過ぎた日は戻ることなく (3)
馬をすっ飛ばさせてバーベリの城に到着したミンカは、転げ落ちるように馬から飛び降りた後、城の兵士に詰め寄って、ルスラン王が狩りを終えて城に帰ってきていることを確認した。
バーベリの城もそこそこの広さがあるのだが、ミンカは王がどの部屋にいるのかも確認せず走り出してしまうものだから、同行する警視総監の部下が確認を取り、慌てて彼女を目的の場所まで案内する。
部屋の扉をノックして、返事も待たずに部屋に飛び込む。
無作法な乱入者に、出入り口のすぐ近くにいた陸軍大将アンドレイ・カルガノフは目を丸くして呆気に取られていた。
「陛下は!?」
「あ、ああ、奥にいらっしゃる――ハンス様やエリザヴェータ様と共に――」
間違いなくルスラン王がいる。ミンカの耳と頭には、そのことしか入らない。
中央にあるテーブルを囲む長椅子にルスラン王は腰かけ、そばにはハンスとエリザヴェータも。
ルスランも飛び込んできたミンカを見てポカンとしていたが、すぐに立ち上がった。
「どうした。メイベルに何かあったのか?」
王妃付き女官が、血相を変えて自分のもとに駆け込んできた。
王妃に一大事が起きたとルスランが考えるのも自然なことである。ミンカの無礼を咎めるよりも、ルスランはメイベルのことを真っ先に考えた。
「陛下!どうして王妃様やファルコ様、ガブリイル様を逮捕したんですか!?」
王がまた、ポカンと口を開く。
ミンカが何を言っているのか――彼女は何か誤った認識をしているのではないか……ルスランは考え、言葉の意味を冷静に理解していくにつれ、表情が険しくなっていった。
「私が彼らを逮捕だと?そんな馬鹿な。そんな命令を下した覚えもなく、そんなことを許すはずもない」
「でも、王妃様のお部屋を訪ねてきた警視総監はその手に命令書を持ってました!文章の筆跡は違うけど、署名は間違いなく陛下のものだって……。警視総監だけでなく、王妃様もお認めになっていましたもん!その命令書のせいで、王妃様もファルコ様もガブリイル様も逮捕されちゃったんですよ!?」
国王相手でも怯むことなく、ミンカはカンカンになって叫ぶ。
成人男性のファルコや宰相ガブリイルはまだしも、女性のメイベルが……しかも妊娠しているのに!
いったいいま頃どんな目に遭っていることか――想像しただけでも、怒りで頭が爆発してしまいそうだ。
「陛下の署名があるなど、それこそあり得ない。私は王城を出てからバーベリのこの城でお過ごしになっている間、ほぼ離れることなく陛下に付き従っている。陛下が書類に署名なさるようなお姿は見ていない。何者かによる偽造だろう」
将軍アンドレイが指摘したが、いや、と反論したのは他ならぬルスランだった。
「……私が書いた文書は厳重に管理させている。それこそ、私の筆跡を真似て偽造などされては一大事だからな。各大臣にも国家機密扱いですべて厳しい管理体制のもとで取り扱わせていた」
「そう言えば……。では、偽造など不可能……もしくは、大臣たちの中に背信者が?」
「もう一つ可能性がある」
ルスランが言い、そばにいる女性に振り返る。
視線を向けられたエリザヴェータは、びくっと身をすくませた。
――彼女は、冷徹な王としての顔をしたルスランを、見たことがなかったのだ。
「ハンスの成長に合わせ、私は自ら手紙を書き、贈り物と共に届けさせていた。貴女は、私が署名したものを所有しているはずだ」
エリザヴェータは青ざめ、彼女の隣に座るハンスがオロオロとルスランと母を見やる。母上、とハンスが呼びかけると、エリザヴェータは意を決したように顔を上げ、冷たく自分を見るルスランを見つめ返した。
「あの女性は、あなたを裏切っているのです!ファルコという男と共に、陰であなたを嘲笑っているのよ……!」
エリザヴェータは立ち上がり、ルスランの腕にすがりつく。必死で訴え続けた。
「あの女性はあなたの妻に相応しくない!ルスラン様、どうか――私は、あなたをお救いしたい一心で……!」
「黙れ!」
ルスランが怒鳴り、自分の腕に伸ばされたエリザヴェータの手を容赦なく振り払う。エリザヴェータは小さく悲鳴を上げて後退った。
「メイベルとの結婚もファルコへの待遇も、政治の問題だ!一介の女が、私の政治に口出しするな!」
それだけ言って、ルスランは部屋を飛び出す。
まだ自分をすがるように見上げてくるエリザヴェータに完全に背を向け、彼女を一瞥することもなく大急ぎで。
すがる相手を失ったエリザヴェータは力なく床の上に崩れ落ち、呆然とルスラン王が出て行った扉を見ていた。
「……一線を越えてしまいましたな」
将軍アンドレイが、エリザヴェータの前にひざまずいて、諭すように言った。
「ヴァローナの政治について、陛下に口出しすることを許された女性は王妃様お一人だけ。他ならぬ陛下がお与えになった権利なのです。それを横取りすることは、何があろうとも陛下が許しますまい」
自身の部下にエリザヴェータのことを任せ、将軍もすぐに王の後を追う。
エリザヴェータはもはや抵抗することなく抜け殻のようになっており、ハンスがそんな母に寄り添っていた。
――もう二度と、ルスランがこの母子に会うことはないだろう。
誰も一言も発することなく時間だけが過ぎ、静かな王妃の部屋で。
またにわかに騒がしくなって、メイベルの許可を取ることもなく男が慌ただしく押し入って来た。
「メイベル!」
ルスランは出入り口そばにいた警視総監のことも完全に無視して、部屋の真ん中にある長椅子に腰かけているメイベルに一目散に駆け寄ってくる。
メイベルも立ち上がってルスランと向き合い……いつものポーカーフェイスで自分を見る妻に、ルスランも少し決まり悪そうに言った。
「メイベル、この命令は仕組まれたものだ。署名は偽造されたもの――エリザヴェータが自白した」
途端、バシッという音が部屋に響く。部屋中の者が唖然となって驚き、ルスランの頬を引っ叩いたメイベルは憤然として夫を叱りつけた。
「国王ともあろう者が、なんと情けない真似を!女一人に翻弄されて、あなたに忠誠を尽くす者を不安にさせるなんて!」
ルスランは反論することなく項垂れ、すまない、とだけ返す。
「ガブリイル様とファルコをただちに釈放しなさい!いますぐ!」
激昂するメイベルの命令に、ルスランをも通り抜けて警視総監が大慌てで頭を下げた。そして、警視総監自ら宰相ガブリイルを捕らえている牢に王と王妃を案内する。
「ガブリイル。今回の逮捕は誤りだ。私がおまえの忠誠を疑うはずがない」
「承知しておりますとも」
宰相は普段と変わらぬ様子で薄暗い牢から出てきて、ルスラン王に言った。
「私が、陛下の御心を疑ったりするはずがございません。これが何かの間違いで、すぐに釈放されるだろうということは最初から分かっておりました」
何者かによって仕組まれた逮捕劇は、すぐに王が登場して茶番に終わると。宰相ガブリイルは心から信じていたらしい。
警視総監の部下がやってきて自分を逮捕すると言い出しても一切動揺することなく、ガブリイルは落ち着き払った態度で牢へと入って。彼の予想通り、すぐに牢を出ることになった。
宰相ガブリイルが釈放されると、今度はファルコが牢から出された。メイベルはファルコに抱きつき、ファルコもメイベルを抱きしめ返した後、ルスランを見てニヤリと笑う。
「なんだ、もう終わりか。いっそ、罪人ごっこを楽しんでやろうと思ってたんだがな」
「君は、私にとってもヴァローナにとっても重要な男だ」
ファルコのからかいに対し、ルスランは真剣に答える。
「このような不当な扱いを許すわけにはいかん。例え君自身が許してもな」
そう言ってルスランまでファルコを抱きしめるものだから、ファルコは苦笑いしていた。
こうして王妃と宰相を狙った陰謀はあっさりと解決し、これに関わった者たちは一人残らず調べ上げられ、それ相応の処罰を与えられることになったのだが。
夜遅くの休憩時間。ミンカは甘い夜食を楽しみながら、同じように休憩しているニラム、ニタクと昼間の出来事についてお喋りしていた。
「……驚いたわよね。個人的にはすごくスカっとしたけど、あの王妃様が、陛下を引っ叩くだなんて」
休憩時間に王城自慢の料理人が作ったケーキを食べられるのも、王妃付き女官の特権である。美味しい、とミンカは顔をほころばせた。
「優しい王妃様のことだから、あっさり陛下のことを許しちゃうのかと思ってた」
「私も。でも、よく考えたら王妃様って、怒ったら短剣を振り回してくるような人だったわね。そんなに不思議なことでもないのかしら……?」
双子のニラム、ニタクもケーキの美味しさを存分に楽しむ。
――咳払いが聞こえ、二人揃ってうっと変な声が漏れ、ゲホゲホと咳き込んだ。
ミンカは慌てて立ち上がり、姿勢を正してオリガと向き合った……が、オリガがため息を吐く。
「……良い。休憩時間中でしょう。いまのは別に注意したわけではなくて……盗み聞きのようになってしまったから……」
オリガにしては珍しく、歯切れ悪い言い方で、目を逸らしている。
自分たちに腹を立ててお喋りを止めようとしたわけではないことを理解し、ミンカもホッと胸を撫で下ろした。
「あ、えっと……オリガ様も休憩ですか?お茶でもいかがです?」
「……そうね。お邪魔じゃなければ」
茶を流し込んだニラムとニタクも急いでオリガの分の席を作り、オリガはそこに座って、ミンカが入れる紅茶を飲む。
ふう、と息をつくと、美味しいわ、とオリガが言った。
「紅茶を淹れる腕前は、やっぱりミンカが一番ね。茶葉を選んだのはニラムとニタクでしょう……こういうことを選ぶセンスは、二人が際立って優れてる」
オリガは三人を褒め、褒められた三人娘は戸惑いながらも照れる。もう一口、茶を味わってから、オリガは話し始めた。
「……王妃様のこと。あなたたちも、とても意外に感じたでしょう。昼間のあの、激昂したお姿」
三人は互いに顔を見やり、少し返事を考えてから、はい、と小さく頷いた。
やっぱり、あの展開はかなり意外だった。
オリガも頷き、言葉を続ける。
「あれはわざとよ。わざと厳しく陛下を叱りつけ、大勢の前で陛下の面子を潰した――女に引っ叩かれるなんて、ルスラン陛下にとっては不名誉極まりないことだわ」
「あっ、そうです。それが私たちも気になっていて」
メイベルは以前から、怒って夫に短剣を振りかぶるような激情的な一面があった。ただしそれをやったのは閨の場――二人きりの時だけ。
女官の自分たちは閨の出来事もすべて把握しているが、女官たちには秘密厳守の義務があり、閨での出来事は公にはならない。
だが今回は、公の場でルスランのことを引っ叩いて……王に恥をかかせた。妻に引っ叩かれるなど、男としての面目丸潰れだ。
ルスランを立てるよう務めているメイベルにしては珍しい……というか、普段を考えるとあり得ない……。




