2 私が狙う既婚者には、私以外にも女がいる
通知音がした、何気なく正志がスマホを確認すると息子の嫁からだ。
「晩ごはんの予定がなければ一緒にどうですか。白菜と豚肉の鍋にしようと思います」
鍋か、一人だと大変だなと思った正志は返信した。
「七時までには帰る。ごちそうになるよ」
返信した後、確認はしない。
ここ数日のやりとりで、コツのようなものがわかったからだ。
内容も簡潔だ、自分より若いから言葉遣いは砕けたものだと思っていた。
だが、そんなことはない。
結婚している、30近くになると、こんなものだろうかと正志は思った。
自分の仕事を息子からライターだと知っても詳しく尋ねてくることはない。
数日前、彼女がリビングのソファーで本を読んでいた。
自分がリビングに入っても気づかない。
邪魔をしては悪い、自分の部屋に戻ろうとした。
そう思って自分の部屋に戻ろうとしたとき、春奈がふと顔を上げた。
「お帰りなさい、正志さん」
一瞬、正志は緊張した。
名前で呼ばれることに、まだ慣れていない。
だが、すぐに祐一から言われた言葉を思い出した。
『春奈には、お義父さんと呼ぶなって注意している。外で会ったときとか、家の中と外で分けて呼んでいたら、まずいだろ』
そうだ、自分たちは普通の親子ではあるが、ライターという仕事のことを考えれば。
だから祐一も、外では「オヤジ」や「父さん」とは呼ばない。
正志は小さく頷いた。
「俺も気をつけているんだ」
「おまえは染み付いているからな」
春奈はそんな二人の決まりごとを、きちんと守っている。
それだけのことなのに、正志は妙に感心していた。
まだ一緒に暮らし始めて数日だ。
正志さん。
そう呼ばれることにも、そのうち慣れるのだろう。
そんなことを考えながら、正志はリビングを出た。
「すみません、ここ、少しいいですか。この方法でいいでしょうか」
恵梨香は手元の書類と画面に表示されたデータを見比べながら、近くにいた男性社員に声をかけた。
この部署に異動して、まだ日が浅い。
分からないことは聞くしかない。恵梨香はそう思っていた。
その時、ドアが開いた。
室内に、一人の男性が入ってくる。
「おっ、祐一、戻ってきたのか。ご苦労さん」
男性社員が声をかける。
「ああ、引き継ぎが終わった。悪いが、今日はこのまま帰るつもりだ」
「そうか。ああ、そうだ。最近入ってきた子だ」
紹介された祐一は、恵梨香をちらりと見た。
ただ、それだけだった。
挨拶をするわけでもない。
足を止めるわけでもない。
それなのに、恵梨香はその姿から目を離せなかった。
自分より年上なのは分かる。
以前の職場にも、見た目のいい男性はいた。年上の男性から声をかけられることも珍しくなかった。
だから、男性の容姿に驚いたわけではない。
なのに、なぜか気になった。
祐一は誰かと話しながら、そのまま部屋を出ていく。
恵梨香はしばらく、その背中を目で追っていた。
それが、祐一との最初の出会いだった。
それから数週間。
恵梨香は、仕事の合間に祐一へ話しかけるようになった。
仕事のことで質問をする、答えてもらえば笑顔を返す。
時には、仕事とは関係のない話を振ることもあった。
祐一は嫌な顔をするわけではない、聞かれれば答える。
だが、それ以上はない。
恵梨香が期待していたような反応は、一度も返ってこなかった。
それでも恵梨香は、さほど気にしていなかった。
自分は若い、容姿にも自信がある。
これまでだって、男性から好意を向けられることは多かった。
だから、少し時間をかければいいと思っていた。
祐一が既婚者だと知った時も、特に気にはならなかった。
別れてほしいわけではない。
妻から夫を奪いたいわけでもない。
ただ、自分が気になる男性と付き合えれば、それでいい。
今どき、既婚者と付き合うことが、それほど珍しいことだとも思っていなかった。
ある日、恵梨香は祐一に声をかけた。
仕事の話を終えたあと、少しだけ笑ってみせる。
これまでなら、男性はそれだけで何かしらの反応を返してきた。
だから、この時も同じだと思っていた。
けれど、祐一は恵梨香をちらりと見ただけ。
その視線に、拒絶するような強さがあったわけではない。
ただ、興味がない、そんな目だ。
恵梨香は、一瞬、言葉を失った。
自分が美人だと思っていたからこそ、驚きよりもショックのほうが大きかった。
正直、諦める気にはならなかった。
むしろ、これまで自分に簡単になびかなかった男だからこそ、気になった。
そんなある日。
「恵梨香さん、ちょっといいか」
上司から呼ばれた。
何だろうと思いながら、恵梨香は上司の前に立った。
「来週から、別の部署に移ってもらうことになった」
「……異動ですか?」
恵梨香は思わず聞き返した。
まだ、この部署に来てそれほど経っていない。
大きなミスをした覚えもない。
「できると思ったからだよ。今度の部署は上司が女性だ。色々と教えてもらうといい。スキルアップにもつながる」
「……そうですか」
恵梨香は笑顔を作った。
けれど、内心では歯がゆさを感じていた。
この部署から離れたくない。
だが、仕事が理由ではない、祐一がいるからだ。
自分より年上で、仕事もできる、見た目もいい。
もう少しで、振り向かせられると思っていたのだ、それなのに。
異動、恵梨香は納得できなかった。
祐一と離れたくないという、気持ちが、思っていた以上に大きくなっていることに、この時初めて気づいた。
友人の会話を思い出すと、正志の気持ちはわずかに沈んだ。
息子が、祐一が浮気をしているかもしれない。
そんなことはないと、はっきりと否定できない自分がいた。
だが、見間違いだと言い切れないのは、友人の表情を思い出したからだ。
多分、いや、もしかしたら本当に浮気しているのかもしれない。
祐一は、実際の年齢よりも大人びて見え、小学生なのに中学生や高校生と間違われることもあった。
だが、女性との付き合いには慎重だった。
「口の軽い女は嫌だ」
「迷惑はかけられない」
「仕事、バレたらどうする」
父親である自分を心配してのことだ。
だから、結婚すると言って春奈を紹介されたときは驚いた。
春奈は図書館の司書をしていたらしい。
結婚して辞めると聞いたときは、何故と思った。
だが、勤めていた図書館は自宅から距離がある。
電車で一時間以上かかり、乗り換えも必要だと聞いて納得した。
本が好きなのだろう。そう思っていた。
だから、本屋でアルバイトをすると祐一から聞いたとき、ほっとした。
専業主婦になることが悪いとは思わない。
ただ、自宅を訪ねたとき、ジャンルを問わず、いろいろな本が山積みになっていたことを思い出した。
部署が異動になった恵梨香は内心不機嫌だった。
だが、それを顔には出さなかった。
部署をまとめていたのは女性だが、自分を見る視線が気になる。
だが、その理由がわかった。
後日、祐一と親しそうに話していたからだ。
「疲れてるんじゃない」
「そう見えるか」
「見ればわかるわ。顔色よくない」
恵梨香は、二人の会話から目を逸らした。
自分には関係ないと思った。
祐一が既婚者だということは、最初から知っている。
それでも気になった。
ただの同僚には見えないと思った。
そう思った瞬間、女が祐一の腕に触れた、一瞬だ。
それでも、恵梨香にははっきり見えた。
胸の奥が、ざわついた、自分でも驚くほど、不快だった。
どうして?祐一は自分の恋人ではない、妻がいる。
それなのに、他の女が親しそうにしているのを見ると、腹が立った。
恵梨香は唇を噛んだ、そして、ふと思った。
もし、あの女が祐一の浮気相手なら。
自分は、何なのだろう。




