外伝69話:ご詭弁麗しきゲームエンド(前編) -Hamra jex Makna-
'20.09/30 演出修正。
外伝69話:ご詭弁麗しきゲームエンド(前編) -Hamra jex Makna-
* * *
ホムラ皇太子殿下の親衛隊。
それを聞いた瞬間、リグスラーム教官の顔が硬直した。信じられない単語を聞いた顔だった。
「ホ、ホムラ皇太子……?!」
「それとも、お前を連行するのに、それ以上の社会的地位が必要だったか?」
「どういうことだ? 何が起こっている! ホムラ王子の親衛隊が、なぜ!」
答えたのはサイラだった。
「皇太子殿下直々のご命令だ。ハーナムはわがマファルカ家の元門下生にして、《青獅子隊》副隊長カリエクの恩師であるとともに、先王の忠実な盾となった王家の忠臣だ。そんな彼に容疑がかかっていると聞き及んだがゆえに、我々が直接捜査に赴いたのだが」
「『元王室護衛官だから罪を着せるのに都合がいい』だっけ? 笑えるぜ。おかげであんたは今、とてつもない大物を引っ張り出しちまったってワケだ」
ティガルの笑い声を聞きながら、リグスラームは何も言えずに、顔面蒼白になっていた。
「そもそも前々から、ここ数年で王都の治安が悪化していることを、殿下は憂いておいでだった。そこで我々は独自に、銃器の違法入手ルートを調査していたのだが、つい一週間前に大勢のギャングが逮捕されたことにより、我々は、ヤツらから押収した銃器が、王国軍に支給される銃で、さらにそれがナームファルカ憲兵学校から流れていることを突き止めた。我々は、武器の流れを逆に追って捜査を進めていったが、犯人は周到な人物のようでな。憲兵学校内部の誰かだとはわかるが、その先は、どのギャングも知らないときた。ギャングのバイヤーとのやり取りも、これらの活字の手紙だけで、顔は晒していないようだからな。わかるのは、『青き盾』という呼び名だけだ。――青き盾、か。元王室護衛官の誰かを連想させるな」
言いながらサイラは、活字の印字された紙を広げてみせた。それがギャングとのやりとりに使われた手紙のようだ。
見ればたしかに、「青き盾」とサインされている。「青」は王室を意味する色である。リグスラームは、端からハーナムに罪を着せるつもりだったのだ。
「案の定というべきか、捜査を進めていくうちに浮上してきたある人物は、ハーナムだった。すべての証拠が、ハーナムへと繋がっていた。気味が悪いほどにな。――取引中に見せかけた銃器など、本当にハーナムが犯人なら確実に隠したであろう、マヌケな証拠までが見つかる始末だ」
サイラは冷徹な目で、リグスラームを一瞥した。
「正直なところ、我々は今、かなり頭にきている。貴様のような頭の腐りきった人間が王国軍にいることは無論、そいつが明らかに、我々の恩師とも言える元王室護衛官に罪をなすりつけたわけだからな。――王室関連の事件は、隠密に処理される。元王室護衛官に罪を着せた貴様とて、その適用外ではない。殿下のお許しさえあれば、これから貴様を秘密裏に存分に痛めつけてやってもいい」
「ま、待て! 私がやったという証拠はあるのか、え? 証拠もないのに逮捕しようというのか? そんなことが許されると思っているのか!」
「少々手荒く聞けば、貴様ならなんでも話すだろう。試してみるか?」
サイラはリグスラームを挑発的に見下ろし、指揮棒で彼の顎をすぅと撫でた。彼女が本気なのは、その揺るがぬ意志を宿した目でわかった。
だが――と、スフィルはほかのふたりの《青獅子隊》に目を向けた。
凄みを出すサイラに対して、カリエクとサトリ憲兵にその気がないのは、一目瞭然だった。
彼らが王室の権力を使って、拷問という現代法でご法度な行為に及ぶ気がないことを確認して、スフィルは内心、ほっとしていた。ノワンに指摘されて以来、《青獅子隊》が不法捜査を行っているのではという疑念が晴れなかったからだ。
カリエクたちはあくまで、この非道なる汚職憲兵を、正規の方法に則って捕まえる気だ。やはり《青獅子隊》は、慈悲深いと有名な王子殿下のお人柄のとおり、正義と公正のために動く部隊なのだ。その事実がスフィルを安堵させた。
リグスラームは、サイラの怒気にすっかり怖気づいており、半ば自棄になりながら叫んだ。
「おぼえてろよ、お前たち! イェルマヒム、君の人生はもう終わりだ! それからシオナも、教官を誑かした不貞女としてウワサが立つだろうな! 私を逮捕するということはつまり、そういうことなんだぞ! 言っておくが、私の憲兵のコネは凄まじいぞ。私に睨まれた状態でこの先憲兵として生きていくなら、地獄を味わう覚悟をすることだな!」
「コイツ、マジで往生際が悪いぜ……!」
これから《青獅子隊》はきっと、彼を逮捕してくれるだろう。だがそうすることで、この教官は無実のイェルマヒムとシオナまでを巻き込んで、自分ひとりの破滅では終われないとばかりに、醜聞に晒す気なのだ。
スフィルの握りしめた拳が震える。
シオナはきっと、この先何があろうと、官家のティガルに愛されて、幸せな人生を歩むことができるだろう。この恋する相棒には、彼女を救う覚悟があるのだ。
だが問題なのは、イェルマヒムだ。
三年間苦楽を共にしてきた才能あるライバルが、栄光を歩むはずの人生を、ひとりの凶漢によって狂わされようとしている。なのに今のスフィルには、それを止めることができない。スフィルはあまりに無力だった。
スフィルの心情を察したのか、イェルマヒムが腕を組みながら、頑として言い放った。
「構わん!」
「え……っ?」
「もとより、オレの身内が撒いた種だ。賄賂で卒業した愚物の二世で、大いに結構。護衛官として実務に出たとき、卒業成績が己の身を守るわけじゃない。オレはただ、完全無欠に職務を全うし、護衛対象の御身をお護りするだけだ。――自力で父の信頼を勝ち取る、その日までな」
「エルマ君……」
イェルマヒムは、《青獅子隊》の面々に向きなおり、精悍な眼差しを向けた。
「覚悟はできています。《青獅子隊》の皆さん、コイツの悪事を存分に暴いてください」
彼の覚悟の重さに、スフィルの胸が熱くなった。
イェルマヒムは、彼の輝かしい未来のキャリアを棒に振ってまで、正義の執行を望んでいるのだ。
彼のような誠実で正義の心をもつ憲兵こそ、王国軍で重用されるべきだ。イェルマヒムは、こんなところで終わっていい器じゃない。完全無欠な職務全うを可能にする、憲兵学校で唯一にして最高のライバルだ。
リグスラームを野放しにできないことは承知している。それでもどうか、イェルマヒムを救ってほしい。――そんなスフィルの叫びが、喉まで出かかった、その時だった。
その言語化されぬ叫びに呼応するかのように、突然、穏やかな声が上がった。
「いえ、その必要はないかと」
声を発したのは、サトリ憲兵だった。
彼がリグスラームの前へ出ると同時に、さっとサイラが身を引いた。
憲兵の制服の似合わぬその少年は、リグスラームを見つめながら、にこやかな笑みを浮かべた。
「誤解なさらないでください、リグスラーム教官。我々は、あなたを追い詰めに来たのではありません」
「なら、なんだというんだ」
サトリはおもむろに掛けていた丸眼鏡を外し、帯にしまった。そしてじっと、穏やかな眼差しでリグスラームの双眸を見つめる。
「助けに来たのです」
「は……?」
「リグスラーム教官、貴官は我が国の人身捜査課の憲兵であると同時に、我々王室護衛官の同胞ハーナム教官とも、縁のある方です。間違いありませんね」
「まあ、そうだが……」
「私は、貴官のなかに眠る王国憲兵としての良心を――正義と公正を愛する心を信じております。この部屋を出るときには、貴官が善良なる心に従い、すべての罪を告白するとともにその罪を償うことを信じます。教官は国を守る憲兵なんですから、従順で『いい人』のハズです。そんな教官が、人の不利益になることを吹聴などなさるわけがない。そうでしょう」
「ハッ」
リグスラームは鼻で笑った。「この私に、今さら『善良なる心』だと? 人を馬鹿にするのも大概にしたまえ」
「おや、私は真剣ですよ」
「ま、待ってください!」
スフィルは慌てて、サトリとの間に割って入った。
「この人には、本当に憲兵としての――いえ、人間としての良心も罪悪感も、何もありません! いくら良心に訴えかけても、ムダなんです!」
「大丈夫。教官は『いい人』だよ。――信じてくれるかな」
「でも……」
先ほど、あれほど教官の良心に訴えかけた。なのに彼は、悪びれるどころか、あろうことかエズレを侮辱したのだ。彼が取り乱すのはいつだって、自分に危機が迫ったときだけなのだ。
それでも、スフィルは反論をつづけることができなかった。あの圧倒的な頭脳をもつサトリが、「信じて」と言ったのだ。
信じるしかないと、スフィルは心に決めた。
サトリはにこりとスフィルに微笑むと、やがてリグスラームに向きなおり、じっと彼の目を見つめた。
サトリの透明な目に、リグスラームの瞳が映し出される。
(あれは、【同調】? あのときの目だ……!)
視られた瞬間、スフィルのすべてを言い当てられた、あの目。
あの能力をもつ彼なら、もしかしたら、スフィルがわかりきれなかったことまで、あまねくすべての真実を曝け出し、この悪徳憲兵に、おとなしく罪を認めさせることが可能ではないか。彼の宣言どおりに、イェルマヒムたちを犠牲にせずに、罪を償わせることが可能なのではないか。
スフィルの胸に、そんな希望が芽生えていた。
(お願いします、サトリさん。この推理ゲームで、勝ってください……!)
スフィルが見つめる先で、サトリは一瞬、ちらりとスフィルに目を向けた。一瞬のことだったが、彼は承知したとばかりに微笑んだ気がした。
きっと気のせいではないだろう。今間違いなくスフィルの真意をサトり、実行に移してくれる気なのだ。スフィルは自分でも驚くほどに、彼に心を読まれたであろうことに、安心感を抱いていた。
サトリは胸に手を当て、リグスラームに慇懃に礼をした。
「まず、お伝えするのがこれほどに遅れてしまい、申し訳ありません。こちらの不手際で、証拠品の解析に、なかなかに手間取ってしまって」
「証拠品だと? そんなもの、存在するはずが――」
リグスラームが途中で黙したのは、サトリが自身のかばんから、一冊の小さな帳簿を取り出したからだった。
昼間に彼らに遭遇したときに、スフィルが誤って奪い取ってしまったものだと気づく。
「こちらの帳簿に見覚えはございますね。お宅の机の引き出しの中敷きの下から、出てまいりました。家計簿とは違うようです。いわゆる、『秘密帳簿』といわれるものでしょうか」
「なぜ私の帳簿を?! 不法捜査だぞ! まさか王室護衛官だから、何をしても許されるとでも思っているのかね!」
「不法? いえ、とんでもない。しっかり家宅捜査の許可はいただいておりますよ」
「令状があるなら見せたまえ!」
「検察の許可ではありません。奥様の許可です」
「何、だと……?」
「『旦那様の不倫の証拠がないか捜査している』と申し上げたら、奥様はよろこんでお力添えくださいましたよ。犯罪捜査に協力的な、いい奥様でございますね」
リグスラームは言葉を失って、パクパクと口を動かした。
「奥さんとは、日ごろから仲良くしとくモンだぜ、リグスラーム教官」
ティガルが呵呵と笑った。
サトリは帳簿をパラパラとめくると、あるページを開いて、リグスラームに見せつけた。中には読むのも臆するほどの膨大な数字が、びっしりと並んでいた。
「一見したところは、何も不審なところもない、ただの帳簿なのですが――憲兵学校の教官という安定した職に就かれているのに、とても副収入の多い方ですね」
「その大半は、賭けと株だ。違法ではないだろう」
「その『賭け事』の臨時収入の多くは、実際のところ、イェルマヒム君のお父様を筆頭に、多くの訓練生の親御さんから受け取った賄賂でしょうか。訓練生の成績をつける時期になると顕著に多くなっていることから、そう予想されます。それと、『株』の臨時収入は、毎月一定の頻度で入っているので、金貸しと恐喝でしょうかね。この帳簿を机の下にお隠しになるのもうなずけるほど、多くの犯罪が絡んでいるようです」
すごい。彼はこれだけの犯罪の証拠を、一冊の帳簿から推測したのだ。
だがリグスラームは、淡々とした口調のままに反論した。
「いいや、そんなものは犯罪の証拠でもなんでもないね。今あんたが述べたのは、あくまでただの憶測だ」
「ええ、ただの憶測です。今その軽微な犯罪について議論するつもりはありません。それよりも私はこの、一番不自然な出費である、『保険金』についてお話したいのです」
「保険金だと……?」
今までサトリの話に警戒していたリグスラームは、ここで初めて、心から意外な顔をした。まさかその勘定科目に、彼の犯した罪以上の論点があるとは思ってもみなかったという顔だ。
「なにが不自然なんだ? 二ヶ月に一回、定期的に保険料を払っているだけだ。教官とはいえ私は人身捜査課の捜査官だ。常に危険と隣り合わせなんだから、傷害保険に入っておくことは、何ら不思議ではないはずだ」
「この『保険金』の正体が何なのか。私は、それが教官が今回の事件を起こした、真の動機につながっていると見ています。この『保険金』を支払い始めたのが、二年前の裁判のときです。――リグスラーム教官。あなたは二年前、この学校の女子生徒に迫ったことが公になって、彼女のご両親に、多額の慰謝料を請求されたそうですね」
「ああ、お恥ずかしながらね。その件で身の危険を感じたから、保険に入ったんだ」
「いいえ。多額の慰謝料を支払わなければならなかったあなたに、そんな金銭的余裕はなかったはずです。あなたはその時、慰謝料を支払うために多額の借金をした。そしてこの『保険金』は、その借金の返済額なのでしょう」
「なにを根拠に」
「この『保険金』が不自然なのは、その増加率ですよ。最初は月に百ティフセン程度だったものが、一年後の同じ月には、五倍の約五百ティフセン。その後もあなたの『保険金』への出費は増えつづけています。ここ最近では、数万単位で出していますね。こんな金額が増える保険なんて、普通あるわけないでしょう。門外漢ならともかく、専門家が見れば一発でヘンだとわかります。そしてそれが借金の返済だとわかるのは、あなたは毎回、臨時収入が入ったとほぼ同時に、ほぼ全額をこの『保険金』へ出費しているからです。一刻も早く借金を返さなければならない状況以外に、こんなお金の動きをすることはありえません。――ヤバイ組織に、お金を借りているんですね」
リグスラームは、ここではじめて言葉に詰まった。
「なんとかその窮地を脱するために、どうしても現金が必要だったんでしょう。だからやむなく、廃棄武器をギャングに売り、ほかにも数々の犯罪に手を染めた。すぐ女性に手を出す悪癖以外はリスクを犯さないあなたが、武器の横領とギャング組織への横流しという、規模の大きな犯罪に手を染めた理由は、そうしなければ、この泥沼のような借金の返済地獄から抜け出せなかったからなのでしょう。犯罪の証拠になるのにわざわざ帳簿をつけていらっしゃるのも、あとどれほどの現金を入手すれば抜け出せるのか、ご自身が正確に把握するため。しかし、今でも毎月支払っていらっしゃるのを見る限り、まだ返済額は残っているようですね」
リグスラームは、顔を引きつらせながら、ゴクリと唾を呑んだ。
彼のいつになく真剣な表情が、その推理がすべて真実だと物語っていた。
「ところがまた、あなたの悪癖が災いを招いてしまった。奥様に伺いました。シオナさんに迫った件で、奥様に高額の慰謝料を請求されていますね。年明けには、裁判で争うことになっているそうで。しかも奥様の弁護士は優秀で、もうシオナさんに目星をつけて、証人として喚問する気でいるそうです。このままでは裁判に勝てず、また多額の支払いが必要になるでしょう。だからあなたは、奥様から逃れるために、こっそり高跳びするつもりだった」
「言っておくが、不倫も高跳びも、国法上、犯罪ではない。シオナに関しても、どこぞの貴族の邪魔が入ったから、犯罪として成立するか微妙なラインだ。――一体先ほどから、どういうつもりなのかね。私の犯罪を立証することもなく、プライベートな暴露ばかり……」
サトリは、彼の質問に答えることなく問いかけた。
「教官、本当に逃げきれるおつもりですか? 奥様からはともかく、借金の取り立て人から、地方に移ったくらいで逃げきれると」
リグスラームは沈黙していた。
「最悪の場合、借金の取り立て人は、その矛先を奥様に向けますよ。あなたの良心が痛みませんか」
「ハッ、そんなのは知ったことか! あんな慰謝料にしか目がない醜い女狐、どうにでもなればいい!」
「そうですか。仮に奥様が、『慰謝料など一文もいらない』とおっしゃっても?」
「なんだと?」
「あなたがこのまま憲兵署に移送されれば、組織への債務は奥様に移ります。そのお話を奥様にいたしましたら、彼女は『慰謝料は必要ないから、一刻も早く縁を切りたい』とおっしゃいました。ですので、ここであなたのサインをいただけましたら、これでご夫婦の離婚争議はめでたく解決です。お二方のためにも、ここで契約破棄――すなわち離婚の合意をなさることをおすすめします。こちらが、奥様のサインの入った離婚届です」
サトリは今度は、自身のかばんから一枚の紙を取り出した。
「残念ながらこの国には、少々品のない組織からの借金を踏み倒す人間を保護する法はありません。――しかし、あなたが武器を売ったギャングの情報を渡して、彼らの逮捕に貢献するとなれば、話は別です。送致後、あなたには保護プログラムが適用されることになります。はからずもそのプログラムが、借金取りからもあなたを護ってくれることになるでしょう」
そこまで言うと、サトリはまるで、貧民を助ける聖者のごとき穏やかな微笑みで、リグスラームを見つめた。
「私は、あなたが進んで罪を犯す方ではないことを承知しております。借金を返すために、どうしても現金が必要だっただけのでしょう。貴官はもう、何年にもわたる借金の返済地獄には、お疲れのことと存じます。リグスラーム教官、私はあなたを助けに来ました。あなたはもう、これ以上罪を犯してまで、借金を返さなくてもよろしいのです」
サトリを見上げるリグスラームの目は、目いっぱいに見開かれ、その唇は震えていた。
あの教官に、そんな感傷的な表情ができることが、スフィルには意外だった。
そうか、とスフィルは気づく。
この教官には、他者を思いやる心がない。だったら、自分をいたわる言葉で説得すればよかったのだ。
聖者の笑みを浮かべたサトリは、リグスラームに離婚届を差し出した。
「こちらには、今すぐにでもあなたを助ける用意があります。――これから一生、借金取りと捜査の手に怯えながら逃げますか。それとも、あなたの善良なる心に従って司法機関の捜査に協力し、国家の保護プログラムで第二の人生を歩みますか」
ゴクリと唾を呑んだリグスラームは、やがて、参ったとばかりに息をつくと、サトリから離婚届を受け取った。
「ああ、聴取に全面的に協力しよう。たまには、『善良なる心』に従ってみるのも悪くない。――そう思えてきてね」
「はい、信じておりました。貴官が実は『いい人』でいらっしゃると」
にこやかに笑うサトリの横で、リグスラームは離婚届を机に広げ、サラサラとサインを書きつけた。
これから逮捕されるというのに、リグスラームの面持ちは、こころなしか晴れやかだった。彼はもはや、逮捕の腹いせに訓練生の誰かを巻き込む気は、さらさらなさそうだ。
ほっ、とスフィルはその場で息をつく。
イェルマヒムとシオナは、助かったのだ。
「帳簿締切」
サトリが、手にしていた帳簿をぱたんと閉じた。「――これが王国の、最適解です」
スフィルは、リグスラームが罪を認めるまでの一連のやりとりを、身震いする思いで聞いていた。
(やっぱりこの人、すごい……!)
なぜこのサトリ憲兵に推理で勝てないのかが、今ようやくわかったのだ。
スフィルにとって推理とは、ひとつの事実である「芽」から、論拠という蔦を這わし、相手を雁字搦めにするようなもの。
だがサトリの推理は、逆だ。
彼は最初から最後まで、相手の立場に立って考えている。――いや、相手に「なりきって」考えている。だから【同調】というのだろう。
――相手が最も恐れるものはなにか。相手にとって都合が悪いことはなにか。逆に都合がいいことは?
おかげで彼は、ごく自然に、相手にとって心地良い形で、さながら自分の手足のように相手を操ることを可能にしている。
今、スフィルの心は震えていた。
勝ってしまった。
あの用意周到な非道なる教官に、一冊の帳簿と奥方への聴取、そして卓越した交渉術だけで、罪を認めさせてしまった。
これで無事、悪徳教官は逮捕され、ハーナムの冤罪も明るみに出るだろう。
だが、それだけではない。
イェルマヒムとシオナは、リグスラームにこの先の人生を脅かされることがないだろう。彼が弱みを握るらしい、ほかの憲兵たちも同様だ。そして武器を売った先のギャングたちは、リグスラームの供述で全員逮捕されるだろう。ついでにリグスラームの奥方は、この先借金取りに追われるハメになる事態を回避したようだ。――この場に、これ以上の解決があろうか。
(もしこの技が、ボクに使えたら……!)
そう思えば、スフィルは自身の高鳴る鼓動を抑えることで必死だった。
ようやく見つけたのだ。大切な人を護るため、より高みを目指すための、具体的な方法を。
溢れ出る感動と感謝を伝えようとしていると、ちょうどその時、部屋の入り口から、陽気な声とともにひとりの青年が顔をのぞかせた。
「ちわーす、監察官でーす。ご要望通り、内部監査に上がりましたよ。なんかオレを呼ぶために、わざわざ今日の試験のセッティングをしてくれたらしいじゃないっすか。監察官をお呼びなんすよね、リグスラーム教官」
「相変わらず図ったようなタイミングだな、マーシル。とっとと連行しろ」
内部監査課の監察官と思しき若い男は、カリエクに笑いかけると、くるりと器用にリグスラームの両手に赤い手縄をかけた。
「それにしても、畏れ入った。スフィル一等兵――まさか内部監査課ではなく、受験者に先を越されるとはな」
スフィルにそう話しかけてきたのは、親衛隊長のサイラだった。
「《青獅子隊》の用向きは、最初から、この武器横領事件の黒幕の逮捕だったんですよね」
「ああ、そのとおりだ」
サイラはつづけた。「あのハーナムに疑惑が立つなど、なにか裏があると思っていた矢先に、早々に内部監査課が動きだしてきてな。危うくそこのアホ監察官に、無実のハーナムを逮捕されるところだった」
「ひっでえ言い草だよ。俺だって真実を見極めるために、今日ここに来たんだぞ」
「ハーナム教官にギャングの抗争の話を持ち出して、鎌かけていたやつがよく言うな」
呆れた声をあげたのはカリエクだった。どうやら彼らは、この監察官と知り合いらしい。
「無実だって確認するためだし」
「外でお前の部下たちが、ハーナム教官の身柄を確保していたが?」
「上司の命令だっての。だからオレ、今猛烈に急いで真犯人を捕まえにきたんだぞ」
「捕まえにきたというか、単に我々のあとをつけたんだろう」
「どうせ《青獅子隊》は、犯人に目星つけてんだろうからな。そのあとを追ったほうが、早いし確実っしょ。――よっし、これで逮捕ノルマ達成!」
にんまりと笑ってガッツポーズする監察官を横目に、スフィルはどうしても知りたかったことを尋ねた。
「あの、どうして護衛官たる殿下の親衛隊が、内部監査課のような捜査を……?」
監察官と知り合いなら、端から彼らにいい含めて任せればいいのだ。護衛部隊が自ら捜査に乗り出すという異例の事態に繋がる理由が、スフィルにはどうしても思いつかなかった。
「《青獅子隊》は、ただの護衛部隊ではないからだ。国家規模の問題に発展しうる事案を、事が大きくなる前にいち早く対処する。それが我々の、本当の職務だ」
サイラは、なんてことないようにつづけた。
「ホムラ皇太子殿下直属の、国家の極秘探偵事務所。それが《青獅子隊》の正体だ」




