3 私が気になる男には、もう妻がいる
「寒いな」
その日、正志は帰り道、独り言のように呟いた。
日が暮れるのも早くなった、食事も鍋、汁物が増えてきた。
コンビニでは中華まんを売り出している。
店の窓ガラスにはチラシが、外にはのぼりも立っている。
一人暮らしなら、買って帰ることも珍しくなかった。
仕事が遅くなった日は、コンビニで適当に済ませることもある。
買って行こうかと思ったとき、スマホの通知音が鳴った。
画面を見ると、春奈からだった。
「肉まん、好きですか。今、作っているんです」
肉まんを作っている?
正志には、その意味がすぐには理解できなかった。
ただ、もうすぐ帰ると返信した。
仕事から帰ってきて肉まんを作ろうという発想が、正志にはなかった。
自分なら、買うものだと思っている。
それを春奈は家で作っている。
それだけのことなのに、なぜか家へ帰る足が少しだけ軽くなった。
玄関のドアを開け、台所に入るといい匂いがする。
いつもなら、仕事から帰れば静かな家だった。
今は、台所から物音が聞こえる。
それが不思議と嫌ではなかった。
「ただいま」
「正志さん、蒸かしたてですよ」
春奈が笑いながら鍋の蓋を開けると、白い湯気が立ち込める。
正志は思わず目を細めた。
「作ったのかい?」
「具さえ作っておけば、皮は小麦粉を練って包むだけだから簡単です」
春奈はそう言って、肉まんを一つ皿に取った。
「熱いので、気をつけてください」
「ありがとう」
正志は受け取った肉まんを両手で持った。
まだ熱い。
ふうふうと息を吹きかけながら、正志はふと思った。
自分一人なら、今日もコンビニで肉まんを買って帰っていただろう。
それが今は、家に帰れば誰かが作って待っている。
それは決して大げさなことではない。
毎日の中にある、ほんの小さな出来事だ。
けれど、こういうことが積み重なっていくのかもしれない。
正志はそんなことを考えながら、肉まんを一口食べた。
「うまい」
「本当ですか?」
「うん。買って帰ろうかと思っていたんだ」
「そうだったんですか」
春奈が嬉しそうに笑ったので、正志もつられて笑った。
二人で暮らしている。
正志は、初めて、いや、今更のように、そのことを実感した気がした。
「この資料、昨日のうちに確認できたでしょう」
「すみません」
「謝るより、次から気をつけて」
恵梨香は俯いた。
まただ、この人は自分に厳しいと思っていた。
少し離れたところでは、別の社員も同じように注意されていた。
だが、恵梨香は、それには気づかない。
その日。
「すみません。今いいですか、少し困っているみたいで」
声をかけてきたのは他の部署の男性だ。
「吉川さんが不在なので」
恵梨香の耳が、その名前に気づいた、祐一の名字だ。
「駄目なら、あなたに回せと部長に言われたんです」
男性社員は少し当惑している。
「今、手一杯、忙しくないですか」
仕方ないわねと女性は笑った。
「急ぎの仕事なんでしょう。出張も突然だったし」
男性は頷いた。
「向こうにデータを送るのを上は心配しているんです。セキュリティは大丈夫かと、こちらでできるなら」
「やるわ、わからなければ本人に聞くし」
男性社員は、ほっとした表情になった。
「メールや電話をするときは気をつけてください。時差がありますから。それと、データを送るのも極力控えてほしいと言われています」
男性の言葉に女性は言葉を飲み込んだ。
「まだ、ハッキリとはしないんですが。こちらから一人向こうにって話が出てるんです」
女性の表情が変わった。
「今、会社だけでなく色々なところでデータ、情報の流出が厳しいですから」
「それなら、私が行ったほうが早いかもしれないわね」
女性の言葉に男性は驚いた。
「吉川さんの仕事はある程度わかっているし、今の案件なら引き継ぎもしやすいでしょう」
「でも、向こうは海外ですよ」
「それくらいは分かってるわ」
女性は笑った。
「まだ決まっていないんでしょう?」
「はい。上が検討している段階です」
「だったら、私も候補に入れてもらえるように言ってみるわ」
恵梨香は、手元の書類に視線を落とした。
胸の奥がざわついた、この人が祐一さんのいる場所まで?
場所は海外だ、近くはない。
それなのに何の躊躇いもなく行くという言葉を口にした事に恵梨香は驚いた。
仕事だと分かっている、何もおかしくない。
それでも、嫌だった。
祐一のそばに、この女性が行く。
そう考えただけで、胸の奥が重くなる。
「あ、あの」
恵梨香は、思わず二人に声をかけた。
「出張って海外ですよね」
「ああ、吉川さんのサポートだけど」
男性は恵梨香を見た。
「話せるから誰でもいいってわけじゃない」
男性が恵梨香を見た。
その言葉に恵梨香は、すぐには返事ができなかった。
「君は入社したばかりで日も浅いだろう。他社で経験があっても、うちではまだ経験が浅いからね」
「……そうですね」
恵梨香は笑った。
けれど、胸の奥では別の感情が膨らんでいた。
自分だって仕事ができないわけじゃない。
前の会社では、それなりに評価されていた。
なのに、新人だからという、その一言で最初から候補にも入れてもらえない。
それがひどく悔しかった。
吉川祐一という男性の事が知りたいと恵梨香は思ってしまった。
どこに住んでいるのか、今ならネット、SNSで簡単にわかると思っていた。
だが、調べてもわからなかった。
やっていないのだろうかと思った。
「吉川さん、結婚しているんですよね」
誰かに聞けばいい、だが入社して新人同然の自分が聞いて、何故と思われないだろうか。
「ああ、この本、欲しかったけど絶版だって」
昼の食堂で女性社員が残念そうに呟いた。
「図書館で捜してみたらどう。以前、吉川さんが言ってたの。奥さんが図書館の司書をやってたから昔の絶版になった本とか図書館には運がよけれはあるって」
恵梨香は驚いた。
祐一さんの奥さんは図書館の司書していた。
どんな人だろう、名字は吉川だろうか。
いや、今は仕事で別姓ということもある。
そんなときだ。
「封筒、ないなあ」
もうすぐ定時という時だった。女性社員の言葉に、恵梨香は「どうしました?」と声をかけた。
「書類を送ろうと思って。定形外なの。吉川さん、あと少し遅く出張に出たら、自分で受け取ることができたのに」
「封筒ありますよ」
恵梨香の言葉に、女性社員が「本当?」と頷いた。
「よければ、出しておきましょうか」
「えっ、いいの?」
女性は驚いたようだ。
恵梨香は書類の入った袋を受け取った。
何気なく宛名を見る、そこには、祐一の住所が書かれていた。
偶然にも祐一の住所を知ることができた。
しかも、自分の自宅からそれほど遠くない。
恵梨香は、少しだけ嬉しくなった。
やっと自由になれた。
いや、長い旅行が終わったと思った、両親はいない、親戚との付き合いなんて殆どない。
自分は一人だ、新しいアパートを借りて再出発だ。
気持ちがさっぱりした。
煩わしいものから離れることができたのだ。
友人、夫、自分から搾取することしか頭にない。
そんな人間との関わり合いになりたくないと思った。
やっと自分は自由になれた、十年、いや、それ以上かかった。
自分の部屋で一人で過ごすのは安心できるし、ほっとした。
だが、数日が過ぎて、一人でいることにも……。
ふと大学時代のことを思い出した。
仲の良い友人がいなかったわけではない、広く浅い付き合いをしていた。
遊びに、仕事に、色々な事に夢中になっている人がいた中、ふと思い出したのは一人の男性だ、今、何をしているだろう。
学部も歳も違う、物静かな人だった。
恋人はいるのだろうか、気になった。
付き合っている女性がいてもおかしくはない。
長身で、見た目も……。
真面目で、自分の決めたことを淡々と続けている。
気になって周りの人間、先輩に尋ねてみた。
予想に反して、いないという返事に驚いた。
大学を出たらライターになりたい。そのために、今は必死だという。
「あいつ、休みの日は色々な所へ出掛けてるよ」
遊びに行っているのか、だが、そうではなかった。
「取材だって言ってた」
ライター、小説家ではない?
「フリーだと難しいからね」
「卒業までに地盤を固めておきたいんじゃない」
「あいつ、真面目なんだ。それに両親のこともあるから、忙しいんだよ」
「両親?」
「休みの日だけじゃない。時間があるときは家に帰って手伝っているみたいだ」
実家で何か商売でもしているのかと思った。
だが、体が弱いんだと誰かがぽつりと呟いた。
学食で友人たちが騒いでいる横を、正志が一人で通り過ぎたことがあった。
手には何冊もの本とノートを抱えていた。
誰かに呼ばれると足を止め、笑って話をする。
それからまた、一人で歩いていく。
遊んでいるわけではない、だが、付き合いが悪いわけでもない。
自分のやるべきことを淡々と続けていて。
そんなところが少し気になってしまった。




