裏社会のボス猫と「交渉」するにゃ!
お腹が満たされ、体温が戻ったキラは、驚くべき速度で体力を回復させていた。
『掛け算の栄養学』は嘘をつかない。ガリガリだった四肢にわずかながらに肉が付き、泥を払った白い毛並みには、精霊猫の片鱗たる美しい艶が戻り始めていた。
(よし、動ける。これなら次のステップへ進めるな)
キラは生ゴミの木箱からトコトコと這い出し、小さな肉球で地面を踏み締めた。
次に彼が目をつけたのは、この街に蔓延る「害獣」――魔獣ネズミの捕獲ビジネスだった。前世の知識(ネズミの習性や駆除方法)を使えば、子猫の体でも簡単に狩りができ、人間からより上質な報酬(飯)を引き出せるはずだと踏んだのだ。
だが、異世界は甘くなかった。
キィィィィィッ!!
「みゃっ、!?」
薄暗い倉庫の影から飛び出してきたのは、キラの現在の体躯よりも遥かに巨大な、赤く光る目を持った魔獣ネズミだった。
鋭い牙が空気を切り裂く。前世の感覚で「いなそう」としたキラだったが、子猫の短い足の可動域では物理的に間に合わない。容赦ない一撃がキラの脇腹をかすめ、彼は無様に床を転がった。
(クソ、身体能力の計算がズレた……! 猫のくせにネズミも狩れねえのかよ……!)
命からがら倉庫を脱出し、再び冷たい路地裏の隅へ逃げ込んだキラは、激しくくじけていた。自分の「無力さ」をこれでもかと突きつけられたのだ。
さらに、不運は重なる。
「おい、新顔。そこは俺のシマ(縄張り)だと言ったはずだぞ」
低い、地を走るような鳴き声が響いた。
見上げると、あの冷たい雨の日に自分を突き飛ばし、動けないキラを嘲笑った、耳の欠けた巨大な野良猫――このエリアの裏社会のボス猫が、鋭い爪を剥き出しにして立ち塞がっていた。周囲には、主人公の失脚を狙うかのように数羽のカラスが不気味に旋回している。
絶体絶命。正面から戦えば、今の小さな体など一撃で肉塊にされる。
(……いや、落ち着け。武道にせよ、交渉にせよ、戦いは『正面衝突』だけではない)
キラの瞳の奥で、冷徹な知性が光る。
彼は、昼間に入念に観察していた「ある場所」の記憶を呼び起こした。それは、市場の人間たちが仕掛けた、強力な鉄製の「野良猫・ネズミ用の捕獲罠」の位置だ。
「みゃーお(こっちだ、鈍間)」
あえてボス猫を挑発するように小さく鳴くと、キラは短い足をフル回転させて走り出した。
背後から地響きのような足音が迫る。ミリ単位の距離感を、前世の格闘理論で測りながら、キラは計算通りに「罠の設置場所」へとボス猫を誘導していく。
(ここだ……! 作用点は、あの踏み板!)
キラは小さな体を極限まで縮め、罠のわずかな隙間を綺麗にすり抜けた。
しかし、頭に血が上り、巨体であるボス猫にはそれができない。
ガチャン!!!
激しい金属音とともに、鉄格子の扉が勢いよく閉まり、ボス猫は狭い檻の中に完全にとじ込められた。
「フシャァァァァッ! 離せ! 卑怯な真似をッ!」
檻の中で狂ったように暴れるボス猫。
キラはふぅ、と小さく息を吐き、乱れた白い毛並みを優しく毛繕い(グルーミング)しながら、檻の前にトコトコと歩み寄った。
「(静かにしろ、暴れても無駄だ。それより、交渉をしようじゃないか)」
キラは、昼間に人間から賢くおねだりして手に入れておいた、上質な干し肉の切れ端を檻の隙間からそっと差し入れた。半分に割って、まずは自分で食べて毒がないことを証明する。
「……美味そうだな、おい」
「(これを半分お前にやる。人間どもの罠の外し方も教えてやる。その代わり、俺にお前のネットワークを貸せ。街の情報を集めるんだ)」
檻の中で、ボス猫の喉がゴクリと鳴った。
力でねじ伏せるのではなく、環境を利用してハメ、最後に「利益」を提示して握手する。これこそが、大人の社会を生き抜いてきたキラの生存戦術だった。
干し肉の圧倒的な美味さと、キラの底知れない知性に気圧されたボス猫は、ついに観念したように耳をペタリと寝かせた。
「……わかった。お前、ただの子猫じゃねえな。俺の負けだ、アニキ」
カラスたちが驚いたように羽ばたき、飛び去っていく。
力なき最弱の子猫が、知恵と交渉だけで、街の裏社会のボスを「最初の相棒」へと変え、独自の【猫耳ネットワーク】を構築し始めた瞬間だった。




