バグる脳、凍える肉球にゃ!
冷たい。痛い。
五感が最初に拾い上げたのは、世界の理不尽そのもののような、容赦のない氷雨の感覚だった。
アスファルトの無機質な匂いと、腐った生ゴミの悪臭が鼻腔を強烈に突き刺す。
(……ここは、どこだ?)
かつて人間社会の底辺で、泥をすするようにして必死に生きていた。そして、最愛の娘に先立たれたあの苦しい記憶。
自分の名前は、キラだ。
朦朧とする意識の中でそれだけを思い出し、男は必死に目を開けようとした。
だが、まぶたが重い。それどころか、自分の身体の感覚が根底から狂っている。
視界を確保しようと頭を動かした瞬間、脳内でバチバチと激しい火花が散るような、強烈な頭痛が襲いかかった。
【システム警告:個体脳スペック不足。前世記憶データの展開に失敗。処理回路のフリーズを検知】
「う、あ……ッ!?」
声を出そうとした。しかし、口から漏れ出たのは、掠れた情けない高音だった。
「みぃ……、ゃ……」
視界がブレる。パニックになりながら、キラは自分の「手」を目の前に突き出した。
そこに視界に映り込んだのは、泥と赤黒い血にまみれた、小さな、本当に小さな白い肉球だった。
(猫……? 俺が、猫だと……!?)
驚愕が脳の処理限界を叩き、再び強烈なシャットダウンの波が押し寄せる。前世の高度な言語、物理の数式、前世の記憶――それらが濁流となって脳に押し寄せるが、今の未発達な「子猫の脳」というバケツには、その情報量が大きすぎた。脳がオーバーヒートを起こし、視界が急激に暗転していく。
ガタガタと震える身体。冷たい雨は容赦なく、小さな白い毛並みを芯まで濡らしていく。
「おい、見ろよ。またあの出来損ないが転がってるぜ」
頭上から、不気味に濁った、しかし明確な「意思」を持った声が響いた。
濁った金色の目をした、耳の欠けた大きな野良猫。そして、その背後には巨大なカラスが数羽、不気味な鳴き声をあげてキラを見下ろしていた。
この世界の過酷なルールが、容赦なく牙を剥く。
生まれ落ちたのは、精霊猫の幼体。だが今の彼は、母猫にさえ見捨てられた、ただの「最弱のゴミ」に過ぎなかった。
激しい暴行の痕跡が体に残っている。他の野良猫たちに突き飛ばされ、縄張りから追い出され、この薄暗い路地裏の隅に行き着いたのだ。
(クソッ……前世でも散々、這いずり回るような人生だったってのに……)
キラは泥水をすする。泥の味しかしない、冷たい水を。
生きる気力が、急速に失われていくのを感じていた。守るべき大切な存在ももういない。このまま、この冷たい路地裏で静かに凍りついて消えるのも、悪くないかもしれない。
だが、その時。
彼の魂の最深部に眠る、あの『誠意に基づく深い根源』が、静かに、しかし絶対的な熱量を持って脈動を始めた。
娘のために、1円単位を削って、泥水をすすりながらも生き抜いた、あの圧倒的な生存本能。
シングルファザーとして培った「不屈の執念」の回路が、バグだらけの脳内で奇跡的に、細い一本のラインとなって繋がった。
(いや……嫌だ。ここで、こんなところで、何の意味もなく終わってたまるか……!)
小さな肉球が、泥を強く、強く踏み締める。
脳のフリーズを、魂の力で強引にねじ伏せた。
まだまともに歩くこともできない。視界もブレている。
だが、白猫の瞳の奥に、かつて一人の父親として戦い抜いた男の「鋭い知性」が、確かに灯った。
最弱からのサバイバルが、今、ここから始まる。




