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第3話 二千五百年目の青睡蓮

帝都の噂は、一年経っても止まらなかった。


昨年、サージェッツァ皇女は聖蹟に穴を掘った。

今年、その穴の周りには水があった。


「殿下。今朝も市場で聞きました」


馬車の向かいに座ったドレンが、手元の書類から顔を上げた。


「何をだ」

「『お騒がせ皇女の沼』でございます」

「まだ言っているのか」

「はい。一年経っても、よく定着しております」

「帝都の人間も暇だな」

「噂をする時間はあるようでございます」


サージェッツァは窓の外へ目を向けた。


「沼でも湖でも、水があることに変わりはない」

「左様でございますね」

「なら放っておけ。そのうち別の呼び名を思いつくだろう」

「殿下が何もなさらなければ、あるいは」

「それは難しいな」

「承知しております」


ドレンは淡々と答え、また書類へ目を戻した。


馬車は、街道から逸れた荒れ地の手前で止まった。


去年は、ここから先も乾いた土地だった。

今は馬車を降りる前から、葦の向こうに水面が見える。


サージェッツァは長靴に履き替えて地面へ降りた。


雨季の空は低く、風は水気を含んでいた。

葦が一面に生え、その根元には黒い泥が広がり、さらに先には浅い水が続いている。


蛙が鳴いていた。


一匹や二匹ではない。

昼だというのに、葦のあちこちから声が重なっている。


水鳥が二羽、近づいてきた人影に驚いたのか、葦の間から飛び立った。


「増えましたな」


後ろから来たドレンが言った。


「蛙か」

「苦情ではなく、本物の方でございます」

「去年より騒がしい」

「湖としては、その方がよろしいのでしょう」

「ニンファならそう言うだろうな」


流入口の方では、住民が二人、水の入り方を見ていた。

少し離れた水門の脇には水務局の制服姿がいて、測った数字を帳面へ書きつけている。


一年前、ここには石碑と乾いた草しかなかった。


サージェッツァは、その石碑へ目を向けた。


今では水際に立っている。


去年までの荒れ地の真ん中に一本だけ残されていたときより、ずっと馴染んで見えた。


「どうなさいました」


ドレンに聞かれ、サージェッツァは石碑から目を離した。


「いや。去年より、置き場所がましに見えるだけだ」

「石碑そのものは動いておりませんが」

「知っている」


サージェッツァは水辺へ向かって歩き出した。


◇


窪地の縁に立った。


去年、客席になるはずだった斜面が目の前にある。

その足元にあった低みには、舞台を置く予定だった。


今は低みが水の下にあり、斜面も途中から浅い水へ沈んでいる。


舞台は建たなかった。

客席もない。


西日が落ちたとき、水面が鏡になる。


去年、ニンファがそう説明していた場所に、本物の水面があった。


劇場の演出として置かれた水ではない。

湖として、そこにある。


サージェッツァはしばらく眺めていた。


上演させたい演目があった。

まだ大きな仕事を任せたことのない劇作家にも目をつけていた。


何より、皇族専用席を作らず、父をこの斜面のどこかへ、他の客と同じように座らせるつもりだった。


その話をしたら、父はどんな顔をしただろう。


少し見てみたかった。


だが、去年、自分で計画を切った。


欲しくなくなったから、手放したのではない。


今でも惜しい。


「殿下」


少し離れたところからドレンが呼んだ。


「劇場のことをお考えですか」

「顔に出ていたか」

「それくらいは分かります」


サージェッツァは鼻を鳴らした。


「惜しくないと言えば嘘になる」

「左様でございますか」

「だが、戻せとも思わん」


葦の間へ、水鳥が一羽降りた。

着水したところから波紋が広がり、やがて水面はまた静かになった。


サージェッツァはそれを見た。


悪くない。


◇


「殿下」


今度は、ニンファの声だった。


振り向くと、去年より日に焼けた顔があった。

長靴は膝まで泥に汚れ、手に持った帳面は、一年前に使っていたものよりずっと厚い。


「遅いぞ、水苑守」

「水門を先に見ておりました」

「私より湖を優先したか」

「旧湖水苑守ですから」

「結構」


ニンファは一礼した。


伝説の花を研究する水景士の顔ではなくなっていた。

今は、この場所を管理する人間の顔だった。


サージェッツァは湖の方を顎で示した。


「水位は」

「雨季に入ってからも、想定の上限には達していません。まだ一割ほど余裕があります」

「増えすぎたら」

「水門で落とします。今のところ、一日に二度確認しています」

「流量は」

「流入路が去年より泥で狭まりました。今月中に住民と掻き出します」

「人手は足りるか」

「足りなければ水務局へ申請します」

「ならいい」


サージェッツァは今度は浅瀬を指した。


「漁は」

「小魚が主です。今年から網を入れています。魚影は増えました」

「獲りすぎるなよ」

「住民の方がよく分かっています。私が言うまでもありません」


サージェッツァは口元を少し上げた。


「鳥は」

「去年より四種類増えました。繁殖しているのが二種類です。それと――去年と同じで、私が作った浅瀬にはあまり降りません」

「今年もか」

「はい。もう諦めました」

「それがいい」


ニンファも小さく笑った。


「畑は」

「影響は出ていません。水位を上げすぎないよう、水門で毎日調整しています」

「住民から文句は」

「あります」

「あるのか」

「魚をもう少し増やせ、水門を開ける時間を変えろ、あそこの泥を掻け、と」

「健全だな」

「私もそう思います」


全部、即答だった。


サージェッツァは頷いた。


それから、湖を見たまま、ごく普通に尋ねた。


「例の種は」


ニンファは少しだけ黙った。


「分かりません」

「位置を失ったか」

「はい」


沈めた位置そのものは図面へ記してある。

杭からの距離も測ってあった。


だが、この雨季の増水で、北側浅瀬に立てていた目印の杭が流された。

泥が動き、水草も浅瀬を広く覆ったという。


「図面に残した一点を、今の浅瀬のどこへ重ねればいいのか。それが、もう分かりません」


ニンファは帳面の端を指で押さえた。


「研究者としては、失格かもしれません」


サージェッツァはすぐには答えなかった。


水面の向こうでは、住民が水草を棒で避けながら、水の深さを見ている。


「探す気はあるのか」

「ありません」

「なぜだ」

「探すなら、あの浅瀬をかなり掘り返すことになります。今は、そこまでして確認する理由がありません」


去年なら、違う答えをしたかもしれない。


サージェッツァはそう思ったが、口にはしなかった。


「では、旧湖水苑守としては?」

「……まだ一年目です」

「なら、一年目らしく働け」

「はい」


ニンファは頷いて、帳面を閉じた。


◇


「用が済んだら戻れ」


サージェッツァが言うと、ニンファは頷いた。


「はい」


ドレンは、先に馬車へ戻らせてあった。

泥の中を侍従まで連れ回す必要はない。


サージェッツァは一人で湖畔を歩いた。


かつて劇場を建てるはずだった場所を抜け、北側の保護区画とは離れた方角へ進む。

旧湖へ水が流れ込む側だった。


葦は背丈ほどに伸びている。

足元には浅い水と泥が続き、その向こうから小さな流れが水面へ入ってきていた。


葦を手で分けながら進む。


緑と泥の色。


その中に、別の色があった。


紫だった。


サージェッツァは足を止めた。


葦の根元、浅い水の上に、一輪だけ咲いている。


「……ほう」


近づくと、長靴が泥へ沈んだ。


完全な紫ではない。


青だった。


だが、礼典院の図譜に描かれていた、宝石のような真青でもない。


少し紫を含んだ、深い青。


水面から茎をわずかに伸ばして花は開き、その中心には、橙から黄金へ移る色の芯があった。


青と呼ぶには夜の色が深く、その奥に朝の火を宿していた。


去年、ニンファが書庫で写した一行を思い出した。


サージェッツァはただ見た。


風が葦を揺らし、花もわずかに揺れる。

水面に光が走った。


しばらくそうしていた。


それから顔を上げる。


「おい、ニンファ」


声は、水の上をよく渡った。


少しして、葦の向こうから返事があった。


「殿下?」


「こっちへ来い。走るな。泥に嵌まるぞ」


泥を踏む音が近づいてくる。


ニンファが葦を分けて現れた。


「何か――」


言葉が止まった。


帳面を持った手が、下がったまま動かなくなった。


サージェッツァは花を指した。


「私にも、あれが何に見えるかくらいは分かる」

「……まだ、断定はできません」

「だから呼んだ」


ニンファはようやく動いた。


◇


ニンファは膝まで水に入り、花の前へ進んだ。

それでも触れなかった。


花弁の形。

色。

芯。

茎の高さ。


一つずつ目で確かめ、帳面を開いて写本の写しと見比べる。


サージェッツァは少し離れた葦の際から見ていた。


「どうだ」

「……記述と一致します」

「全部か」

「残っている記述の範囲では」


ニンファは視線を花へ戻した。


「青睡蓮である可能性は、極めて高いです」

「そうか」

「ただ……」

「まだあるのか」

「あります」


ニンファは北の方を見た。


遠くに、保護区画の縄が見えている。


「場所が違います」

「ずいぶん離れたな」

「はい。聖櫃の種を沈めたのは、北側の浅瀬です」


ここは、そこから明らかに離れている。


サージェッツァは花と、遠くの保護区画を見比べた。


「流されたか」

「可能性はあります。この雨季の増水で、泥がかなり動きました」

「鳥は」

「水鳥が運んだ可能性もあります。あるいは、湖底に昔から眠っていた別の種が、水が戻って発芽したのかもしれません」

「どれが一番ありそうだ」

「それも、分かりません」


ニンファは花を見たまま続けた。


「どれも証明できません。聖櫃の種ではない、とも断定できません」

「では、結論は」

「どの種なのか、分かりません」


サージェッツァは頷いた。


「結構」


ニンファが顔を上げた。


「……結構、ですか」


サージェッツァは答えなかった。

花を見ていた。


◇


開花は、旧湖水苑守の記録として正式に残された。


水務局、皇女宮、礼典院へ同じ写しが送られる。


三日後、ニーブルムが来るという報せが皇女宮へ届いた。

サージェッツァも旧湖へ出た。


ニーブルムは一年前と同じ黒い礼服だった。


違うのは、足元だった。


「似合うではないか」


サージェッツァが長靴を見て言うと、ニーブルムは眉を動かした。


「去年、泥へ入らずに済ませたことを少々反省いたしまして」

「進歩だな」

「殿下に言われますと、素直に喜びにくいですな」


ニーブルムは花の前に膝を折った。


長い間、何も言わずに見ている。


それから持参した包みを開き、中から古写本の写しと、公式図譜の該当頁を写した紙を取り出した。


実物と写本、図譜の写しを順に見比べる。


「どうだ」


サージェッツァが尋ねた。


「急かさないでいただきたい」

「三日待った」

「私は今、初めて見ております」


ニーブルムは写本を花へ近づけ、次に図譜の写しを並べた。


花弁の色。

花芯。

茎の伸び方。


何度も確かめる。


やがて、図譜の写しを畳んだ。


「随分と……図譜とは違いますな」


サージェッツァは葦の脇に立ったまま答えた。


「花に、絵を真似ろと言うのか」


ニーブルムは花を見た。


「それは酷な話でしょうな」

「なら、絵の方を調べろ」

「そのつもりです」


ニーブルムは写本へ目を落とした。


「図譜の成立年代を、改めて調べます。どの時代に、何を見て描かれたものか。真青に描かれるようになった時期も追えるかもしれません」

「正典は」

「正典は正典として調べます」

「分かった」


正典が偽りだったとは、ニーブルムは言わなかった。

目の前の花が間違いなく伝説の青睡蓮だとも断定しなかった。


ただ、新しく増えた一つの材料として記録する。


それで十分だった。


◇


開花から五日ほどで、皇宮でも花の扱いを議論する声が上がった。


皇女宮の執務室へ、礼典院の役人がやってきた。

ニーブルムも同席していたが、話を切り出したのは若い役人の方だった。


「礼典院内で、検討を求める声が出ております」


紙が机へ置かれた。


皇宮の庭園へ移植して公開する。

保護用の鉢へ移し、皇宮内で管理する。

次の皇室礼典で一輪を用いる。


三つの案が並んでいる。


役人は、それぞれの利点を丁寧に説明した。


民への公開。

皇室管理下での保護。

礼典における意味。


サージェッツァは二つ目まで聞いたところで紙を机へ戻した。


「駄目だ」


役人が顔を上げた。


「なぜです」

「死ぬだろう」

「十分な保護設備を用意すれば――」

「今ある場所で生きているものを、なぜわざわざ動かす」

「しかし、聖花であれば、皇室と民へ広く示す必要がございます」

「見せたいのか」

「はい」


サージェッツァは紙を机へ戻した。


「なら、宮廷が来ればいい」


部屋が止まった。


役人は口を開けたまま、次の言葉を失っている。

ニーブルムは黙ったまま、机の紙を見ていた。


ドレンだけが、いつもの調子で口を開いた。


「殿下。旧湖は共同管理地でございます」


サージェッツァは椅子の背にもたれた。


「知っている。ニンファに聞け」

「かしこまりました」

「勝手に日取りを決めるなよ」

「殿下がお決めにならなければ、私はいたしません」

「信用されていないな」

「よく存じ上げているだけでございます」


ドレンは一礼して、静かに部屋を出ていった。


◇


ニンファが条件を持って皇女宮へ来たのは、それから数日後だった。


「許可は出たのか」


サージェッツァが尋ねると、ニンファは紙を一枚差し出した。


「条件付きです」

「当然だな」


水務局、住民代表、旧湖水苑守の協議を経たものだった。


紙には十の条件が並んでいる。


一日限り。

人数を制限する。

木道の外へ立ち入らない。

花の周囲へ立ち入らない。

儀礼のために水位を変えない。

葦や水草を、見栄えのために刈らない。

馬車と馬を湿地の際まで入れない。

花を摘まない。

移植しない。

仮設物は終了後、すべて撤去する。


サージェッツァは最初から最後まで読んだ。


「厳しいですか?」


ニンファが尋ねた。


「いや。思ったより普通だ」

「住民は、最初は乗り気ではありませんでした」

「皇族が大勢来るからか」

「それもあります」


ニンファは少し言葉を選んだ。


「昔、皇室の都合で水を動かされた土地です。今度は礼典の都合で湖を変えられるのではないか、と警戒する人はいました」

「当然だな」


「今回は、皇室の側が湖の規則に従うのだと説明しました。それなら、と」

「花の周りも刈るな、とあるな」

「見栄えが悪いから葦を刈りたいと言われる可能性があるので」

「刈らせるな」

「はい」

「水位も動かすな」

「そのつもりです」

「花にも触らせるな」

「条件に入っています」

「ならいい」


サージェッツァは紙をドレンへ渡した。


「全部受ける。陛下へ上げろ」

「かしこまりました」


ニンファが少しだけ肩の力を抜いた。


「殿下から、追加の希望はありませんか」


サージェッツァは紙をもう一度見た。


「ない。湖側が出した条件なら、それでいい」

「分かりました」


ニンファは紙を鞄へしまい、一礼して皇女宮を出ていった。


◇


謁見の間で、ガレッツォは条件の紙を最後まで読んだ。


「これは、湖側が出した条件か」

「はい、陛下」

「お前が足したものは」

「ございません」

「本当に?」

「陛下」


サージェッツァが少し眉を寄せると、ガレッツォは紙へ目を戻した。


「冗談だ」


公務の場でなければ何か返したところだが、サージェッツァは黙って待った。


皇帝は最後の項目まで確かめ、傍らの侍従へ紙を渡した。


「昨年、私が裁可した制度だ。従わぬ理由がない」

「ありがとうございます」

「礼典だからと、水位を変えさせるなよ」

「そのつもりはございません」

「葦も刈らないのか」

「はい」

「見栄えは悪そうだな」

「湖ですので」

「そうか」


それだけだった。


条件が了承されると、旧湖周辺では来訪者用の木道の準備が始まった。


住民と水務局が三日をかけ、幅一人分の細い道を湿地へ渡していく。

花の手前で道は浅瀬に沿って緩く折れ、列のどこからでも花のある水面が見えるように組まれた。


木道が整った日、礼典の日取りが決まった。


◇


礼典の日は、朝から晴れた。


皇室礼典の一部が、一日だけ旧湖で行われる。


花は動かさない。

人の方が来る。


皇帝。

礼典院。

高位貴族が十数人。

随員は必要な数だけ。


馬車は、街道から逸れた荒れ地の手前で止められた。

先日、サージェッツァが降りたのと同じ場所だ。


木道の入口には、ニンファが立っていた。

帳面を持ち、来訪者を一人ずつ確かめている。


隣には住民代表と水務局員もいた。


サージェッツァが近づくと、ニンファが顔を上げた。


「殿下」

「人数は」

「届け出どおりです」

「増やせと言われなかったか」

「三件ほど」

「断ったか」

「全部」

「よくやった」


そこへ貴族の一人が馬車を降り、足元を見て止まった。


「……この先を歩くのですか」


サージェッツァは振り返った。


「そうだ」


貴族は泥と自分の儀礼服を見比べた。


「そのための長靴だ」


ドレンが前へ出た。


荷馬車の荷台には、大小さまざまな長靴が五十足ほど並んでいる。


サージェッツァはそれを見た。


「準備がいいな」

「殿下にお仕えしておりますので」


ドレンは表情を変えず、困っていた貴族へ長靴を差し出した。


「こちらを」


豪華な儀礼服の裾を持ち上げ、貴族たちが次々に長靴へ履き替える。

木道へ上がる手前で踵を泥へ沈め、顔をしかめる者もいた。


だが、木道の外へ出る者はいない。


皇帝も例外ではなかった。


ガレッツォは自分で長靴を履いた。


「陛下。お手伝いを」


侍従が寄ろうとしたが、皇帝は手で止めた。


「これくらい履ける」


サージェッツァが横から見た。


「よくお似合いです、陛下」

「今は公務中だぞ」

「存じております」


ガレッツォが木道へ乗る。

サージェッツァがその後ろへ続き、さらにニーブルム、貴族たちが順に進んだ。


木道の先に、花がある。


皇族だけの壇はない。

高い席もない。


道は一人分の幅しかなかったが、浅瀬に沿って緩く折れているため、列のどこからでも水面と花を見ることができた。


ガレッツォが止まった。


その後ろにサージェッツァが止まり、ニーブルム、貴族たちが順に続く。


全員が同じ木道の上から、同じ一輪を見た。


「これが……」


後ろの方で誰かが呟いた。


サージェッツァは振り返らなかった。


礼典院の役人が短い言葉を読み上げる。


声を聞きながら、サージェッツァは木道に並ぶ人間を見ていた。


去年、あの斜面に劇場を建てるつもりだった。


皇族席を作らないつもりだった。

父を普通の客席へ座らせるつもりだった。


目の前では、皇帝と皇女と礼典院長と貴族たちが、同じ細い木道に並んでいる。


劇場より、よほど席の差がなかった。


◇


礼典が終わると、人々は順番に木道を戻り始めた。


木道が陸へ上がる手前、畑の縁に老女が一人座っていた。


特別な席ではない。

籠を膝に置き、いつものように編んでいる。


サージェッツァは木道を渡り切ってから、畑の縁へ寄った。


「お前が歌を覚えていた婆さんか」


老女は手を止めずに顔を上げた。


「ただの老いぼれですじゃ」

「そうか」


サージェッツァはそれ以上聞かなかった。


◇


日が傾いた。


貴族たちの馬車が一台ずつ去っていく。

礼典院の者たちは仮設の幕を畳み、木道脇に置かれていた札を外していた。


人が減るにつれて、蛙の声が戻ってくる。


やがて湖畔に残った来訪者は、皇帝と皇女、それぞれの随員だけになった。


ガレッツォが自分の随員を馬車の方へ下がらせる。


サージェッツァもドレンへ目を向けた。


「お前も戻っていろ」

「かしこまりました」

「聞き耳を立てるなよ」

「その必要があるお話をされるのでしたら、先にお知らせください」

「ない」

「では失礼いたします」


ドレンが離れていく。


湖畔に残ったのは、父と娘だけだった。


二人で木道を歩いた。


しばらくして、サージェッツァが横を見た。


「父上」

「ああ」

「長靴、お似合いです」

「まだ言うのか」

「先ほどは陛下でしたので。今度は父上に申し上げています」

「うるさい」


サージェッツァは笑った。


木道の先で、花は水面に咲いていた。


夕方の低い光が水面へ落ち、その照り返しが花の下から上がっていた。


二人で見た。


しばらく、どちらも喋らなかった。


やがてガレッツォの手が、一輪へ伸びた。


摘もうとしたのか、近くで見ようとしただけなのか、サージェッツァには分からなかった。


手は、花へ触れる前に止まった。


「父上、摘まれないのですか」

「お前が怒るだろう」

「怒りませんよ」

「そうか」


それでも、手は下りた。


サージェッツァは父の横顔を見た。


「では、なぜ?」


ガレッツォは花を見たまま答えた。


「ここにある方が美しい」


サージェッツァは少し笑った。


その点だけは、父の趣味も悪くない。


◇


泥と葦の間を、浅い水がゆっくり流れていた。


その下を魚の影が走る。

蛙が鳴き、水鳥が一羽、葦の向こうへ降りていった。


その中に、一輪だけ花がある。


宝石のような真青ではない。

少し紫を含んだ深い青。

中央には、橙から黄金へ移る色があった。


青紫の花弁が、水の上で揺れていた。


その奥で、朝日の色をした芯が光っている。


ガレッツォは摘まなかった。

サージェッツァも、手を伸ばさなかった。


花は、水の中に残った。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


青睡蓮を手に入れるのではなく、花がそこに咲いていられる場所を残す――そんな三話になりました。

ニンファとサージェッツァ、そして水の戻った湖の物語を、最後まで見届けていただけましたら幸いです。

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