5 浮気夫が妻を義父に預けたら、二人の距離が近づいていました
「……いた」
心臓が跳ねた。同時に、自分が緊張していることに気づいた。
思い出すのは過去、大学時代の姿だ。
専攻は同じだった。
構内で姿を見かければ、自分から挨拶をした。先輩だからと思って。
親しくしていたわけではない。
たまに、何人かで話すことはあったが、それだけだ。
自分だけが、彼のことを覚えているのかもしれない。
そんな気がした。
今さら声をかけて、どうするのだろう。そう思ってしまった。
「私のことを覚えていますか」
なんて聞くことはできない。
そう考えると、怖くなった。
数日の間、そんなことを考えていた。
仕事の帰り、以前、正志を見かけた書店に足を運ぶ。
偶然を期待していたわけではない。
ただ、もし会えたら、声をかけてみようと思った。
「吉川は忙しいんだ」
「実家とアパートを行ったり来たりしているからな」
「まじめなんだよ、あいつは」
大学時代の仲間たちから、そんな話をよく聞いた。
皆で遊ぶことより、卒業した後のことを考えていたらしい。
そんな正志が気になっていた。
皆が遊んでいる中、自分のやるべきことを考えている。
自分とは違う人だと思えた。
それが、当時の彼女には特別なものに見えていたのかもしれない。
派手な人ではない、目立つことをするわけでもない。
それでも、自分はつい目で追っていた。
教科書だけではない。文芸誌や専門書、ノート。
いつも何かを読んでいた。
友人たちが食堂で騒いでいても、少し離れた場所で一人、本を開いている。
誰かに声をかけられれば、顔を上げて話す、笑うこともある。
でも、話が終われば、また自分の世界へ戻っていく。
そんな人だった。
その日、本屋で見かけてしまった。
男性が本を棚に戻し、店を出ようとしている。
また、いなくなってしまう。
そう思った瞬間、声が出た。
「……吉川先輩」
自分でも驚くほど、小さな声だった。
それでも男性が足を止めた。
ゆっくりと振り返り、自分を見る。
「……はい?」
その顔を正面から見た瞬間、彼女は確信した。
やっぱり、この人は吉川先輩だ。
間違いない。
「……お久しぶりです」
男性が不思議そうに、少し驚いた顔で自分を見る。
「……どこかで、会ったことがありましたか」
不思議そうに、思い出そうとしているようだった。
「同じ大学で、専攻が一緒でした」
そう言おうとした、そのときだった。
「もしかして、四条さん?」
少し戸惑ったように聞かれて、女は驚いた。
名前を覚えていてくれたことに、驚いたのだ。
思わず頷いた。同時に胸に嬉しさが込み上げた。
「懐かしい。偶然だね、こんなところで」
その日、恵梨香の部署に、見知らぬ男性が訪ねてきた。
恵梨香は見たことのない顔だった。
だが、その男性の姿を見た途端、何人かの社員の表情が変わった。
「どうしたんですか?」
恵梨香が隣の社員に小声で尋ねる。
「……あの人、情報システム部の人だよ」
だが、言われても恵梨香には分からなかった。
ただ、いつもの雑談とは違う空気が流れていることだけは感じた。
「頼みたいことがある。吉川の自宅に直接届けてほしいものがある」
男性社員は驚いたようだ。
「直接ですか」
情報システム部の男性は頷いた。
「書類だけじゃない。データの入ったメモリースティックもある。住所や顧客情報が入っている。郵送が悪いわけじゃないが、郵便事故が絶対にないとは言えないからな」
男性社員が頷いた。
そのときだった。
「私、届けましょうか」
恵梨香が口を挟んだ。
以前なら、こうして自分から申し出ることはなかったかもしれない。
だが、今はいつも自分に厳しい女性上司もいない。
それに、吉川の自宅なら住所も知っている。
「自宅にだぞ。知ってるのか?」
恵梨香は頷いた。
「以前、郵便を届けたので、住所は知っています」
「頼めるか」
上司の言葉に恵梨香は頷いた。
「奥様に直接、渡せばいいですね」
その言葉に上司は安心したようだ。
そのとき、恵梨香の脳裏に、ふと男性の姿が浮かんだ。
どうして、あの人を思い出したのだろう。
自分でも分からない。
行くのは祐一の家だ。
会いたいと思っているのも、祐一のはずだった。
それなのに、頭に浮かんだのは別の男だった。
「祐一、私ね、結婚しようと思うの」
数日前、自分の出張先に来た恋人の言葉に祐一は、そうなのかと頷いた。
驚いた表情ではないことに女は、やはりと思った。
自分に対して執着はないというのは最初から分かっていた。
「社外の人間だろう」
女は頷いた。
「我慢できるのか」
「あなたのことは内緒。それに、今、付き合っている女とは手を切らせるわ」
「君は我儘だからな」
祐一は笑った。
「結婚しても、俺達の関係を続けるのか」
女は笑った。
「夫になる男が、私を満足させられると思う」
祐一は笑った。女の答えを、最初から知っているのかもしれない。
「あなただって、奥さんと別れる気なんてないでしょう」
「しばらくは会えないな」
女は頷いた。
「でも、会えない分だけ、楽しみが増えると思わない」
そういうものなのかと祐一は不思議そうな顔をした。
「浮気しないで」
日曜日の午前中なら、少し早めに行けば奥さんは家にいるだろう。
届けに行く前、恵梨香は周りの人から情報を集めた。
以前なら、気にして祐一の自宅のことを聞くようなことはしなかっただろう。
だが、自分の上司、女性が海外に行った。
いなくなった、姿が見えない。
それだけで、こんなにも自由に動けることに、恵梨香は少し驚いていた。
奥さんは働いているのだろうか。
社員に聞くと、返ってきたのは、
「確か本屋でバイトしているって聞いたな」
それなら、日曜日の午前中なら自宅にいるかもしれない。恵梨香はそう思った。
その日、恵梨香は吉川の自宅を訪ねた。
チャイムを押す。
しばらくして、玄関のドアが開いた。
出てきたのは、以前、見た女性だ、やっぱり、この人が祐一さんの奥さんだと恵梨香は思った。
自分より年上に見える、落ち着いた雰囲気の女性だった。大人しそうな印象を受けた。
大人しそうな感じだ。
「あの、会社から吉川さん宛てに……」
そう言いかけたとき、家の奥から声がした。
恵梨香の視線が、声のしたほうへ向く。
そこに、あの男性がいた。
「お客さんかい」
「正志さん、会社からのお届け物みたいです」
「そうか。ありがとう、春奈さん」
封筒を渡して外に出た時、恵梨香は気づいた。
門を出たところで、ふと足を止める。
「……あれ?」
何かが引っかかった。
さっきの二人。
「正志さん」
「春奈さん」
ごく自然に、互いの名前を呼んでいた。
恵梨香は振り返り、もう一度、家を見る。
夫の父親と、その息子の妻。
「……お義父さん、じゃないの?」
思わず呟いた。
勿論、家庭によって違うのかもしれない。
そう思ってみた。だが、なぜか気になってしまった。
祐一の妻だから気になる。そう思っていた。
けれど、本当に気になっていたのは、春奈だけなのだろうか。
恵梨香には、自分でも分からなかった。




