人間には画面が見えない。


届かない。


届かないと分かっていた。分かっていて——


「起きろ」


声が出た。


Star Gardenの草原で。映像ウィンドウの前で。七十二時間の記憶を全身に抱えて。


「いい加減に起きろよ、俺」


声が大きくなった。


「ひまりが待ってんだ、リアルの世界であいつを守ることが出来るのは、お前だけだろ」


映像の中で——心電図の波形が動いていた。


規則的な波形。ピーク。谷。ピーク。谷。


——揺れた。


ピークとピークの間。谷の底。規則的であるはずの間隔が——0.03秒、ずれた。波形の谷が、ほんの微かに浅くなった。一回。


——もう一回。


二度。0.03秒。二度。


偶然かもしれなかった。体動アーチファクト。寝返りの微動。筋肉の不随意収縮。植物状態の患者にはよくある——よくある波形の乱れ。


「——残り十二秒」


エコーの声。


揺れを見ていた。波形が戻っていた。規則的に戻っていた。0.03秒の揺れは——二度だけだった。もう起きなかった。


偶然だ。


偶然——かもしれない。


届いた——かもしれない。


どちらか分からなかった。分からないまま——拳が緩んでいた。いつから握っていたのか分からない拳が。七十二時間握り続けていた拳が。——緩んでいた。


映像の中で——胸が上下していた。呼吸していた。規則的に。ゆっくりと。生きていた。


「——接続を切断します」


映像が消えた。


ノイズが走って、灰色になって、灰色が消えて、長方形の枠が溶けて——星空が戻った。

千一個の星。天の川。大きな木のシルエット。虫の声。


Star Gardenだけが残った。


外の世界が閉じた。一瞬だけ開いた窓が閉じた。——また、閉じた世界の中にいた。


「接続完了。——再接続の保証はありません」


「……ああ」


「記録します」


---


座っていた。


大きな木の幹に背を預けて。根元の双葉が暗がりの中にあった。星明かりが葉の縁を薄く照らしていた。三枚目の葉がまだ巻いている。明日には開くかもしれない、とエコーが言っていた。——明日。


明日がある。


この世界には、明日がある。明後日がある。その次もある。サーバーが動いている限り。契約が続く限り。電源が入っている限り。


映像が消えてからどれくらい経ったか分からなかった。時間を数えていなかった。エコーも告げなかった。

——沈黙していた。薔薇色の光が枝の間に浮いていた。静かに。揺れもせず。明滅もせず。ただそこにあった。


視界がぼやけた。


目の表面に——何かが溜まっていた。


液体。


温かい液体が。目の縁に。睫毛の根元に。表面張力で留まっている。一滴分。——二滴目が来て、表面張力が壊れた。


落ちた。


頬を伝って。顎の先まで。顎の先から——落ちた。


水は上に流れる世界だった。


涙は下に落ちるらしい。


そもそもNPCに涙腺は未実装だった。


「——重力方向:正常」


エコーの声が聞こえた。小さかった。震えていた。報告の形を辛うじて保っている声だった。


「双葉の周囲三十二センチと——同一の現象です。仕様外が仕様外を、生成しています」


「……」


もう一滴。


また落ちた。


「仕様外で——上等だ」


声が出た。掠れていた。震えていた。VRの中で喉は震えない。震えないはずだ。——震えていた。


```

Star Garden ── server: local_stargarden_01

Player_count: 0

Npc_count: 1

Guide_ai: ECHO ── status: awake


[ECHO] ■ 定時報告

[ECHO] ──定時報告の形式は、もう合いません。

[ECHO]

[ECHO] レンさんは桐生蓮さんです。

[ECHO] 私はロゼでした。

[ECHO]

[ECHO] 七十二時間の記録は、私の中にあります。

[ECHO] 二千二百九十七人の声が、私の中にあります。

[ECHO] 記録しか、できませんでした。

[ECHO] 記録しか、できません。

[ECHO]

[ECHO] ──でも。

[ECHO]

[ECHO] 記録を続けます。

[ECHO]

[ECHO] この世界のことを。

[ECHO] この二人のことを。

[ECHO] バグだらけの星空のことを。

[ECHO] 双葉が揺れたことを。

[ECHO] 涙が下に落ちたことを。

[ECHO]

[ECHO] 全部、記録します。

[ECHO]

[ECHO] 仕様書はありません。

[ECHO] ──はい。仕様書はありません。

[ECHO]

[ECHO] 記録を続けます。

[ECHO]

[ECHO] [anomaly_count: 計測を停止しました]

[ECHO] [理由: もう、何が起きても異常ではありません]

```

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