第1話 アソウさんプロローグ
それは嵐の前の静けさであった。
「るんるんるんるんるん~~~るるるる~♪」
安アパートの六畳一間、コンビニで耳にした音楽を鼻歌まじりに口ずさみながら、ひとりの男が着替えをしていた。
彼の名は麻生洋明、一人暮らししている十七歳の高校二年生。心身共に健康で、特筆すべき特徴もない、極めて平均的な地球人である。
部屋の壁際には小さなデスクと椅子、中央には簡素なカーペットが敷かれ、その上にはローテーブル。隅には小さな観葉植物が置かれており、朝一番に霧吹きで水を与えるのが洋明の日課だ。
着替えながらランドリーバスケットを覗き、中身が空なのを確認する。今日、洗濯機の必要はなさそうだ。洗剤が切れかけているので、洋明は次の買い物リストに加えた。
さて、賢明なる読者諸君なら、もうお気づきだろう。
この高校二年生とは思えない麻生洋明の自己管理能力を。しかも、この歳にして近所付き合いも大変素晴らしく、高校も授業十分前には教室内に着席し、もちろん一度だって遅刻はなく、成績も常に高水準を維持している。
完璧とはまさにこのこと。もし『未成年一人暮らしコンテスト』なるものが存在すれば、洋明は息を吸うように優勝するだろう。
そして、インタビュアーがいたなら、こう尋ねるに違いない。「何故、麻生洋明はここまで完璧なのか?」と。
答えは、実に単純明快だ。
『彼女』がいるからである。
もう一度言おう。
麻生洋明には筆舌に尽くしがたい、己の全てを捧げたいと思える彼女がいるのだ。
「みんな~。今日も餌の時間だよぉー」
眩しい朝日に目を細めながら、洋明はパンくずを手にベランダへ出る。
すると、待ってましたとばかりに鳥達が飛来し、彼の手のひらに舞い降りてきた。
スズメ、ハト、カラス、インコ、フクロウ、トンビ。活動時間も食性も異なるはずの鳥たちが、なぜか一堂に会し、譲り合いながらパンくずをついばむ。
時代が違えばプテラノドンすら来るこの光景――もうお気づきだろう。
そう、ここにやってくる鳥達は洋明の幸福感にあてられ、地球生物皆友達という本能を植えつけられているのである。
「うっふっふっふ~、お前らはいつ見てもかわいいなぁ」
パンくずをついばむ鳥達は見ていてかわいい。思わず洋明から笑顔がこぼれる。
その笑顔はまさにお釈迦様で、背中から後光が射しているかのような神々しさだ。名のある人物が見れば、洋明を神そのものと崇め奉ることだろう。
「あら、また餌あげてるの麻生君」
「ええ、コイツらが私を待ってるものですから」
「今日もまた鳥達が増えたんじゃない? ウフフフ」
玄関前を掃きながら艶やかな笑顔で洋明と話す女性、吉野和子は向かいの一軒家に住む、洋明の保護者を頼まれている&アパートの管理人であり未亡人である。洋明が子供の頃から付き合いのある女性で、和子から夕食に招かれるほどの親しい間柄だ。
「あ、麻生さん……おはようございます……」
背後から春に芽吹いた花のような声がして振り返ると、クラスメイトである佐中幸恵が立っていた。
「お? 幸恵ちゃん何処か遊びに行くの? 気をつけてね」
「う、うん……ありがとう麻生君……」
モジモジしながら幸恵は通り過ぎて行く。幸恵はいつもそんな感じなので、洋明はいつも首を傾げている。
ああ、なんたることか。洋明は平成時代に全盛を極めた鈍感主人公属性を持っているのだ。
哀れなり佐中幸恵。以前、水溜りに足を滑らせて倒れそうになったところを洋明に助けられ、それがきっかけで親しくなったのだが、仲は一向に進展していない。つーか、彼女がいるのだからするはずがない。
幸恵がその事実に気づくのはいつなのか。それは神のみぞ知ることであろう。
「いってきまぁぁぁぁぁぁすー」
外出の支度を終え、誰もいない部屋に浮かれた声が響き渡る。洋明はスキップしながら待ち合わせ場所へ向かった。
今日は彼女とデート、東京フジキューハイランパークに行く日である。彼女とは何度も訪れている定番のデートコースだ。
彼女がフジキューハイランパークを歩く姿を想像するだけで、洋明の脳内は幸福の文字で埋め尽くされる。元々埋め尽くされているが、二郎レベルでさらに盛られていった。
「急がないと~♪ 急げオレ~♪ 急げよオレ~♪ オウオウオウ~♪」
作詞作曲タイトルボーカル麻生洋明をニヤケ顔で歌うその姿は、音程もリズムも迷子で見苦しいが、注意する者は誰もいない。というか、誰も近づいてこなかった。
歌いながら横断歩道を渡ると駅が見えてくる。
そして、その入り口には洋明の彼女は立っていた。
「ここですよー、洋明さ~ん」
ヘタクソな歌に反応した彼女が手を振る。
「うひいいいいい~」
強い日差しに目を細めながら、今日初めて見る彼女の可愛さにやられ、旋律のイカれたバイオリンのような声を上げつつ、洋明も彼女に手を振り返す。
「な、なんて素敵な手なんだ……!」
黄金比すら超える美しさを持つ彼女の華奢な手を見ると、鼻の下が伸びてマントルを貫きそうになる。が、洋明はグッと堪えた。情けない姿を彼女に見せるワケにはいかない。
「神よ! こんなに幸せでよいのですか!」
クリスチャンでもなんでもない洋明は、涙を流しながら胸元で十字に切った。
ここだけの話だが、洋明は彼女に深く感謝している。何故なら、彼女は洋明を救った存在だからだ。
今でこそごらんの通りであるが、かつての洋明は『充実の欠如』という問題に直面していた。好きになれるもの、自分を満たしてくれるモノが何もなく、それは一人暮らしを始めた洋明を孤独に沈めていったのだ。
日々が過ぎるにつれ、洋明の精神は摩耗していった。言葉を発さない日々が続き、全く動かずに終わる日もあった。
「はぁぁぁぁ~いつ見ても素敵だ~本当に素敵だなぁぁぁ~」
だが、それは過去の話だ。太古の記憶である。
今の洋明は彼女を見るだけで、背骨がこんにゃく化するほどの変貌を遂げている。以前の洋明を知る者なら「本当にそんな過去があったのか?」と首を傾げるだろう。そこにはミドリムシとアウストラロピテクスほどの違いがある。
もし彼女と出会えなかったら、洋明はどうなっていただろうか。
きっと、その世界線の麻生洋明は目に入る鳥を全て丸焼きにし、吉野和子を見ては夜な夜な男を連れ込むエロビッチ管理人と決めつけ断罪し、佐中幸恵が水溜りに倒れそうになると、そのあざとさがムカつくと蹴り倒していたに違いない。
彼女と出会って本当によかった。運命とはここまで人を変えるのだ。
洋明は運命に感謝せねばならない。今の洋明が穏やかで平穏で幸福で心が満たされているのは、すべて彼女のおかげなのだから。
「ぁぁぁぁぁぁぁぁ~」
と、そんな説明している間も、洋明の背骨コンニャクタイムは絶賛継続中である。まだ今日の彼女の姿に慣れていないため、なかなかコンニャクから脱することができないのだ。
三十メートル先にいる彼女の姿を、そりゃもう目に焼き付ける。
艶のある黒髪が風に靡く様は大草原に立つ女神のようで、新調したと思われるフリルブラウスは彼女の雰囲気を一層優雅に見せている。宝石をくり抜いたような瞳、クレオパトラもびっくりな整った顔立ち、男性も女性も魅了する黄金比を超越したスタイルは、全身から生命の頂点とでもいうべきオーラに溢れていた。
つまり、一言でいうならヤバくてヤバすぎて一言で言えるワケない。
「ふふふ、そんなに急がなくても私は逃げませんよ~」
ニッコリと笑う顔があまりに眩しすぎる。洋明は太陽とどちらが眩しいのか検証すべく日光をガン見するが、彼女のほうが眩しいと判断した。
全力疾走しているのに彼女へ近づく一歩一歩がもどかしい。だが、たとえ光の速さで走ったとしても同じだろう。どんなに素早く動けようとも会えない時間は生まれてしまうのだから。
彼女との距離が二十メートルを切り、ふにゃけた背筋がピシッと伸び始めた時、だった。
洋明は彼女の後ろ――そのとんでもなく意味不明で衝撃的光景を見て思わず声を漏らす。
「なッ!?」
何の前触れもなく、彼女の背後から巨大な馬車が亡霊のように、しかしはっきりと現れたのだ。
意味がわからない。ああ、全くもって意味不明だ。
でも、これは現実である。
「ブルヒヒヒヒヒン!」
巨馬がわななきながら前足を高く振り上げる。ダンプカーにも引けを取らない巨大な二頭の馬が鋼鉄の檻を引いており、それを真っ黒な鉄仮面をかぶった御者が走らせていた。
御者は太くもなく細くもない体型のせいで性別は判別できないが、鉄仮面と同じく黒づくめの衣服とマントに身を包んだその姿は、巨馬と同じくらい強烈な存在感を放っていた。
移動式の牢獄にも見える馬車が、車や電柱等の障害物を次々と破壊しながら突き進む。蹄の音は荒々しく、馬達は暴れ狂うように走り続けて止まらない。
そんな意味不明の暴虐が彼女の背後から迫っていた。距離が近い。逃げようにも馬車は速すぎるし、あまりに大きすぎる。彼女は馬車に気づいてはいるものの、どうすることもできず、ただ立ち尽くしていた。
このままでは数秒後に彼女の命は――
「やめろおおおおおっ!」
身を裂かれたに等しい洋明の声が轟くも意味はない。
御者は彼女を視界に入れながらも、さらに鞭を振るい馬を加速させた。
「うおおおおおおっ!」
逃げ惑う人々をかき分けながら、洋明は彼女の元へ走る。
間に合わないとわかっている。
助けられないとわかっている。
彼女の元についたところで、二人とも馬車に轢かれるだけだ。
それでも、洋明はジッとしていられなかった。己の彼女なのだ。彼女に迫る危機を前にして、冷静でいられるはずがない。
その結果、ああなんたることか。
無情にも彼女は馬車に撥ねられた。
「うああああああああッッッッ!」
洋明の慟哭が響く。轢かれた彼女は、蹴り飛ばされたサッカーボールのような軌道を描きながら、天高く舞い上がる。
死亡確定。彼女の命はここに散った。
やがて彼女は落下する。その身体を受け止めるため、洋明の足は止まらない。
馬車は目前に迫っている。このままでは自分も跳ねられるとわかっていたが、洋明は構わなかった。洋明は自身の命より彼女を受け止めることを優先した。
それと同時、鉄仮面への憎悪が洋明の胸に燃え上がる。
絶対に許さん、と。
お前は彼女を轢いたのだ、と。
この身が砕けようと、どんな畜生に生まれ変わろうと、この魂は必ずお前に報復する、と。
必ず鉄仮面に――
「死よりも深い闇をくれてやる!」
彼女を受け止めた瞬間、洋明の命は尽きた。




