6「昔好きだった人と、気になる既婚者」
夜、九時を過ぎていた。
正志は玄関に明かりがついているのを見た。
ほっとする。いや、安心した。
最近は寒くなってきた。
家の中に入れば、人の気配だけでなく、温かさもあるだろう。
帰る前に、春奈へメールで連絡した。
打ち合わせで食事をしたが、サンドイッチと珈琲だけでは少し物足りないと思っていた。
『お茶漬けでもいい、軽く食べたい』
そうメールを送ると、すぐに返事が返ってきた。
『今日は釜飯を作ったので、雑炊にしようと思います』
ただのお茶漬けではない。
それだけで、気分が違う。
「お帰りなさい」
出迎えてくれた春奈が、雑炊を出してくれた。
「お仕事、ご苦労さまです。甘い物、どうですか?」
出されたのは、わらび餅だ。
きなこが、たっぷりとかかっている。
「食べた後は、すぐにお風呂に入りますか?」
「いや、少し休んでから」
春奈の背中を見ながら、正志は以前とは生活が少し変わったことを感じていた。
一人で暮らしていた頃には、こんなふうに誰かと食事をすることも、帰宅して温かい料理を食べることもなかった。
それを心地よいと思っている自分に気づいた。
「四条さん」
名前を呼ばれたときのことを思い出すと、四条は嬉しくなった。
大学時代の先輩、それだけなのに。
他の人とは、どこか違うと思っていた。
少し前、大学時代の友人と会った。
そのとき、昔の写真を見せてもらった。
スマホの画面に並ぶ顔を見て、四条は少し驚いた。
皆、それなりに歳を重ねている。
自分だって、学生の頃と同じではない。
分かっていたことなのに、写真を見ると改めて時間が経ったことを感じた。
学生の頃とは、まるで別人のようになった人もいる。
仕事を辞めて家業を継いだ人。
結婚して家庭を持った人。
家事をしながら過ごしている人。
病気をして、今も療養しているという人もいた。
「みんな、いろいろだね」
そんな話をしながら写真を見ていた。
そのとき、四条は気づいた。
自分が、写真に写っている人たちと正志を比べていることに。
どうして、私は正志先輩と比べているのだろう。
そう思った瞬間、少し前に書店で会った正志の姿が浮かんだ。
白髪交じりの髪。
眼鏡をかけた顔。
学生の頃と同じではない。
それでも、どこか昔の面影が残っていた。
あの人は、変わっていない。
そう思った。
もちろん、歳を重ねている。
けれど、ただ歳を取ったという感じではなかった。
むしろ、今のほうが落ち着いていて、以前よりも魅力的に見えた。
四条は本屋でのことを思い出した。
正志が見ていた棚には、難しそうな本が並んでいた。
政治や社会について書かれた本。
ジャーナリストの書籍もあった。
大学時代、正志が書物を読み、文章を書くことを続けていたことを思い出す。
「ライターになりたい」
以前、正志がそんなことを話していた。
それは作家になりたいということなのかと思っていた。
けれど、今になって考えてみれば、正志は大学にいた頃から、自分が進みたい道を考えていたのかもしれない。
皆が遊んでいるときも、本を読んでいた。
授業が突然休講になり、休みが続くと出掛けていた。
てっきり友人たちと出掛けていたと思っていた。
だが、そうではなかった。
皆と騒ぐことより、自分のやるべきことを優先していた。
あの頃は、それが少し変わった人に見えた。
でも、今なら分かる。
あれは、ただ真面目だったのではない。
自分の人生をきちんと考えていたのだ。
そう思うと、ますます正志のことが知りたくなった。
今はどんな仕事をしているのだろう。
どんな毎日を送っているのだろう。
そして――。
結婚しているのだろうか。
奥さんがいて、子供がいてもおかしくはない。
そんなことを考えてしまった。
それから数日。
四条は仕事帰りに、書店へ立ち寄った。
正志に会えるとは思っていなかった。
ただ、あのとき正志が立っていた場所を、もう一度見てみたかった。
文芸誌の棚。
その隣には、政治や社会に関する本が並んでいる。
「……いない」
なかなか正志を見つけられないことを、残念に思ってしまう自分がいた。
それから数日後も、帰り道に書店へ寄った。
自分でも、なぜと思ってしまう。
けれど、正志の姿はなかった。
今日はいるかもしれない。
そんなことを思いながら店に入る自分に、四条は少し驚いていた。
会いたいわけではない。
そう思っているのに、店に入ると、無意識に姿を探してしまう。
少しだけ胸が苦しくなった。
自宅に荷物が届いた後、恵梨香は数日の間、ぼんやりとした日々を過ごしていた。
若い社員から食事に誘われたこともあったが、誘いにはのっても先はなかった。
深い付き合いをする気持ちにはなれなかった。
祐一なら……。
そんなことを考えていたときだ。
「君、海外に行けるか?」
その日、上司から声をかけられた恵梨香は驚いた。
「実は吉川の補佐をしてもらいたい」
どういうことだろう。
恵梨香は驚いた。
「あ、あの、吉川さんの補佐ですよね。先日、上司が……」
「ああ、実は彼女だが」
上司は言葉を止めた。
迷っているようだ。
「個人的な理由だ。彼女はしばらく日本に戻ることになった」
吉川祐一の名前が出た瞬間、恵梨香はどきりとした。
「行けます」
恵梨香が頷くと、上司はほっとしたような顔をした。
「突然ですまない。ただ、正直なところ、いつまで向こうにいてもらうことになるか、まだ決まっていないんだ」
恵梨香は、すぐに支度にとりかかった。
できるだけ早く向こうに行ってほしいと言われたのだ。
急な出張だったため、週末の便は取りにくいだろうと思い、平日の便を選んだ。
向こうについて驚いたのは、空港に祐一が迎えにきてくれたことだ。
「わざわざ、すみません」
「いや、大丈夫だよ」
祐一の表情は明るくなかった。
恵梨香は、何かあったのだろうかと思った。
「少しトラブルがあってね。実は君よりも前に彼女は帰国した」
「そうなんですか」
恵梨香は驚いた。
「書類がまとまったら、それを日本に持ち帰ってほしい」
「データなら、送信した方が早くないですか?」
祐一は首を振った。
「流出があった。今は企業の情報でも、送信時のトラブルは珍しくない」
恵梨香は驚いた。
そんなことは聞かされていなかったからだ。
祐一は詳しくは話さない。
不安にさせないためだと、恵梨香は思った。
祐一の顔を見て気づいた。
「ちゃんと休んでますか? 顔色、よくないです」
返事の代わりに祐一は頷くだけだ。
「君には往復してもらうことになるかもしれない。大丈夫か?」
翌日、恵梨香は現場に出た。
英語なら話せるという自信はあった。
だが、癖の強い英語を早口で話しかけられると、聞き取るのも難しい。
それに、他の言語で話しかけられることもある。
すぐに対処できないことに、恵梨香は内心慌ててしまった。
「スマホの翻訳を使えばいい。落ち着いて」
祐一が声をかける。
「吉川さんは話せるんですか?」
「学校や教室で習ったからって、流暢に話せるわけじゃない。俺も、分からないときはスマホを使っている」
その日、恵梨香は夕食を一緒に食べようと声をかけられた。
ホテルのレストランではない、祐一の部屋でだ。
部屋に入って、恵梨香は驚いた。
テーブルの上にはノートパソコンが二台、小型のプリンター。大量の書類が置かれている。
ホテルのレストランで食べたり、外へ食べに行ったりはしなかったのだろうか。
そんな気持ちが顔に出ていたのだろう。
「ここに来て二日ほどは外に出て食べようとしたんだ。だが、値段が高いだけじゃない。衛生面が気になった」
祐一は真面目な顔で言った。
「食事には気をつけている。最初は携帯食でしのいだ。酒も控えている。日本とは勝手が違うからな」
祐一の顔色が良くないのは、睡眠不足だけのせいではないと恵梨香は思った。
「まとめた書類とデータを持ち帰ったら、向こうで確認、また帰ってきてくれるか」
恵梨香は驚いた。
日本に帰って、終わりだと思っていたが違う。
「まだ、かかりそうなんですか?」
「データの流出だけじゃない。こっちの技術者にトラブルがあったんだ」
祐一の顔は真剣だ。
「日本とでは、仕事の進め方も違う。曖昧な指示を出して、あとは現場で何とかしてくれ、というわけにはいかないんだ」
自分は祐一ほど仕事ができるわけではない。
それでも、少しでもいい。
「任せても大丈夫だ」と思ってもらわなければ、ここへ来た意味がない。
恵梨香はそう思った。




