1 同居の理由と夫の浮気
「同居?説明してくれる」
妻の春奈が驚くというより不思議そうな表情になった。
無理もない、だが、裕一は出張が決まりそうなんだと続けた。
「一週間とか、短期じゃない、海外なんだ」
「海外?」
驚いたのだろう、すぐには返事が来ない。
「俺も驚いた、本当は他の奴が行く筈だったが、病気が見つかった」
「病気?」
「手術するらしい、復帰するのも時間がかかるみたいだ。それで俺に話が回ってきたんだ」
春奈の表情が変わった、簡単な病気ではない、そう思ったのかもしれない。
「もしかして、大変な病気?」
「退職も考えているみたいだ。上に相談しているらしい」
春奈は頷いた、療養に専念するという意味だろう。
「俺より年上だが、一人暮らしだ。生活の不摂生とか関係しているんじゃないかと思うんだ」
あり得ると春奈は思った。
「それで、この際だから、あたしがお義父さんと暮らすってこと」
「嫌か」
春奈は首を振った、普段から頻繁に会うこともない。
好きとか嫌いとかいう感情を覚えるほどでもない。
「オヤジは一人暮らしで一軒家に住んでいる。将来のことを考えて、今のうちに一緒に暮らすことを考えるのも良いんじゃないかと思うんだ」
「そうね。病気や怪我って、年齢に関係ないから」
妻の言葉に、祐一は、ほっとしたように頷いた。
「海外で生活するってことは昔程、簡単じゃない。物価の高騰もだが、他所の土地で生活する、暮らすことを日本人は簡単に考えすぎている」
祐一の言葉に春奈は頷いた。
「最近、移住した芸能人が戻ってきたって話とか聞くものね」
「言葉だけじゃない、生活習慣の違いもある、オヤジに話をしても構わないか。正直、時間もあまりない」
春奈は、夫の顔を見た。
「出張は、いつなの」
「月末だ。多分、しばらくは仕事も遅くなると思う」
分かったと春奈は頷いた。
「お義父さんが良いなら、荷物を運ぶ為の準備、運送会社の手配とかした方が良くない」
祐一は頷いた。
「前向きに考えてくれるなら、俺が向こうへ行く前に、ここを引き払いたいんだ。だいぶ前だが、給湯器を修理しただろう。今度、故障したら買い替えたほうが良いって言われたじゃないか」
「あっ、そうよね」
「それに、今のバイト、楽しいって言ってたじゃないか」
祐一の言葉に春奈は頷いた。
これで、大丈夫だと祐一は思った。
優しい夫の仮面を被って、愛人と楽しい新生活が続けられる。
だが、その前に、やらなければいけないことがある。
女はスマホの着信音で目が覚めた。
祐一、名前を呼ぼうとして男の表情に気づいた。
何かあったのかと思ったのだ。
男は頷きながら女に静かにしてくれと目線で合図をした。
「わかった、すぐに行く。お前はタブレットを持って、説明できるように、俺は寄るところがある」
スマホの通話は長くはない。
「何かあったの?」
女が尋ねた。
「この間、契約した会社との取引でね。この近くで菓子、ちょっといいもの、売ってる店を知らないか」
「お菓子?」
女が不思議そうな表情だ。意味がわからなかったのだろう。
「謝罪だ。説明と頭を下げるだけで終わりとは俺は思わない」
「あなたの仕事じゃないの?」
女は驚いたようだ。
「上司ができる人間だから、任せてみてくれってな。若い女だ」
その言葉に女の顔が一瞬、歪んだ。
「もしかして、最近、入ってきた子?」
部署が違う、詳しくは知らないと祐一は呟いた。
「どこかいい店、知らないか。男もだが、向こうの役職には高齢の女性がいる。高級な贈答用の菓子がいいと思っている。場合によっては土下座もするつもりだ」
「大袈裟よ」
「大事なプロジェクトだ。任せてみてと言われた時、頼りになる人間をつけてくれと言ったんだ。それを若い奴と組ませて」
苛立ちを隠せない声、女は驚くと同時に、ほっとした。
若い女、もしかして自分より?
よかった、祐一は自分のものだ。
息子の祐一から同居の話が出たとき、正志は驚いた。
大事な話があるから家に行ってもいいかメールが来たときは、不安を感じたのだ。
もしかして病気、大変な事があったのではないかと、顔を見るまで不安だった。
「同居したい。春奈を、ここに住まわせたい」
「どういうことだ」
「海外に行くことになった。出張とかの短期じゃない」
どれくらいだ、だが、返ってきたのは決まっていないという言葉だ。
「短期なら大丈夫かもしれないが。今は自宅にいても物騒な事件が当たり前に起こるだろう。オヤジがずっと家にいるわけじゃないと分かっている。だが」
息子の言葉に正志は頷いた。
「俺みたいな年寄りでも、男手がある方が安心できるか」
「それだけじゃない」
祐一は真面目な顔になった。
「今はインフルが流行ってる、風邪をひくことだってあるかもしれないだろ。食事や洗濯だって春奈はやってくれる」
「そういうのは」
「実は今のアパート、いずれは出ていこうと思っていたんだ。給湯器は今度、修理するときは、買い替えた方がいいって言われてる」
そうかと正志はうなずいた。
「だが、春奈さんはどうなんだ、舅と同居なんて普通は嫌なんじゃないか」
それはないと祐一は首を振った。
「普通の舅なら、そうかもしれない。取材で家を空けることもあるだろう」
「知ってるのか、仕事のこと」
「ライターだって言ったら、大変よねと言われた。小説家とは違うと思っているみたいだが、まずかったか」
いいやと正志は首を振った。
「俺があまり詳しく説明しないから。聞いたらまずいと思っているのかもしれない」
正志は思い出した。
何度も会っているわけではない、だが気遣いのできる女性だと思っていた。
会うときは一人暮らしだから大変だろうと、作り置きの惣菜、佃煮のセットをもらったこともある。
「彼女は働いているのか」
「本屋でバイトをしている、でも、正社員じゃない。もし、家賃が足りないようなら」
正志は首を振った。
「家賃はまだ先でいい。電気、光熱費、まずは一ヵ月、暮らしてみてからだ。それより、できたら掃除とか、洗濯、食事の支度を頼めないか」
自分でも簡単な家事はできる、だが、仕事が忙しくなる、集中すると。
ああ、祐一は頷いた。
父親の性格をわかっているのだろう。
「構わないよ。料理が好きなんだ。オヤジに以前差し入れた惣菜だけじゃない」
そう言って、祐一は持ってきた袋を手渡した。
「水ようかんときんつばだ、春奈が作ったんだ」
正志は驚いた。
「今回は時間がなかったから、あんこは市販のものを使ったと言ってたな」
袋から取り出したタッパーの中を見た正志は驚いた。
「オヤジが甘いもの、和菓子が好きだと言ったら、ライターって大変じゃないって言われたよ」
正志から手渡された袋の中身を見た友人は、中身はと尋ねた。
スーパーの袋にはタッパーが入っている。
「水ようかんときんつばだ」
「へっっ、まさか作ったのか」
「言っておくが俺じゃない」
「当たり前だ。お前の得意メニューって野菜炒め、焼きそばとかだろ。菓子、和菓子なんて作れるのか」
「春奈さんが作ってくれた」
「確か、息子の嫁さんだったよな」
同居することになったんだと正志は友人の顔を見ながら、食べてみろとすすめた。
きんつばを一口、食べた友人は驚いた顔だ。
「あんこも手作りか」
「おっ、わかるか」
「いいなあ、もしかして、料理も得意とか」
正志は頷いた。
「料理も甘いものも作ってくれるなんて最高だな。いい嫁をもらったんな」
「息子の嫁だよ」
「わかってるよ。うまくいきそうか」
正志は友人を見た。
「世間で言う普通の嫁と舅のような、いざこざとか、今のところはないな」
正志の言葉に友人は、ほっとしたようだ。
「お前の仕事をよく知っているのか」
そこで正志は言葉を切った。
「息子はライターだと説明したみたいだ」
「そしたら、大変だねって言ったらしい」
「それだけか」
正志は頷いた。
「色々聞かれたりはしなかった。何を書いているのかとか、どこで仕事をしているのかとかもな」
「へえ」
友人は少し意外そうな顔をした。
有名、無名に関係なく、ライターという仕事をしていると聞けば、興味を持つ人もいる。
まして、義父の仕事となれば、息子の妻なら多少は気になってもおかしくない。
だが、春奈はそれ以上、何も聞かなかったらしい。
「それならいいじゃないか」
友人の声から、先ほどまで残っていた心配が少し消えていた。
「お互いに余計なところへ踏み込まないなら、案外うまくいくかもしれないな」
「俺もそう思ってる」
正志はそう言って、袋の中を覗いた。
「水ようかんも食べるか?」
「もらう」
友人は笑った。
「しかし、お前が人の作った菓子を嬉しそうに持ってくるとはな」
「うるさい」
「いや、悪い意味じゃない。昔のお前なら、原稿が忙しいからって飯もろくに食わなかっただろ」
「それは昔の話だ」
「だから今のほうが安心してるんだよ」
友人はそう言って、水ようかんのタッパーを受け取った。
正志は何も言わなかったが、その顔には穏やかな笑みが浮かんでいた。
引っ越しは簡単ではないだろうと思っていた。
荷物は、それほど多くはないと言われたが、午後にトラックが到着し、運び込まれた荷物の少なさに正志は驚いた。
タンス、クローゼットなどの家具は、ネットで引き取ってもらうことにしたらしい。
告知を出せば欲しい人間が引き取りにきてくれるのだ。
古くて傷があっても、無料で譲ると言えば引き取り手は見つかるらしい。
ただ、冷蔵庫と調理器具は別だ、圧力鍋、フードプロセッサーもある。
何か欲しいものはないのかと聞くと、机が欲しいという意外な答えがかえってきて驚いた。
台所のテーブルではない、落ち着いて日記や手帳、書き物をするときの机が欲しいのだという。
その言葉に正志は納得した。
「大きくなくていいんです。ただ、木の机が良いなあと思って」
春奈の言葉に正志は少し考えていたが、おいでと声をかけた。
自分が以前、使っていた木製の机を思い出したのだ。
「以前使っていたものなんだ。資料とか広げると狭くても、だが、ものは良いから捨てるのはもったいなくて」
「これアンティークじゃないですか」
「古いが、いいものだって言われてね。思わず買ったんだ」
机を見ながら春奈は嬉しそうだ、こんなに喜ぶとは思わなかった。
正志の方が驚いてしまった。
その夜、食卓には手作りの水餃子が出てきて正志は驚いた。
偶然、見てしまったものの、勘違いだと思いたかった。
だが、そうは思えない、友人に話すべきかと迷った。
決心したのは二度目のときだ。
友人の息子が女性と一緒に歩いていた、仲良さそうに。
妻ならいい、だが明らかに違う。
気になって先日、会った時、息子の嫁が作ったという水ようかん、きんつばを食べさせてもらった。
料理が好きで菓子もよく作るらしい。
だが、一緒にいた女性の姿を思いだす、違うと思った。
自分の勘だ、違うかもしれない。
そんなタイプには見えないと思った、だから思いきって聞いたのだ。
「正志、息子の奥さんは、どんなタイプだ」
「どうした」
言葉が途中で途切れた、表情が、わずかだが変わった。
「何かあったのか」
正志は勘がいい、誤魔化そうとしても駄目だと思った。
「ここだけの話だ。もしかしたら」
勘違いかもしれない。
自分の息子を見た、街中で女性と親しそうにしていた。
話を聞いた時、正志はまさかと思った。
春奈さんのことかと思った。が、友人の表情を見て思った。
違うかもしれない、時間は?場所は。
詳しく聞く、その時間なら、彼女は本屋でバイトをしている筈だ。
息子と女性は親しそうに見えたという。
腕を組んでいた、歩いている様子も……。
話を聞きながら、正志は自分の表情が、いや、腹の中が冷えるのがわかった。
出張に行くときの息子の顔を思い出す。
「春奈のことを頼む」
結婚してから、その前も息子と頻繁に会う事はなかった。
仕事が忙しかったこともある。
いや、息子と父親なんて、頻繁に会うこともない、こんなものだろうと思っていた。
何故か、昔のことを思い出した。




