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嵐への対応 (1)


夏も半ばが過ぎた頃。ヴァローナ王ルスランはイヴァンカ帝国との国境を越えてスラクシナ方面で戦を行っていた。

今回はイヴァンカ皇帝の要請を受けての共闘であり、順調に戦果を挙げていた。


そんな日々を過ごしていたある夜。

ルスランの天幕に陸軍大将アンドレイ・カルガノフが急ぎ足で入ってくる。


「陛下。ただいま王城より早馬が着きました」

「生まれたか。メイベルは無事か」


ルスランは即座に反応し、詰め寄る勢いで言った。はい、とアンドレイは笑って答える。


「母子共に健康で、王妃様もレオニート王子を慈しんでいらっしゃいます」

「王子か……。そうか、男の子か」


レオニートという名前は、戦に赴く前に、ルスランがそう名付けるようメイベルに託していったもの。予定では出産前には王城へ帰っているはずだったのだが、生み月が早まったらしい。

アンドレイがこの天幕に来るまで、戦のことで頭がいっぱいで、正直、妻の妊娠のこともすっかり忘れていたが……。


「早く帰ってやらねばならん。子はどちらに似ているだろうな」


鼻歌でも歌い出しそうなほどに上機嫌な王に、おめでとうございます、と将軍アンドレイも改めて祝いを述べる。

長い付き合いだが、これほど幸せそうに笑う友を見るのは、アンドレイも初めてだった。




ヴァローナの王都も、いまは王子誕生の喜びとお祝いで連日お祭り騒ぎである。

その中心にある王城で、王妃メイベルは静かに療養に努めていた。


メイベルの体調を気遣って、宰相も王妃に任せる政務は必要最低限のものに留めており、メイベルも午前の務めを終えると部屋に戻ってベッドに横になり、うとうととしていたのだが。

赤ん坊の泣き声に、ぱちっと目を開けて起き上がる。


隣の部屋へ移動すると、王子レオニートを抱いたラリサが顔を上げてメイベルを見た。


「申し訳ありません。王妃様を起こしてしまいましたか?」

「ううん。あまり眠くなかったから」


本当はかなりうとうとしていたのだが、息子の声にすっかり目が覚めてしまった。女官長の地位を一時的に離れ、いまは王子の乳母となったラリサから、メイベルは息子を受け取る。

メイベルが抱くと、レイオニートはまだ小さい声を上げながらも、落ち着いた様子で眠り始めた。


「やっぱり王妃様が抱くと、全然違いますね」


やり取りを見ていた若い女官が、せいいっぱいの小声ではしゃぎながら言った。


若い女官たちは小さな王子の一挙一動が可愛くて堪らないらしく、いまもメイベルの腕に抱かれて眠る王子を覗き込んでくすくすきゃあきゃあ笑い合っている。

女官長代理のオリガが、わざとらしく咳払いして注意した。


いまだけは、メイベルも若い女官たちの言動を注意する気になれなかった。

生まれてきた子はきっと、自分にとって世界一愛らしい子となることだろうと思ってはいたけれど……こうして実際に腕に抱いてみると、愛しくてたまらなくて。

メイベルも、我が子にメロメロであった。


眠る息子をそっとベッドに返した後も、メイベルはしばらくレオニートの寝顔を夢中になって見つめ、ラリサたちも王妃を静かに見守る。

そんな部屋に、訪問客を知らせるノック音が。


すぐにオリガが出迎えに行き、宰相ガブリイルを連れてメイベルのもとへと戻って来た。


「お休みのところを失礼致します。急ぎ、王妃様のご判断を仰ぎたいことが起きまして……。申し訳ないのですが、応接室へとお越しいただけませんか。説明は、その道中にでも」


なにか、宰相だけでは対処しきれない問題が起きた。彼の口調からも、見える感情の色からも、それが伝わってくる。

幼い王子のことは乳母ラリサに任せ、メイベルはオリガたちを連れて部屋を出た。


宰相ガブリイルは、先に話した通り、応接室へ向かう道すがら説明する。


「――実は、陛下の子を身ごもっているという女性が城を訪ねてきたのです」

「はぁ!?この期に及んでまた愛人騒ぎ!?」


若い女官のうち、眼鏡をかけているほうの双子の女官が言った。彼女も、思わず口をついて出てしまったのだろう。他二人がシーッ!と慌てて黙らせ、彼女自身も口を押えている。オリガは、ジロリと厳しい目で睨んだ。


メイベルも苦笑して彼女たちをちらりと見たが、宰相は振り返らず、構わず話を続ける。


「単なる落胤騒動でしたら、いまの王妃様のお手を煩わせることなく、私のほうで処理するのですが……今回は問題も疑問点も多く、私一人の手に余る事態でして――彼女の主張によると、陛下と逢瀬を繰り返したのは去年の暮れということになるのです。それも、シジェンコ地方の町で」

「え。それって物理的にあり得なくない?」


また双子の女官のうち、先ほどとは別の女官が口を挟む。他二人がシーッ!と慌てて黙らせ、彼女も口に出でてしまったのは予想外だったようで、慌てて自分の口を押さえていた。

オリガは、額に青筋を浮かべて睨んでいる。


でも、彼女の言う通りだ。


「去年の暮れなら、ルスランは王城にこもっていた時期……。メバロータには何度か赴いていたけど、方向はまったく違う」


距離にして五百キロ程度は離れているはず。雪も積もっているような季節では、馬を走らせても片道だけで十日はかかる。

女好きで、そういったことは割とマメなルスランでも、そんなことをしている時間が物理的に存在していないとなると……ルスランの子を身ごもったなんていう主張は本当なのか、かなり疑わしい。


「じゃあ、どう考えても嘘じゃないですか、そんな主張。そんな嘘つき女、それこそガブリイル様お一人でどうにでもできそうなのに」


ついには、三人娘のうちの最後の一人も口を挟んでしまった。だが、この言い分には双子もオリガも同意しかないらしく、彼女の立場を弁えない発言を咎める者はいない。

宰相ガブリイルも、彼女の言葉に頷いた。


「……そう。どう考えてもあり得ない。虚偽だとしか思えないのだが……主張してきた女性が大問題なのです」

「もしかして、どこかの要人……?」


宰相が何に悩んでいるのかピンと来たメイベルは、少し考えて言った。宰相は返事をする代わりに大きくため息を吐き、メイベルの指摘を肯定する。


ルスラン王の子を身ごもった――その主張は矛盾だらけで偽りとしか思えないのに、宰相がわざわざ王妃を呼びつけてまで対応を求めるとなれば、真っ向から否定するとヴァローナに都合の悪い展開になる可能性があるから。

女性は、どこかの要人……たぶん、王女クラス。


「ご推察の通りです。我がヴァローナの王城にまで乗り込んできてルスラン王の子を身ごもった、ルスラン王を出せと主張してきたのは、リングダール王国の王女ビルギッタ様」


応接室の扉の前。部屋に入る直前に、宰相が最後の説明を付け加える。


「陛下がいらっしゃればあの方に対応して頂くのが最善なのですが、陛下はいま戦に赴き、使者を届けたとしてもすぐには戻ってこれません。となると、王妃様にお出ましいただくしか……」

「分かった」


扉と向き合い、メイベルもため息を吐く。


「ガブリイル様の判断は正しい。妻の私が、彼女と話し合うべきでしょうね」


覚悟を決めて、メイベルは応接室に入った。


ビルギッタ王女の姿は、部屋に入った途端すぐに視界に入った。

部屋の真ん中にある豪華な長椅子に腰かけた女の子は、部屋に入って来たのが女だと分かると、可愛らしい顔を歪ませて険しい表情でメイベルを睨む。


もう少し年上の、儚げな美しさのある女性……エリザヴェータやメバロータの女性のような、守ってあげたくなるような繊細な雰囲気のある女性を想像していたのだが、ビルギッタ王女はずいぶん若い。

……というか、幼い。メイベルと同い年か、もしかしたら年下なのでは……?


「あなた、誰?」

「初めまして、ビルギッタ様。ルスランの妻で、メイベルと申します」


ルスランの妻、という部分をわざと強調して、メイベルは答えた。

メイベルと同い年ぐらいかもしれないが、それにしてもビルギッタ王女はずいぶん無作法で無礼だ。幼くとも王女ならばもう一人前扱いされる年齢だろうに、他国の王妃相手に敬意を払うそぶりすら見せない。


妻、とメイベルの言葉を繰り返して、ビルギッタ王女はさらに表情を険しくした。


「さっさとルスランと別れなさいよ!彼が愛しているのは私なんだから!」


キーキーと騒いでひたすら自分の言いたいことを喚き散らす王女に、メイベルは呆れてポカンとするしかない。


――絶対、ルスランの好みじゃない。一晩だけの火遊びの相手であっても、彼女を選んだりしない。

王女と対面すると、確信が深まるばかりで。


メイベルの後ろで控えている宰相や女官たちも、メイベルと同じ意見を抱いていることが、振り返らなくても分かった。


「ルスランの子を宿しているとお聞きしましたが」


喚き散らす王女が息継ぎのために黙る合間をなんとか見つけ、メイベルが問いかける。そうよ、と王女は叫んだ。


「私のお腹には、彼との愛の証がいるの!ヴァローナとリングダールを繋ぐ友好の証でもあるんだから!」


勝ち誇ったように王女が言い、これは困った、とメイベルは心の内で思った。


王女の虚言を暴くつもりが、彼女から見えた感情の色から判断するに……王女本人は、ルスランの子だと本気で信じているらしい。その主張に、一切の偽りはない――その可能性すら、彼女は考えていない。

ヴァローナ側を騙すつもりでやっているよりも厄介だ。下手に否定すると、国際問題になる……かもしれない。


「後ろ盾も何もない貴女よりも、私のほうがよっぽど王の妻にふさわしいわ。貴女が大人しく身を引いて、私に誠心誠意謝罪するというのなら、ハルモニアでひっそり暮らしていくぐらいの今後の保証はしてあげてもいいわよ」


メイベルの背後で宰相や女官たちが怒りを溜め込んでいるのは感じていたが、痛いところを突かれたのは事実である。


肩書だけの共同統治者でしかないメイベルのいまの地位は、ルスラン王の寵愛で成り立っているところが大きい。

リングダールに実親や実家のあるビルギッタ王女と違って、メイベルは、ルスラン王に取り上げられてしまったら帰る場所がない。

……なんてことを指摘されても、いまさらメイベルの心が揺らぐはずもないが。


「ビルギッタ王女のおっしゃることは、非常に重要なことと私たちも重く受けとめております。すぐにお返事するのもかえって誠意のないこと……二、三日、猶予をお与えいただけませんか?王女も大切な時期なのですから、どうぞゆっくりお寛ぎいただいて……」

「ふん、結論なんてとっくに決まってるのに。往生際の悪い女」


ビルギッタ王女は、建前を取り繕うこともしないらしい。

……リングダールは、王女の教育をどうしてきたのだろう。箱入り姫として過保護に甘やかされてきたメイベルですら、もうちょっと礼儀を教えられてきたのに。


「でもその様子だと、ルスランはいま、この城にいないのね。だったら待つわ――ルスランがいない間に、貴女に好き放題させてたまるもんですか!」


すでに女主になったかのような口ぶりで、王女はメイベルを指差して言う。


ここはヴァローナの王城で、リングダール本国ではなく、自分の味方よりもヴァローナ王妃メイベルの味方のほうが圧倒的に多い場所だというのに……。

ここまで思い違いをして傲慢に振る舞うことのできるビルギッタ王女に、メイベルは思わず感心してしまった。


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