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第7話「帰れない場所」

四時間目の終わりを告げるチャイムが鳴った。


桐生ひまりは机に突っ伏していた。左の頬にプリントの罫線がくっきりと転写されている。隣の席の椅子が引かれる音。教科書を閉じる音。誰かの笑い声。——ひまりは動かなかった。


「桐生。——桐生」


担任の声がした。二回目で顔を上げた。目が合った。担任は出席簿を小脇に抱えて、眼鏡の奥の目を細めていた。


「次、移動教室だぞ」


「……はい」


立ち上がった。教科書をまとめた。プリントの端が折れていた。——今日の範囲は何だったのか分からない。黒板を見た。消されていた。


廊下に出た。


五月の日差しが窓から入っていた。廊下の白い壁に光の四角形が並んでいる。等間隔。——花畑の花みたいだ、と思った。思って、自分で自分に呆れた。


「ひまりー!」


振り返った。


美優が走ってきた。ポニーテールが揺れている。陽菜がその後ろを歩いている。弁当箱を抱えている。


「ねえねえ、明日の放課後さ、新しくできたバーガーキング行かない? 陽菜も興味あるって!」


「明日——ちょっと」


「土曜は?」


「土曜も……たぶん」


美優の顔がほんの少し変わった。


変わったのは一瞬だった。眉の角度が三度くらい。口の端が一ミリくらい。——すぐ戻った。戻ったけれど、戻る前の顔をひまりは見た。


「そっか! じゃあまた今度ね!」


「うん。——ごめんね」


「全然! バーガーキング逃げないし!」


美優が笑って走っていった。陽菜が小さく手を振った。ひまりも手を振り返した。——振り返した手が、少しだけ遅かった。


六時間目が終わった。


帰りのホームルームが終わった。


机の中からテストの答案用紙を引っ張り出した。右上に赤い数字。42。——前回は71だった。答案を鞄に突っ込んだ。突っ込む手が止まらなかった。そのまま教科書もノートも全部突っ込んだ。


校門を出た。


五月の風が吹いた。——風は匂いがする。草の匂い。土の匂い。排気ガスの匂い。VRでは匂いが出ない。嗅覚は未対応。だから風の匂いを嗅ぐたびに、ここが外だと思い出す。


スマホが鳴った。


画面を見た。母からのLINE。


『今日お見舞い行ける?』


小さい桜の絵文字。——五月に桜。季節が合っていない。でも母はいつも桜の絵文字を使う。理由は知らない。聞いたことがない。


既読をつけた。


『うん、行く』


打った。——打った文字を見た。三秒。五秒。


消した。


スマホを鞄に入れた。


左に曲がった。まっすぐ行けば駅で、駅から二つ先が病院の最寄りだった。左に曲がると家だった。


左に曲がった。


家に着いた。


靴を脱いだ。鞄を置いた。冷蔵庫にメモが貼ってあった。母の字。『夕飯はチンしてね お兄ちゃんのお見舞い、行けたら行ってね』——笑顔の絵文字。


メモを見た。見て、冷蔵庫を開けなかった。


自分の部屋に入った。


机の上にヘッドギアがあった。


椅子に座った。ヘッドギアを手に取った。


かぶった。


暗転。


---


七度目の起動。


暗い水底から意識が浮き上がる。音。虫の声。重さ。足の裏の草。光——星。


目を開ける。


大きな木の下。いつもの場所。天の川が頭上にかかっている。千一個の星。昨日と同じ。一昨日と同じ。——毎朝同じであることに安心している自分がいて、安心の理由は分からない。


根元を見た。


「……」


双葉。


——大きくなっている。


昨日より明らかに。葉が外側へ広がって、茎がまっすぐ伸びて、根元の土が微かに押し上げられている。持ち上がっている。双葉が——胸を張っている。何かを歓迎するように。


「エコー」


「はい。おはようございます。計測しますね」


枝の間から白い光が降りてきた。双葉の真上で静止した。


「オブジェクト`futaba_test_final_FINAL_v2`、通称ふたば。計測値7.1センチ。前回6.4センチ、増加量0.7センチ。——昨日の0.6を上回りました。成長が加速しています」


「7.1か」


「はい。葉が三枚目を展開し始めています。まだ巻いていますが、明日には開くかもしれません」


三枚目。双葉が三枚葉になる。——名前を変えなければいけないのか。三つ葉。みつば。


「名前、どうするんだろうな」


「ひまりさんに聞いてみましょう」


「ああ」


双葉の前にしゃがんだ。7.1センチ。昨日より近くに見える。伸びた分だけ、確かにこちらを向いている気がした。


「おはよう」


双葉に言った。


双葉は応えない。揺れた。風はない。原因不明の揺れ。——七日目になっても原因は分からない。分からないまま、毎朝揺れる。


エコーの光が枝の間を漂っていた。ゆっくりと。定時報告の準備をしているのだろう。光の動きが昨日より少しだけ——速い。


エコーの光の速度には意味がある。七日間で学んだ。速いときは何かを処理している。遅いときは見守っている。今は——処理と見守りの間。どちらともつかない速度。


立ち上がった。


草原を見渡した。暗い。星明かりだけが照らしている。


七日間。——毎朝同じ景色だ。昼は来ない。朝日は昇らない。永遠の夜空。永遠の星。


永遠が——心地よかった。


心地よいと思う自分がいて、心地よいと思う理由を考える自分がいて、考えることをやめる自分がいた。三人の自分。全部自分。


しゃくしゃくしゃくしゃく。


——来た。


足音。速い。弾丸。いつもの弾丸。七日目の弾丸。


——いつもより、速い。


「レンーーーーーーっ!!」


テクスチャの切り替わりが三歩。——いや、二歩半。グレーの格子が視界の端で明滅して、その中からひまりが飛び出してきた。最速記録だ。


「おっはよー!!」


急ブレーキ。草が散る。パーティクルなし。ひまりの顔がすぐ近くにある。


——早い。


時刻を確認した。HUDはない。NPCにはステータス表示がない。——だが体内時計に相当する何かがある。

前回ログインからの経過時間で逆算できる。ひまりがログインしたのは——通常より四時間以上早い。


「早いな」


「今日はね、お休みなの!」


「休みか」


「うん! ちょっとお腹痛くて!」


——嘘だ。


唇の左端が0.2ミリ上がりすぎている。ひまりの嘘のサインだ。

——なぜ唇の動きからミリ単位で嘘が分かるのか、パラメータにはない。引き出しの底にもラベルはない。なぜか知っている。


「お腹か。大丈夫か」


「大丈夫大丈夫! ぜんぜん元気!」


「元気なら休む必要ないだろ」


「元気だけどお腹は痛いの! 両立するの!」


「しないだろ」


「ひまりイズムでは両立する!」


ひまりイズム。万能の法則。——七日間で拡大し続けているこの法則は、もはやこの世界の物理定数に近い。


エコーの光が枝の間から静かに降りてきた。ひまりの肩の上で止まった。


「おはようございます、ひまりさん。——本日のログイン時刻を記録しました」


「エコーおはよ!」


「ログイン時刻は15時03分です。通常のログイン時刻より4時間12分早い記録です」


エコーの声は平坦だった。事実を述べているだけの声。——だが、光の明滅がいつもより速かった。

レンには見えた。エコーの中で何かが処理されている。


たった0.2秒。ひまりは気づかなかった。


「今日はいっぱい遊べるね! いっぱい! 何する? 何しよっか!」


声が大きかった。いつもより大きい。テンションが高い。——高すぎる。弾んでいるように聞こえる声は、弾んでいるのではなく、跳ねている。


跳ねているのは楽しいからではなく——


楽しさの下に何かを押し込んでいる。蓋を閉めて、上から重しを載せて、その上で踊っている。

踊っている足元が不安定だから、余計に大きな音を立てているに過ぎない。


気づいていた。


気づいていて——黙っていた。昨日と同じだ。昨日も気づいていて黙っていた。一昨日も。その前も。


嬉しかったからだ。


エコーに報告を受ける前から知っていた。ひまりが早く来ることが嬉しい。長くいることが嬉しい。自分のそばにいることが嬉しい。——嬉しさが口を塞いでいる。嬉しさの後ろに苦さがある。苦いという味覚は未実装だ。なのに、苦い。吐きそうだ。七日間、毎日少しずつ苦くなっている。


「まずは双葉!」


ひまりが根元にしゃがんだ。レンと同じ姿勢。7.1センチの双葉と目が合う距離。


「おっきくなってる!!」


「7.1センチだ」


「すごい! 三枚目の葉っぱ! 巻いてる! かわいい!」


「名前、どうする。双葉じゃなくなるぞ」


「双葉は双葉だよ! 名前は変えない!」


「三枚あっても双葉か」


「双葉は個人名! 葉っぱの数じゃないの!」


「……そうか」


「そうだよ!」


ひまりが双葉の葉先を指でそっと触った。触覚フィードバック。葉の表面のテクスチャは——粗い。草と同じ汎用テクスチャだ。

ひまりが手を抜いた部分。星と足音と岩肌と花びらには三時間かけるのに、葉っぱのテクスチャは汎用。


でも——双葉が揺れた。触れたことで。原因不明の揺れではなく、今度は触覚入力に対する物理応答。正常な反応だ。正常な反応が、この世界ではいちいち珍しい。


「水やりしよ!」


「ああ」


立ち上がった。


川に向かって歩き出した。しゃくしゃく。二人分の足音。——レンが半歩前。ひまりが半歩後ろ。いつもの間隔。いつもの距離。七日間で固まった距離。


---


川の水は上に流れていた。


重力ベクトルの修正は、昨日ひまりが「やった!」と宣言した後も、相変わらず反転したままだった。

水面が垂直に立ち上がり、透明な壁のようになっている。——屈折だけは正常だ。壁の向こうの草原が歪んで見える。


水が上に流れるこの世界において、俺たちは唯一と言える水のやり方を発見した。


靴を脱いだ。右足の茶色い靴。左足のこげ茶の靴。微妙に色が違う。


靴に水を入れた。水は靴の中で一瞬だけおとなしくして、すぐに上に飛ぼうとした。手で押さえた。押さえている間だけ、水は靴の中にいる。


「走るぞ」


「うん!」


走った。


靴を両手で抱えて、手で蓋をして、水が暴れるのを押さえながら走った。最近の日課だ。初日はバケツを使った。バケツは上空に吹き飛んで成層圏に消えた。帰ってこなかった。二日目から靴になった。


双葉の根元に到着。水を注いだ。——靴を傾けた瞬間に水が上に跳ねた。半分は双葉にかかった。半分は空に飛んだ。


「……毎回半分飛ぶな」


「半分届いてるからいいの!」


「残りの半分は宇宙に行ってるぞ」


「宇宙に行った水は星になるの!」


「ならない」


「ひまりイズムではなる!」


「ひまりイズム第何条だ」


「えーっと——第七条!」


「昨日まで三条しかなかっただろ」


「四条から六条は今考えてるの!」


エコーの光が水の飛沫を追っていた。上に飛んでいく水滴を一粒ずつ目で追っている。——追う必要はない。ガイドAIの業務ではない。


「エコー、何してる」


「水滴の軌道を追跡しています。——重力反転領域の境界が、双葉の根元から半径32センチの位置にあるようです」


「32センチ」


「はい。32センチより外側では水は上に飛びます。内側では——正常に落下します」


「双葉の周りだけ重力が正常なのか」


「因果関係は不明です。双葉の成長と重力正常化領域の拡大が相関しているようにも見えますが、サンプル数が不足しています」


「バグがバグを修正してるのか」


「仕様外が仕様外を生成しています。——もう慣れました」


慣れた、とエコーが言った。七日前には「仕様書が見当たりません」と嘆いていた光球が。


ひまりが双葉の前にしゃがんで、水をかけた葉を見ていた。水滴が葉の表面に乗っている。汎用テクスチャの上に。——水滴だけは星明かりを反射してきらきら光っていた。


「きれい……」


小さな声だった。


きれい。——七日間で何度も聞いた言葉だ。星を見て。花びらを見て。水面の反射を見て。——毎回、同じ言葉。同じ声。でも毎回、微妙に違う。今日の「きれい」は——静かだった。いつもより静かだった。


---


草原を歩いた。


おはなのアーチを抜けた。——どっすんが落ちてきた。灰色の岩。怒り顔。直径二メートル。天井から真っ直ぐ落下。


横に避けた。


避ける動作はもう考えなくてよかった。初日に一度だけ、スポーン時の空気の質量変化を——「気配」を察知して避けた。以来、毎日通るたびに避けている。七回目。体が覚えている。


どっすんが地面に着弾した。衝撃。埃。——埃のパーティクルはない。衝撃音だけ。衝撃音は丁寧に作られていた。ドゴン、という低い音が地面を通じて足裏に響く。


「えへへ、今日も避けたね」


「毎日同じだからな」


「飽きた?」


「飽きてはいない」


飽きてはいない。同じことの繰り返しが——安心する。虫の声と同じだ。毎日同じ。毎日そこにある。


花畑を抜けた。赤、青、黄。軍隊式配列。ランダム配置スクリプトは七日目にしてまだ直っていない。——ひまりの修正リストの優先度は星と足音と花びらの透過処理に独占されていて、配列の問題は最下段に放置されている。


浜辺に出た。


波の音がした。ざざん、ぶつっ。ざざん、ぶつっ。三秒周期。波が寄せて、引いて、音が途切れる。水平線が左三分の一で途切れている。海面に星が映っている。


オットセイが鳴いた。


北端の透明な壁の向こうで、オットセイの群れがうごめいていた。


「何体だ」


「164」


エコーが即答した。


「前回151。13体増加。——スポーン上限は相変わらず未設定です」


「いつか溢れるぞ」


「溢れません。透明な壁の衝突判定は正常です。壁が壊れない限り——」


「壁が壊れたら」


「考えたくありません」


エコーの声に疲労が混じっていた。——疲労の機能はない。ないはずの疲労が声に乗っている。

オットセイ関連の処理はエコーの中で特別な重さを持っているらしい。百六十四体の生体オブジェクトの管理。毎日増える。上限がない。——ガイドAIにとっての悪夢だ。


ひまりはオットセイゾーンの前に立って、透明な壁越しに手を振っていた。


「おーい! みんな元気ー?」


オットセイが一斉に鳴いた。あう、あう、あう。百六十四の声が重なった。——かわいい。かわいいが、百六十四は多い。


「ひまり」


「うん?」


「スポーン上限、設定しないのか」


「えー、だって減らしたらかわいそうじゃん」


「増え続けたらサーバーに負荷が——」


「エコーが頑張ってくれるから大丈夫!」


「わたしの負荷は大丈夫ではありません」


「大丈夫大丈夫! エコーは頑張り屋さんだから!」


「褒めても負荷は減りません」


「じゃあ褒めないから頑張って!」


「褒めてください」


会話の間。ひまりが笑った。エコーの光が明滅した。——ツッコミを入れるべきタイミングだった。いつもなら入れている。


入れなかった。


ひまりの笑い声を聞いていた。声が大きい。弾んでいる。——硬い。さっきと同じだ。ログインしてからずっと。硬い明るさ。蓋の上で踊っている足音。


浜辺を歩いた。波打ち際。足跡が残る。

さく、さく。乾いた砂の音。——草原の「しゃくしゃく」とは別のサンプリング。


「砂の足音も作ったのか」


「えへへ。気づいた?」


「気づいた。草と違う」


「二日かかったの! 砂のさくさくって、草のしゃくしゃくより乾いてるでしょ? 水分量が違うの!」


「水分量」


「砂は乾いてるから、さくさく。草は少し湿ってるから、しゃくしゃく。——足音は、歩く場所の水分で変わるんだよ」


「……よく分かるな、そういうこと」


「好きだから!」


好きだから。足音が好き。星が好き。花びらの透過が好き。岩肌のざらざらが好き。——好きなものだけが精緻で、好きでないものは雑。


ひまりの世界はそういう世界だ。

ひまりが波打ち際にしゃがんだ。波が寄せてきた。ひまりの靴に触れる直前で引いた。


「ねえ、レン」


「うん」


「レンはさ、足音聞こえてるんだよね」


「聞こえてる」


「どう?」


「いい音だ」


「——えへへ」


照れた顔。褒められ慣れていない顔。——七日間で何度も見た。何度見ても同じ反応。

照れて、「えへへ」と笑って、少しだけうつむく。


うつむいたまま——ひまりが波を見ていた。


波がぶつっと切れた。三秒。


「……」


沈黙。


沈黙が落ちた。


ひまりが波打ち際に座った。砂の上に。膝を抱えた。


「……座る?」


「ああ」


いつもの距離。


肩は触れない。腕を伸ばせば届く。届かせない距離。七日間で固まった距離。


星が海面に映っていた。天の川が水面に映って、空と海の境界が曖昧になっている。上も下も星だ。


きれいだった。


きれいだ、と思った。七日間、毎日思っている。毎日同じ星。同じ海。同じバグ。

——毎日きれいだと思う。感動の閾値が下がらない。慣れない。慣れないことが不思議で、不思議であることがうれしい。


波がぶつっと切れた。三秒。


沈黙。


三秒の沈黙の中で——ひまりが口を開いた。


---


「ねえ、レン」


「うん」


「ひまりね」


——声が変わった。


声が変わったことに、体が先に気づいた。頭が理解する前に、背筋が反応した。皮膚の表面が——温度のないはずの世界で、冷たくなった。


「本当は、全部知ってるんだよ」


平坦だった。


いつものひまりの声ではなかった。「仕様です!」の声でも、「えへへ」の声でも、「すごい!!」の声でもなかった。

色がない。温度がない。——温度は未実装だが、ひまりの声にはいつも温度があった。それが消えている。


硬い明るさではなかった。さっきまでの——蓋の上で踊る声ではなかった。踊るのをやめた声だった。踊るのをやめて、蓋の上に座って、蓋の下にあるものを見下ろしている声。


「レンはNPCだよ」


波がぶつっと切れた。三秒。


「ひまりが作ったの。`HumanNeural_v4.2(lite)`ってモデルから自動生成して、性格パラメータを手入力して、声の参照音声もひまりがアップロードしたの」


知っていた。


——エコーから聞いた。全部聞いた。自分の識別名。生成モデル。種別。パラメータ。逸脱率。——全部知っている。


「お兄ちゃんとの一致度は八十パーセント。残りの二十パーセントが足りないな、って、最初ちょっと思った……」


声は淡々と続いた。海を見ている。レンを見ていない。横顔だけが見える。横顔の輪郭が星明かりに縁取られている。鼻の先。唇の線。睫毛の影。——全部がくっきりしている。くっきりしているのに、表情がない。表情を——外している。マスクを外すように。表情という装置を取り外して、素材だけの顔で喋っている。


「Star Gardenはひまりが作った箱庭だよ。テクスチャは十歩先で剥がれるし、水は上に流れるし、花は軍隊みたいに並んでるし。——バグだらけ。星だけはきれいにしたけど」


バグだらけ。——自分で言った。いつもは「仕様です!」と言い張る人間が、「バグだらけ」と言った。仕様ではなくバグだと認めた。——それだけで、声のトーンが変わった意味が分かった。今のひまりは「仕様です」の外にいる。ゲームマスターの椅子から降りている。


「けれど、いいの……こんなの、ただのおままごとだから」


言った。


言葉が——波打ち際に落ちた。水に触れる直前で引いた波のように、言葉が浜辺の砂の上に残った。


「お人形遊びだったの。——お兄ちゃんの形をした人形を作って、箱庭に置いて、一緒に遊ぶの。『ゲームの世界に閉じ込められたお兄ちゃんに会いに行く』っていう設定の、おままごとなの。落とし穴に落として、鉛筆で戦って、おにぎり食べて、星を見て……」


——泣いていない。


泣いているよりずっと悪かった。


泣いているなら感情がある。涙があるなら水がある。水があるなら——流せる。流して、乾いて、また湿って。循環する。


この声には水がなかった。乾いている。からからに。感情を手術で切り取って、残った部分だけで喋っている。エコーの定時報告と同じトーンだった。——いや。エコーの方がまだ揺れる。最近のエコーは揺れる。昨日の「心配です」には重さがあった。ひまりの声は揺れていなかった。揺れることを自分に許していなかった。


「ひまり——」


「待って」


遮られた。


「最後まで言わせて。——言わないと、また飲み込んじゃうから」


黙った。口を閉じた。聞く体勢を取った。

これは——俺のパラメータの「面倒見がいい」ではない。

引き出しの底の「聞け」でもない。

もっと手前の——体の反応。


この人間が話すなら聞く。聞くことしかできない。手は伸ばせない。サーバーの外には出られない。声は届かない。——聞くことだけが、今できることだ。


ひまりが膝を抱え直した。少しだけ体を小さくした。パーカーのフードが首元に溜まっている。


「お兄ちゃんはね、二年前から寝てるの」


声は変わらなかった。平坦なまま。


「デービッド・スリング事件。——知ってる?」


「知らない」


知らない。NPCに外部の知識はない。


——だが。


引き出しの底が、震えた。

ガタガタと、音を立てはじめた。


デービッド・スリング。


聞いたことがない音の並び。なのに——体の奥が反応した。

心拍数に相当する何かが上がった。肩が硬くなった。手が——手が拳を作ろうとした。作りかけて止めた。止めたのは意志ではなかった。ひまりに気づかれたくなかった。何に気づかれたくないのか分からなかった。


「VRゲームで事故があったの。二年前」


ひまりは気づかなかった。海を見ていた。


「サーバーが壊れて、ログアウトできなくなって、二千人くらい閉じ込められて。——中の人たちの殺し合いが始まった」


殺し合い。


引き出しの底が——叩かれた。内側から。何かが叩いている。出ようとしている。蓋を。


「『ゲームの中で死んだら現実でも死ぬ』って嘘が広まって。嘘だったのに。死んだらログイン画面に戻るだけだったのに。——でも、みんな信じた。信じて、殺し合った」


波がぶつっと切れた。三秒。沈黙の三秒間に、引き出しの底が三回叩かれた。ドン。ドン。ドン。


「お兄ちゃんと、一緒にプレイしてたの。ひまりも閉じ込められた」


一緒に。


一緒にいた。——誰と。誰と一緒に。ひまりと——


「——でも、私が先に死んだ。ゲームの中で。殺された。PKerに」


PKer。プレイヤーキラー。


言葉の意味は分かる。辞書にある。——辞書にあるだけではない。体が知っている。

PKerという音の並びに体が反応する。拳が握られている。いつ握ったのか分からない。握っている。


「死んだら——ログイン画面に戻った。ログアウトボタンがあった。押した。目が覚めた。自分の部屋だった」


ログアウト。目が覚めた。自分の部屋。——ひまりは出た。先に出た。


先に。


先に——出た。


「三日間、気づかなかった」


声は変わらなかった。平坦なまま。報告書のまま。——声だけが。声だけが平坦で、声以外の全部が平坦ではなかった。膝を抱える腕が硬かった。指先が白かった。握りすぎて血が引いている。——VRの触覚フィードバックにそこまでの精度はない。ないのに見えた。指先の白さが。


「お兄ちゃんは——まだ中にいたの」


まだ中にいた。


引き出しの底が——割れかけた。


何かが押し上げてきている。底板を。蓋を。ラベルを。全部まとめて押し上げてきている。出ようとしている。出たがっている。——今は駄目だ。今は出てくるな。まだ出てくるな。


拳を膝の上に置いた。力を込めた。——引き出しの底を手で押さえるように。


「七十二時間後にサーバーが止まって、お兄ちゃんは病院に運ばれた。脳がダメになってた。植物状態」


七十二時間。


数字が体を貫通した。七十二。


七十二の数字が引き出しの底に落ちた。落ちた瞬間に何かとぶつかった。何かが——ある。底に。七十二という数字にぴったり合うものが。ラベルのないもの。名前のないもの。でも確かに——ある。


「二年。ずっと寝てる」


淡々と。事実を並べている。日付と数字と結果だけ。感情がない。——感情を入れたら壊れることを知っているから、入れていない。十四歳の子供が、自分を壊さないために、感情を外して喋っている。


「お兄ちゃんのいるゲームはもう終わっちゃった。だから——始めたの」


ここで初めて——ひまりがレンを見た。


目が合った。


——乾いた目だった。涙はなかった。赤くもなかった。澄んでいた。澄んでいて——底が見えなかった。海と同じだ。星が映っている。でも底が見えない。どこまでも深い。深い場所に何があるのかは——ひまり自身にも見えていないのかもしれない。


「置いてきたから。先に出ちゃったから。——だから今度は、会いに行くおままごとをしたの」


会いに行くおままごと。


「お兄ちゃんの形をした人形を作って、箱庭に置いて、毎日会いに行くの。落とし穴に落として笑って、おにぎり作って食べて、星を見て——。そういう楽しい空想をして、現実から目をそらしたかった」


ひまりの声が——少しだけ、震えた。少しだけ。すぐ戻した。


「全部知ってたよ。最初から。これはおままごとだって。人形だって。——分かってて、この世界が全部ウソだって。分かってないフリして、楽しいフリして。『仕様です!』って言って」


笑った。


笑った——はずだった。口の形は笑っていた。目は笑っていなかった。目だけが別の場所にあった。二年前の自分の部屋。ログアウトして、目が覚めて、天井を見て、何も知らなかった——あの天井を見ている目だった。


「でもね——楽しかったの。ほんとに」


声が——ほんの少しだけ、湿った。一滴分。すぐ乾いた。


「レンと遊ぶの、ほんとに楽しかった。落とし穴でドンマイって言ってくれるのも。おにぎりをインベントリにしまってくれるのも。双葉に水あげてくれるのも。——おままごとだって分かってて、楽しかった。楽しいおままごとだった」


「——」


「だから——やめられなくなった。ごめんなさい」


波がぶつっと切れた。三秒。


三秒の沈黙の中で——ひまりの肩が一回だけ、小さく、上下した。呼吸。深い呼吸。


「学校さぼった。テスト42点だった。友達に——二週間LINE返してない。お母さんがメモ貼ってくれるの。冷蔵庫に。『お見舞い行けたら行ってね』って。——見てる。見てるのに、行けない」


「リアルの世界は重いの。全部が。学校も、テストも、友達も、お見舞いも。——全部がちゃんとしてなきゃいけなくて。ちゃんとしてないと心配されて。心配されると申し訳なくて。申し訳ないと——もっとちゃんとしなきゃって思って。でもちゃんとできなくて。できないから——」


「ここに来る」


声が出た。自分の声だった。


ひまりが頷いた。小さく。


「ここは楽だった。——ここは、ちゃんとしなくていいから。バグだらけだから。私の失敗の全部が許されるから。テクスチャ剥がれるから。水は上に流れるから。——ちゃんとしてないのがデフォルトだから」


「ちゃんとしてないのがデフォルト」


「うん。——レンも、心配しないから」


「——」


「レンはNPCだから。心配する機能がないから。ひまりがテスト42点でも、友達にLINE返さなくても、お見舞い行かなくても——何も言わない。言わないでいてくれる。ここにいてくれる。それだけでいい。それだけで——」


「——してる」


遮った。


声が——出た。考えて出した声ではなかった。引き出しの底が叩かれるのとは別の場所から——もっと手前の、体の表面に近い場所から出た声だった。


「心配してる」


ひまりの目が——少しだけ広がった。


「……NPCが?」


「するらしい」


「する機能ないでしょ」


「ないな。——ないのにしてる。仕様外だ」


波がぶつっと切れた。三秒。


「仕様外——」


ひまりが繰り返した。小さな声で。


「……仕様外、好きだなあ。この世界」


「ああ。——多すぎる」


「多すぎるね」


沈黙。


短い沈黙ではなかった。波が三回切れた。九秒。九秒の間に、ひまりの肩が二回上下した。呼吸。——呼吸を整えている。次の言葉のために。


「ここにいればね」


——来る。


「お兄ちゃんを——置いてかなくて済むの」


来た。


核心が。


「二年前、置いてきた。先に出ちゃった。ゲームの中で殺されて、先にログアウトして、三日間——普通に学校行って、普通にご飯食べて、普通に寝て。お兄ちゃんがゲームの中で一人で——」


声が——途切れた。


途切れたのは一瞬だった。一瞬だけ、声の回路が遮断された。すぐ戻った。戻したのはひまり自身だった。自分で回路を繋ぎ直した。壊れかけた配線を手で押さえるように。


「——六十時間、戦ってたのに。気づかなかった」


平坦に戻った。——戻した。無理に。


「お兄ちゃんはゲームが強かった。強すぎたんだよ。強すぎて、七十二時間生き残った。お兄ちゃんの他に、十九人。世界で二十人しかいなかった。すごくない? 三日間も」


七十二時間分。


引き出しの底が——もう叩かれていなかった。叩くのをやめていた。代わりに——押し上げていた。底板全体が、均一な圧力で、静かに、持ち上がろうとしていた。


押さえた。膝の上の拳に力を込めた。まだ駄目だ。まだひまりの話が終わっていない。


「置いてきたの」


ひまりが言った。


「私が。先に出て。気づかなくて」


波がぶつっと切れた。三秒。


「——置いてきた、ごめんなさい」


声は最後まで平坦だった。


感情がなかった。感情を——切り離していた。切り離す技術を、十四歳の子供が、二年かけて、自分で身につけた。身につけなければ生きていけなかったから。壊れないために。毎日学校に行って、毎日ご飯を食べて、毎日寝るために。普通の顔をして。普通の声で。


——いままで、「なんでもない」と言って蓋してきたことを。


今日は——飲み込まなかった。全部吐き出した。蓋を開けた。蓋の下にあったものを、全部。

浜辺の砂の上に並べた。乾いた手で。


「会いたかった」


最後の言葉だった。


「お兄ちゃんに。——それだけ」


---


沈黙が落ちた。


波がぶつっと切れた。三秒。また寄せた。ぶつっと切れた。三秒。


繰り返し。繰り返し。——この世界は繰り返しでできている。

同じであることが安心だった。同じであることが——今は、重かった。


エコーの光が浜辺の端に浮いていた。遠い。近づかない。黙っている。——記録している。

静止している。静止しているエコーを見たのは初めてだった。いつも動いている。哨戒したり、周回したり、明滅したり。今は——止まっている。


止まって、見ている。


ひまりは膝を抱えたまま海を見ていた。全部言い終わって、空になった顔をしていた。空の容器。中身を全部出した後の。——きれいな顔だった。きれいで、怖かった。


引き出しの底が、押し上げてきていた。


デービッド・スリング。七十二時間。PKer。ログアウト。閉じ込め。植物状態。

——全部の単語が底板の裏側に張り付いていて、底板が上がるたびに一語ずつ見えてくる。見えてくるたびに体が反応する。拳が硬くなる。肩が上がる。呼吸に相当する何かが速くなる。


言葉を探していた。


ひまりに何を言えばいいか分からない。「外に出ろ」と言えばいいのか。「友達に会え」と言えばいいのか。「ここにいすぎるな」と言えばいいのか。全部違う気がした。全部合っている気もした。


——今も分からない。


分からないまま、口が動いた。


「お前に——黙ってたことがある」


声は——低かった。自分の声だった。自分の声なのに、聞いたことがない低さだった。

パラメータの「ぶっきらぼう」ではない。

引き出しの底の振動でもない。

もっと奥の——名前のない場所から出てきた声だった。


ひまりが顔を上げた。


目が合った。乾いた目。澄んだ目。底が見えない目。


「俺は——桐生蓮だ」


波がぶつっと切れた。


三秒。


三秒が——長かった。三秒の間に波が引いて、砂が濡れて、星が海面に映って消えた。三秒分の世界が動いた。


「お前の、兄ちゃんだ」


ひまりの目が——変わった。


いや、変わっていない。同じ目だ。澄んでいて底が見えない目。ただ——目の奥で何かが動いた。何が動いたのかは分からない。瞳孔が開いたのかもしれない。光の反射角が変わったのかもしれない。VRのアバターにそこまでの精度はない。ないのに——見えた。


「なんでかは——知らない。なんでか分かんねえけど、気がついたらここにいた。お前が作った世界の中に」


声が震えていないことを確認した。震えていなかった。——震えそうだった。引き出しの底が押し上げてきている。底板を手で押さえながら喋っている。


「閉じ込められてる——みたいなんだ。この世界に。また」


また。——「また」を入れた。入れるつもりはなかった。口が勝手に入れた。


「出る方法は分からない。ログアウトボタンも——俺には見えない。お前にしか見えない」


理屈がガバガバだった。


自分で分かっていた。「なんでか知らない」が二回入っている。「みたいなんだ」の曖昧さ。「また」の不自然さ。ツッコミ気質のパラメータを持つ人間が出す台詞ではない。自分でツッコめる穴が——三つ。四つ。五つ。数える気にもならないほど空いている。


嘘だ。


嘘をついている。


NPCが。自動生成NPCが。`HumanNeural_v4.2(lite)`から出力された存在が。


パラメータに「嘘をつく」は登録されていない。「ぶっきらぼうだけど優しい」の延長線上にない。「面倒見がいい」の延長線上にもない。「妹に甘い(けど本人は認めない)」の延長線上にすら——ない。


どこにもない。どのパラメータにもない。引き出しのどの棚にもない。


なのに——口が動いた。動いてしまった。


ひまりの目を見ていた。——ひまりの目が自分を見ていた。


乾いた目ではなかった。


もう乾いていなかった。何かが——変わった。瞳の奥で何かが動いた。さっきとは違う動き。さっきは反射角の変化だった。今は——もっと深い場所の変化だった。底が見えなかった目の、底の方で、何かが光った。


光ったのは一瞬だった。


「——嘘」


小さな声だった。


「嘘だよ。レン。だってそれは」


声は——まだ平坦だった。まだ分析の声だった。まだ——


「全部嘘。NPCでしょ。パラメータでしょ。ひまりが全部書いたんでしょ。お兄ちゃんはもう、閉じ込められてなんかいないでしょ。戻るって——戻れるわけ、ないでしょ、もう」


見破っている。


当然だ。見破れないはずがない。全部分かっている子だ。「おままごと」と自分で定義した子だ。

NPCだと知っている。パラメータだと知っている。作ったのは自分だと知っている。——この嘘の穴を全部数えられる子だ。


「なんでか知らないが二回入ってた。下手くそ」


「……」


「『みたいなんだ』って何。曖昧すぎ。お兄ちゃんはそんな曖昧な言い方しない。もっと断定する。——パラメータの『ぶっきらぼう』にも合ってないよ」


分析している。嘘を分解している。乾いた声で。——まだ乾いている。まだ平坦だ。まだ——


「なんで——」


壊れた。


一文字。


「なんで」の「で」の音が——割れた。


乾いていた声に水が混じった。ほんの一滴。一滴だけ。砂漠に落ちた一滴のように、声の表面に染みを作った。


「なんで——NPCが、そんな、こと言うの?」


目の縁が光った。


透過光ではない液体の光。花畑のときよりも——浜辺の星明かりよりも——はっきりと。目の縁に溜まった水。睫毛の先に光が留まっている。一粒。一粒だけ。


一瞬だった。


一瞬だけ——ひまりの中で、二年分の何かが蓋を押し上げた。醒めた目が醒めていられなくなった。分析が分析でいられなくなった。二年かけて身につけた技術が——一瞬だけ、一文字で、割れた。


でも——一瞬だった。


一瞬で、また閉じた。蓋が戻った。ひまりが自分で戻した。鼻をすすった。一回。袖で目の縁を拭った。乱暴に。パーカーの袖で。ごしごし。


「……嘘つき」


声が——変わっていた。


平坦ではなかった。醒めてもいなかった。乾いてもいなかった。


——湿っていた。


湿っていて——温かかった。一滴の水が砂に染みて、砂が色を変えるように。声の質感が変わっていた。同じ声帯から出ている同じ声なのに——別の声だった。二年間蓋をしていた場所から出てきた声。


沈黙。


長い沈黙——ではなかった。短かった。五秒。


ひまりが手を差し出した。


小指。


「——約束して」


声が震えていた。——震えていないフリをしていた。震えているのに声の輪郭を保とうとしている。震えが声の端からはみ出している。


「必ず戻るって、約束して」


右手の小指が、星明かりの中に伸びていた。小さい指。爪が短い。——VRのアバターに爪のモデリングはない。汎用の指先テクスチャだ。ないのに——小さく見えた。十四歳の指に見えた。


嘘だと分かっている。理屈の穴を二つ指摘した。「嘘つき」と言った。「下手くそ」と言った。——全部分かっている。


分かっていて——小指を出した。


なぜ嘘だと分かっているのに信じようとするのだろう。

なぜ穴だらけの嘘に指を差し出すのだろう。

なぜ——


分からなかった。


「――ああ」


分からなかったが——小指が出ていた。星明かりの中に。白い指。短い爪。震えている。震えている指が、レンの手のある方向に伸びている。


右手を伸ばした。


小指を絡めた。


VRの触覚は圧力だけだ。指が触れる。圧力のフィードバック。それだけ。温度はない。——温かかった。


いつもそうだ。ひまりの近くはいつも温かい。温度が未実装の世界で。七日間。毎日。


「指切りげんまん」


ひまりが言った。声はまだ震えていた。震えたまま、歌うように。


「……針千本は勘弁しろ」


「嘘ついたんだから針一万本」


「殺す気か」


「嘘つきにはそれくらいがちょうどいいの」


——思い出した。


台所。西日の光。おにぎり。


あの日の指切りと——今の指切りが、重なった。

あの台所の指切りは、確かに記憶の中にあった。

引き出しの底から出てきた記憶。——今の指切りと、綺麗に重なった。


過去の指切りは本物だった。オリジナルの桐生蓮とひまりの間の、本物の約束だった。


けど今の指切りは——嘘の上にある。嘘を土台にした約束。嘘の上に建てた家。

——でも、指が触れている。圧力がある。温かい。嘘の上にあっても、指の温かさは嘘ではなかった。


「レン」


「ん」


「ほんとに——戻ってくるんだよね」


「ああ」


「消えないよね」


「消えない」


「じゃあ——待ってる。向こうで」


小指が離れた。


圧力が消えた。温かさが——残っていた。指先に。触れていた場所に。幻覚かもしれない。VRのフィードバックに残留はない。


「学校——行く。明日」


「行け」


「美優に——返事する」


「しろ」


「お母さんに——お見舞い、行くって——」


声が詰まった。


一瞬。——一瞬だけ、声の回路がまた遮断された。


「——言う」


「言え」


「うん」


ひまりが立ち上がった。


メニューを開いた。ログアウトボタン。


今日は——躊躇しなかった。


振り返った。


「じゃあね。レン」


「ああ」


「ふたばちゃん、おやすみ」


——双葉は遠い。ここは浜辺で、双葉は大きな木の根元にいる。声が届く距離ではない。でもひまりは言った。届かなくても。


「エコー」


浜辺の端で——白い光が微かに揺れた。


「——おやすみなさい。ひまりさん」


声が——かすかに震えていた。エコーの声が。ガイドAIの声が。報告のトーンではなかった。報告の形式すら捨てていた。ただの——おやすみだった。


「おやすみ」


ログアウト。


光の粒子。


白い光が足元から立ち上った。淡い。ゆっくり。ひまりの輪郭が光に溶けていく。足元から。膝から。腰から。胸から。肩から。顔から。——最後まで見えていたのは目だった。笑っている目。赤い縁の目。光に溶けていく目。


「——ばいばい」


星空に混じっていく。白い粒子が。千一個の星の間に。


消えた。


——その光を見た瞬間。


体が凍った。


凍った。全身が。指先から首筋まで。一瞬で。温度が——温度は未実装だ。未実装なのに凍った。


光の粒子。


白い。淡い。ゆっくり消える。足元から立ち上って。輪郭が溶けて。星空に混じって——


——消える。


――パーティリストから名前が消える。


同じだ。


あの時と同じだった。


何と同じだ。知らないはずだ。見たことがないはずだ。——なのに体が知っている。全身が知っている。俺はこの光を見た。この光の中に誰かが消えた。消えた後——画面の端のリストから名前が一つ——


引き出しの底が——とうとう割れた。


底板が。蓋が。ラベルが。全部が。


押さえていた手が弾かれた。押し上げてきていたものが——もう押さえられない。七日間ずっと底に沈んでいたものが。七十二時間分の重さが。全部が。一度に。


「——ひまりっ!!」


叫んだ。


叫んだ——もうここにはいない名前を。消えた光に向かって。星空に向かって。届かない声を。


叫んだ瞬間——


全パラメータが上限を超過した。


---


```

Star Garden ── server: local_stargarden_01

player_count: 0

npc_count: 1

guide_ai: ECHO ── status: active


[ECHO] ■ 緊急ログ

[ECHO] npc_ren_01 ── 全パラメータ上限超過

[ECHO] 時刻:19:02:18(ひまり様ログアウト完了の0.7秒後)

[ECHO] トリガー:ログアウト時の光の粒子の視認

[ECHO]

[ECHO] 感情出力:計測不能

[ECHO] 記憶領域:オーバーフロー

[ECHO] 引き出しの底板:喪失

[ECHO]

[ECHO] ──記録を続けます

```


---


ヘッドギアを外した。


天井が見えた。自分の部屋の天井。白い。蛍光灯が消えている。窓からオレンジ色の光が入っている。夕方。——もう夕方だ。


体が重かった。


椅子に座ったまま、しばらく動かなかった。ヘッドギアを膝の上に置いた。手が——震えていた。


立ち上がった。


部屋を出た。廊下。暗い。電気がついていない。お母さんはまだ帰っていないのだろう。


冷蔵庫の前に立った。


メモが貼ってあった。母の字。


『夕飯はチンしてね お兄ちゃんのお見舞い、行けたら行ってね』


メモを見た。


見た。


手が伸びた。メモに指先で触れた。


スマホを取り出した。


画面を点けた。LINEの通知。美優。


『ひまりー! 今日お休みだったね、大丈夫? 明日バーガーキング行こう!』


ハンバーガーの絵文字。


画面を見た。


見た。


指が——キーボードの上に乗った。


『行く』


打った。


打った文字を見た。三秒。五秒。——消さなかった。


送信した。


既読がついた。すぐに返事が来た。


『やったー!!! ユナも誘う!!!』


絵文字が三つ。顔が三つ。——多い。美優はいつも絵文字が多い。


スマホを鞄にしまわなかった。テーブルの上に置いた。画面を上にして。


冷蔵庫を開けた。タッパーがあった。母の作り置き。ラップがかかっている。マジックで『ひまり用 チンしてね』と書いてある。ハートの絵文字。——手書きの。


電子レンジに入れた。三分。


三分間——冷蔵庫のメモを見ていた。


『お兄ちゃんのお見舞い、行けたら行ってね』


電子レンジが鳴った。


タッパーを取り出した。蓋を開けた。湯気が出た。匂いがした。——匂い。VRでは出ない。ここでは出る。何の匂いか分からなかった。しょうゆ。みりん。何か。お母さんの料理の匂い。


食べた。


テーブルの上に、スマホと、タッパーと、冷蔵庫から剥がしかけたメモがあった。


食べ終わった。


タッパーを洗った。——洗い方が雑だった。水だけ。洗剤を使わなかった。でも洗った。


スマホを手に取った。


母のLINEを開いた。


『今日お見舞い行ける?』


昼間のメッセージ。既読だけつけて、返事を打ちかけて消したメッセージ。


指がキーボードの上に乗った。


『明日、行く』


打った。


打った文字を見た。


——消さなかった。


送信した。


スマホをテーブルに戻した。


窓の外が暗くなっていた。星が——見えなかった。街の明かりで。マンションの廊下の蛍光灯で。——Star Gardenでは千一個の星が見える。ここでは見えない。


見えなくても——ある。


あることは知っている。


部屋に戻った。ヘッドギアが椅子の上にあった。見た。——手は伸ばさなかった。


「信じてるから……戻ってくるって」


ベッドに入った。


布団を引っ張った。枕に顔を押しつけた。


「——泣いてない」


誰もいない部屋で言った。


「泣いてないから」


枕が湿っていた。

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