胃袋の観察眼と『掛け算の栄養学』だにゃ!
冷たい雨の中、魂の熱量だけでなんとか意識を繋ぎ止めたキラは、壁に小さな体を預けて周囲を「観察」し始めていた。
相変わらず脳は重い。前世の難しい物理の数式や複雑な記憶を引き出そうとすると、頭の芯が割れるように痛む。だが、「生きるための生活の知恵」の引き出しだけは、フリーズを起こさずにスッと開いた。1円でも安い食材を求めて街を駆けずり回った、あの父親としての経験が、子猫の生存本能と直結していた。
(死にたくなければ、まずは燃料だ……。猫の体になっても、基礎代謝は発生する。この雨の中、体温が下がれば数時間で餓死するぞ)
キラは震える体を奮い立たせ、泥まみれの路地裏から這い出た。
向かったのは、微かに匂う生ゴミの悪臭と、それを上回る活気に満ちた匂いが漂う場所――市場の裏手だ。
人間たちの行動パターンをじっと盗み見る。
大柄な体躯に白いエプロンを巻いた、いかにも頑固そうな料理人が、店の裏口から生ゴミの詰まった木箱をドサリと放り出した。
(見つけた……。あれが俺の『狩場』だ)
キラは物陰から料理人の動きをじっと観察する。
前世で培った「人の行動を見極める目」が、子猫の鋭い五感と噛み合う。料理人の足取り、捨てる雑さ、配置、速度、そして一瞥もくれずに扉を閉めるタイミング。
(あの料理人は、売れ残りを捨てる時、決して後ろを振り返らない。今だ)
トコトコと、まだおぼつかない足取りで木箱へ近づく。
中を漁ると、出てきたのは魚の端切れだった。骨の周りにわずかに残った、パサパサの赤身。普通の野良猫ならこれだけで飛びつくかもしれないが、キラは違った。前世の「栄養学」の引き出しが、子猫の脳内でピカリと光る。
(これだけじゃダメだ。今の俺の胃腸は冷え切って、消化吸収能力が著しく落ちている。タンパク質だけを詰め込めば、消化不良で下痢を起こして確実に脱水症状で死ぬ)
キラは冷徹に、木箱の中の「別のクズ」を探した。
見つけたのは、調理の過程で切り落とされた、魔獣の肉の「脂身のクズ」、そしてほんの少しだけ残った香味野菜の外葉だ。
(脂溶性ビタミンと、良質な脂質。これらをタンパク質と同時に摂取することで、小腸での栄養吸収率は単体摂取の数倍に跳ね上がる。すなわち、a × b の乗算(掛け算)の栄養学だ)
キラは小さな口で、魚の端切れ、脂身、外葉を器用にひとまとめにし、口の中で同時に噛み砕いた。
じゅわり、と泥水ではない「本物の栄養」が舌の上に広がる。
ただの生ゴミのクズのはずだった。しかし、前世のやりくり知識で最適化されたその組み合わせは、子猫の未発達な味覚の中で驚くほどの「旨味の共鳴」を引き起こす。
(美味い……! 胃が、動いてる……!)
お腹の奥がじわじわと熱くなっていく。
脂質が即座に熱量へと変わり、冷え切っていた体温を内側から押し上げていく。ハーブに含まれる微量元素が、バグだらけだった子猫の神経系をなだめ、脳のフリーズを静かに解除していく。
魚のクズを綺麗に平らげたキラは、路地裏の乾いた木箱の隙間へと滑り込んだ。
まだガリガリで、泥と血にまみれた体だ。
だが、そのお腹はしっかりと満たされ、生きるための「最初の燃料」は完全に補給された。
(下痢の兆候はなし。吸収効率は完璧だ……)
暗闇の中、キラの小さな白い尻尾が、ほんの少しだけ嬉しそうにピコピコと揺れた。
ガリガリだった彼の毛並みに、ほんの、本当にほんの少しだけ、健康的な艶が戻ろうとしていた。




