↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
2/3

第2話 花のない湖

皇女は、すぐには答えなかった。


机の上の地図から、水務記録へ。

水務記録から、染水試験の結果へ。

一枚ずつ、指で押さえるように見ていく。


ニンファは立ったまま待った。

窓の外で、皇女宮の噴水の音がしている。


やがてサージェッツァは、紙から目を上げずに言った。


「では、水を戻せるか」


ニンファは口を開きかけて、閉じた。


戻したい、なら言える。

旧湖の全部を元に戻せないことも分かっている。

数百年前の湖の上に、今は畑があり、道があり、人が住んでいる。


だが、どこまでなら戻せるのか。

どれだけの水が要るのか。

帝都のどこに影響が出るのか。

それは水景士の帳面一冊で答えられる話ではなかった。


「今は、分かりません」


サージェッツァが顔を上げた。


「水務局と調べます」


皇女は頷いた。


答えを教えもしなければ、急かしもしなかった。


◇


数日後、皇女宮の同じ執務室に、アスカーノが分厚い台帳を抱えて現れた。


現行の水利台帳。

帝都のどの水がどこから来て、どこへ行くかが全部書いてある。


技監はそれを机に開き、ニンファの古地図の横に置いた。


「旧湖の全域は戻せない」


最初にそう言った。


「湖の跡地には、集落や街道、畑が広がっている。水を戻せば、それが全部沈む。だが、聖蹟を含む窪地の部分なら、湿地として水を溜められる可能性はある」


ニンファは頷いた。

そこまでは、自分でも見当がついていた。


「次に」


アスカーノは台帳を叩き、サージェッツァへ目を向けた。


「生活用水には触れません」


皇女は腕を組んだまま、続きを待っている。


「古い記録では、旧湖の水は共同井戸や公衆浴場にも送られていた。だが、それは数百年前の話です。現在の水利台帳では、生活用水を維持したまま、装飾水側から再配分できます」


技監は台帳の頁を指でなぞった。


「旧湖へ回せるのは、皇宮庭園の装飾噴水に使っている水。皇女宮の噴水用水。貴族街の装飾水の一部。礼典院庭園の水。それから雨季の余剰水です」


ニンファは自分の帳面を開いた。


「水を戻すだけでは足りません」


小さな湿地槽で試したことを、もう一度並べる。

泥も、水草も、小魚も入れた。

それでも種は動かなかった。


あの槽になかったものが、本物の湖にはあった。


季節ごとに上がり下がりする水位。

絶えず入ってきて、絶えず出ていく流れ。

長い年月をかけて溜まる泥。

外から飛んでくる鳥、泳いでくる魚。


「一つの槽では、そこまでは作れませんでした」


言いながら、ニンファは自分の言葉に釘を刺した。


「ただ、湖を戻せば青睡蓮が咲く、とは言えません」


アスカーノが眼鏡越しに彼女を見た。


「花一輪の実験のために、水利は動かせない」


サージェッツァが、組んでいた腕を解いた。


「花のためではない」


短く、それだけだった。


奪った水を、今生きている者から奪わずに、どこまで返せるか。

話の焦点は、そこへ定まった。

湖を戻すことと、青睡蓮が咲くことは、別の問題として切り分けられた。


アスカーノが概算の紙を出した。

工事の規模。

必要な人員。

石材。

予算。


足りない。


サージェッツァは紙を一読して、ドレンを呼んだ。


「皇女宮の噴水を止めろ」

「かしこまりました」


侍従は書き留めもせずに頷いた。


「劇場も中止する」


ニンファは顔を上げた。


皇女は、あの窪地に何度も立っていた。

客席の位置を変えては舞台を眺め、最後列まで声が届くかと建築家に問い、西日が水面に落ちたときの見え方までニンファに尋ねた。


あれだけ細かく考えていた劇場を、今、一言で切っている。


「本当に……よろしいんですか?」

「私のものから減らすのが先だろう」


それ以上は何も言わなかった。


劇場のために確保されていた石材、木材、工事の人員、予算が、そのまま水路の復旧へ回された。

ドレンが帳簿を書き換える音だけが、しばらく部屋に響いていた。


ニンファは自分の帳面を握っていた。


殿下がそこまでしてくれた、という重みが、胸の底にひとつ沈んだ。


◇


皇宮の謁見の間は、皇女宮の執務室とは空気の重さが違った。


ニンファは礼服を借りて着ていた。

アスカーノは水務局の正装で、いつもより顔がこわばって見える。


サージェッツァは深緑の衣装だった。

宮廷の女官たちの装いとは違い、襟元を無理に詰めず、立体的な仕立てが豊かな胸元と細く締めた腰の線をそのまま見せている。


それでいて、玉座に向かって立つ姿勢には一分の隙もなかった。


ガレッツォ皇帝は、玉座から三人を見下ろしていた。

まず皇女に言った。


「劇場は中止でいいのか?」

「はい、陛下」


「お前の発案だったな」

「はい」


皇帝は少しの間、娘を見ていた。

それから、それ以上は何も聞かなかった。


「技監」


アスカーノが一歩出た。


生活用水への影響。

洪水の危険。

戻す水の量。

試験の区域。

復旧にかかる期間。

皇帝の問いは短く、アスカーノの答えも短かった。


ニンファは、自分の出番がないことに安堵しながら、二人のやり取りを聞いていた。


皇帝が最後に、彼女を見た。


「水景士。花は咲くのか」


ニンファは息を止めた。

玉座の前で、答えは一つしかなかった。


「分かりません」


皇帝は、娘の方を一度だけ見た。

それから頷いた。


「一雨季に限り、試験復旧を許す」


条件が五つ、読み上げられた。


飲用、生活、衛生の水を削らないこと。

洪水の危険を増やさないこと。

周辺の住民の同意を得ること。

水位、水質、生物の変化を記録すること。

青睡蓮の成否にかかわらず、結果を報告すること。


そして、聖櫃の種を旧湖の保護区画へ移すことも、この裁可の範囲に含めると付け加えられた。


それだけだった。


金も、水も、皇帝が一声で出したわけではない。

扉が一つ開いただけだった。


◇


削減の対象には、礼典院庭園の水も入っている。


ニンファとアスカーノは、サージェッツァとともに礼典院を訪ねた。


ニーブルム院長は書庫の一角で待っていた。


話は、まず水のことから始まった。


庭園の池と儀礼用の水盤に、どれだけの水が流れているか。

削ればどの儀礼に差し障るか。

代わりの手当てはあるか。


ニーブルムは一つ一つ帳簿を確かめ、アスカーノと数字を突き合わせた。

自分の管理する水を差し出す当事者として、渋りも、押しつけもしなかった。


水の話が終わったとき、ニーブルムが言った。


「一つ、伺ってよろしいか」


ニンファへ向けた言葉だった。


「なぜ、そこまでして湖を戻すのです」

「帝国が水を引いた記録が残っていました。今の暮らしを損なわずに返せる水があるなら、確かめるべきだと思ったんです」


ニーブルムは頷いた。


「その記録も、書庫で見つかった異本も、私は認めます」


そして続けた。


「ですが、一本の異本だけで正典を誤りとは断定できません。口承も、長い年月の間に変わります。成立の年代も、伝わった経路も、比べなければ分からない」


ニンファの中で、言葉が浮かんだ。


――なら、正典の方が間違っていたのでは。


口を開きかけて、止めた。


一本の異本で断定するなら、自分もまた、見たい答えだけを見ていることになる。

清らかな水という伝承に引きずられていたときと、同じだ。


ニーブルムは、彼女が何を飲み込んだか分かったような顔をした。


「口承も異本も、古いから正しいとは限りません」


サージェッツァが、書架に背を預けたまま言った。


「なら、違う記録が存在することまで消すな」

「それについて異論はございません」


ニーブルムは即答した。

それから、机の上の裁可書の写しへ目を落とした。


「種を旧湖へ移す件も、承知しました。裁可の条件と記録の手順を確認したうえで、私も立ち会います」


賛成に転じたのではない、とニンファは思った。


失いたくないという懸念は、この人の中で少しも減っていない。

ただ、正式に許された研究を、正式に見届ける側へ回っただけだ。


◇


皇帝の裁可が下りても、サージェッツァは工事を始めさせなかった。


旧湖周辺の集落で、住民への説明の場が設けられた。

石碑のそばに長机を置き、水務局の図面を広げる。


皇女は長靴を履いて来ていた。

集まった住民の何人かは、皇族と目を合わせようとしなかった。


ニンファが図面を説明し、アスカーノが水の量と水門の位置を示した。


反発は、当然のように出た。


「畑はどうなる」

「水が戻ったら、洪水は起きないのか」

「皇室の聖地にするなら、わしらは入れんのだろう」

「漁は。漁はできるのか」

「花のために、わしらを追い出すのか」


ニンファは一つずつ答えた。

畑は沈まない位置に水位を抑える。

洪水は水門で調節する。

答えるたびに、次の問いが来た。


一番奥の家の老女が、籠を編む手を止めずに言った。


「昔は皇族の都合で水を持っていったそうですな」


場が静かになった。


「今度は皇族の都合で返すんですかの」


ニンファは、言葉を失った。


隣にサージェッツァがいる。

皇女が答えれば、少なくともその場では反論しづらくなる。


サージェッツァは、答えなかった。


腕を組んで、ニンファを見ていた。


ニンファは図面を見た。

アスカーノと詰めた、水門の位置を示す線。

水と泥と魚のことだけを考えて描いた図だった。

そこに、人が入っていなかった。


「……水門の管理には、この集落からも代表を出していただきます」


自分の声が、少し掠れた。


「戻った水は、漁場として使える形にします。湖は皇女宮の庭にはしません。礼典院だけの聖域にもしません。見物のために水位を上げ下げすることもしません。この先、大きく変えるときは、必ずここで話し合ってからにします。試験の間、畑や洪水のことは水務局が見張ります」


言い終えてから、アスカーノを見た。

技監は何も言わず、図面の隅に小さく書き込みをした。


老女は籠を膝に置いた。


「それなら、話を聞いてもよろしいかの」


老女はそう言って、また籠へ目を落とした。


周囲の男たちが顔を見合わせた。

やがて、日焼けした年かさの男が一歩前へ出て、水門と漁場の条件をもう一度確かめた。

条件付きでなら、という話になった。


皇女は最後まで、一言も口を挟まなかった。


◇


染水試験で確認した古い水路網を手掛かりに、復旧工事が始まった。


帝都へ抜ける導水路には流出量を調整する水門を設け、旧湖へ水が入る側の流入路も掘り起こしていく。


技監が流量と水門を見て、ニンファが水の入り方を見た。


浅瀬を作る場所。

泥を残す区域。

流れを弱める石の置き方。

水草を残す場所。


ニンファが言い、アスカーノが数字で返し、二人で図面を直した。


どちらが上ということはなかった。


古い石組みの前で、ニンファは一度、父を呼んだ。


父は石を一つ一つ手で撫でて、幾つかの石を指した。


「ここと、ここは後から入れた石だ。切り方が違う」

「いつ頃か分かる?」

「石だけじゃ年代までは分からん。切った奴の癖なら、少しは分かる」


それだけ言って、父は帰った。


帝都では、皇女宮の噴水が止まった。

皇宮庭園の噴水の一部が止まり、貴族街の装飾池へ回る水が減り、礼典院の庭の水盤が浅くなった。


「皇女の道楽で噴水まで止まった」


そういう声を、ニンファは市場で聞いた。

皇女宮に届く抗議も増えているらしい。

サージェッツァは、何一つ反論しなかった。


雨季が来た。


最初の水が旧湖跡へ入ったのは、雨が三日降り続いた朝だった。


ニンファは水門の脇に立っていた。

復旧した流入路の奥から、音が先に来た。

それから、濁った泥色の水が、石組みの隙間を押し広げるように流れ出した。


綺麗な水ではなかった。

泥と、砂と、落ち葉を巻き込んだ茶色い水だった。


それが、窪地へ広がっていく。


あの日、皇女が長靴で降りていた穴のあった場所。

舞台を置くはずだった低み。

客席になるはずだった斜面の足元。

乾いた灰色の泥が水を吸って黒くなり、やがて水面になった。


ニンファは、ただ見ていた。


数日で、水面を小さな虫が走った。

夜、蛙が鳴き始めた。

浅瀬に小魚が見えた。


どこから来たのか、ニンファには分からなかった。


水草が芽を出し、そして、少し遅れて、水鳥が降りた。


設計通りにはならなかった。


水鳥はニンファが浅瀬を作った場所ではなく、泥が溜まった別の隅に降りた。

蛙は流れの弱い場所ではなく、石組みの隙間で鳴いた。

泥は予定より下流へ流れ、想定していなかった場所に新しい浅瀬ができた。


図面どおりではなかった。

それでも、水辺は日ごとに姿を変えていた。


ニンファは戸惑いながら、それを見守った。まだ、種のことが頭にあった。


◇


種を移す日、ニーブルムが来た。


皇女宮の裏庭の湿地槽から、ニンファが自分の手で種を取り出した。

位置は記録してあったから、探すのに時間はかからなかった。


何か月も泥の中にあった種は、沈める前と、見た目には何も変わっていなかった。


ニーブルムが裁可書の写しと記録の帳面を確かめ、頷いた。


旧湖の北側の浅瀬に区画が設けられていた。

杭を打ち、縄を張り、立入を制限する。

水深を測る。

種を沈める位置を図面に記し、杭からの距離も測った。

目印は簡素な杭一本だった。

閉じ込める容器も、網も使わない。

種は泥の中に置かれるだけだ。


ニンファは膝まで水に入り、種を泥に沈めた。


礼典院の資料室で図譜を見ながら「咲かせられたら」と思った、

あの日のことを思い出す。

あのときの高揚とは違う重さが、今は手の中にあった。


サージェッツァは岸に立っていた。

何も言わなかった。

「咲け」とも、「今度こそ」とも。


ニーブルムも、祈りの言葉一つ唱えなかった。


種は、ただ泥へ入った。


◇


数日。

変化なし。


一週間。

変化なし。


さらに数週間。


湖は変わり続けていた。

蛙は増え、鳥の種類も増え、水草は北側の浅瀬を覆い始め、魚影は日ごとに濃くなった。


青睡蓮だけが、なかった。


帝都の噂が変わった。


「劇場を潰して泥沼を造っただけだ」

「肝心の聖花はどうした」


皇女の穴掘りを笑っていた声が、今度は失敗として語り始めていた。

ニンファには反論する材料がなかった。

実際、花は咲いていない。


その頃、礼典院から使いが来て、短い写本断片の写しを一枚届けた。

ニーブルム側の追加調査で見つかったという。


ニンファはその場で読んだ。


虫食いだらけで、意味の通る文は二行もない。

「水を守る者」という語だけは読み取れた。


花についての一文も残っていたが、肝心な箇所は虫に食われていた。


帳面の、異本を書き写した頁に続けて内容を記し、日付と出所を書いた。

これ一枚で何かを決められるものではない。

それで帳面を閉じた。


新兵訓練所から、弟の手紙が届いた。


飯がまずい。

上官が怖い。

靴擦れが治った。

そういう近況が続いて、最後の一行に、


青睡蓮、もう咲いた?


とあった。


実家の食卓で身を乗り出していた弟の顔が浮かんだ。


ニンファは返事を書き始めた。


青睡蓮は――


そこで筆が止まった。


サージェッツァは劇場を捨てた。

皇女宮の噴水も止まっている。


皇帝は裁可を出した。

アスカーノは水務局の人員を割いた。

住民は水門の管理に加わり、湖の再生に手を貸した。

父は石を見に来た。

母は何も言わずに見守っている。

弟は、咲いたかと聞いてくる。


咲かせたい、だった。


それが、いつの間にか、咲かせなければ、になっていた。


責任なのか、欲なのか。

ニンファには、もう区別がつかなかった。


◇


「一度、掘り出して確かめてはどうでしょう?」


皇女宮の園芸技師が、遠慮がちにそう言ったのは、雨季も終わりに近い頃だった。


種が泥の中でどうなっているか。

腐っていないか。

位置がずれていないか。

まずは外から状態を確認する。そこから先へ手を加えるなら、改めて許可を取る必要がある。


技術的には、筋の通った提案だった。


危険もある。

掘り出す途中で傷つけるかもしれない。

外からの確認だけでも、今の環境を壊す可能性はある。


ニンファは、帳面に手順を書いた。

掘り出す位置。

使う道具。

水を抜く範囲。


書きながら、自分でも分かっていた。

種を失う怖さより、結果を出せない怖さの方が、今は大きい。


必要な記録と連絡を済ませ、作業は翌朝と決めた。


その夜、ニンファは道具を並べていた。

小さなこて。

目の細かい篩。

布。

灯りの下で一つずつ確かめて、最後に帳面を手に取った。


明日の手順を読み返すつもりだった。


頁をめくる手が、その手前で止まった。


書庫で見つけた異本。

礼典院から届いた追加断片。

老女の歌。

水守の記録。


四種類の記録が、帳面の中に揃っていた。


ニンファは何度も頁を行き来した。


文章は、一つも一致しない。

異本は「見た」と言い、断片は「守る者」と言い、歌は「捨てれば死ぬ」と言い、水守の記録は漁の数と水位を書いているだけだ。


だが、並べると、向きが同じだった。


どれも、花だけを語ってはいなかった。

花の周りにある水や、人の営みまで、一緒に残していた。


一輪の花を称えるな。

花を支える水を見よ。


水だけを称えるな。

水を守る人々を見よ。


花は、己のために咲く。


そういう形に、ニンファの中でつながった。

どこにもそう書かれてはいない。

四つの資料から、自分が組み上げた形だった。


ニンファは灯りを持って、外へ出た。


夜の湖には、低い音が満ちていた。

蛙の声。

水鳥が羽を畳む音。

水門の脇に、住民の一人が見回りの灯りを揺らしている。

浅瀬の水草の影。

泥の匂い。


そこまで見て、ようやく気づいた。


青睡蓮を救おうとして、湖を調べ始めたはずだった。

それがいつの間にか、自分が青睡蓮を咲かせるために、湖を使おうとしている。


この水も、この蛙も、水門を見ている人も、全部、花を咲かせるための道具に変えようとしている。


翌朝、ニンファは保護区画の縄の前に立っていた。


園芸技師が、道具を抱えて隣に立った。

水を抜く準備はできている。


ニンファは動かなかった。


「確認しないんですか?」

「……確認したいです」


嘘は言わなかった。

確かめたい。

今すぐ泥を掻いて、あの種がどうなっているか、この目で見たい。


「咲かせたいんです。私が」


初めて、口に出した。図譜を見た日から、ずっと抱えていた言葉だった。


それから、湖を見た。


北側の浅瀬。

水草。

その先で、蛙が一匹、水に飛び込んだ。


「でも、もうこれは、あの種を咲かせるための湖ではありません」


技師が、道具を下ろした。

掘り返しは、中止になった。


ニンファは自分の作業帳を開き、「青睡蓮発芽」の文字の横に、「旧湖水環境再生」と書き加えた。


咲いてほしい。今でも思っている。


◇


その夜、止まっていた手紙を書いた。


長い説明はしなかった。

近況を二行書いて、最後に、


青睡蓮は、まだ咲いていません。

でも、湖は戻りました。


と書いて、封をした。


翌日、皇女宮へ上がった。


サージェッツァは執務室で書状に目を通していた。

ニンファは机の前に立ち、順に告げた。


青睡蓮は発芽していない。

種が生きているかも分からない。

掘り返しは中止した。

それでも、湖の再生は続けたい。

研究の目的と予算の項目を、書き換えたい。


言い終えて、何か言われるのを待った。


「そうか」


それだけだった。

ニンファは、拍子抜けした。


サージェッツァは書状を一枚めくった。


「なら、その内容で予算申請を書き直せ」


褒めもしない。

説教もしない。


「……はい」


◇


最終の会議は、皇宮で開かれた。


ガレッツォ。

サージェッツァ。

ニーブルム。

アスカーノ。

湖畔の集落から代表として来た、日焼けした男。

そして、ニンファ。


ニンファは、最初に言った。


「青睡蓮は発芽していません」


その上で報告した。

水質は安定している。

水位は想定の範囲に収まり、雨季の増水でも畑には達しなかった。

帝都の生活用水に影響は出ていない。

蛙、魚、水鳥、水草。

漁が再開できる見込み。

水門の管理は住民と水務局の共同で機能している。


数字は、アスカーノが用意した紙にまとめてあった。

ニンファはそれを読み上げず、要点だけを言った。


言い終えると、アスカーノが一歩出た。


「水利上の報告は、エアの説明の通りです」


それだけだった。

「花は専門外だ」と言った技監が、自分の領分について、水景士の報告をそのまま認めた。


ニーブルムが続いた。


正典は残す。

異本を唯一の真実とはしない。

正典、異本、湖畔の口承、水利の記録を、成立の経緯が異なる史料として区別し、それぞれ保存して公開する。


皇帝は、全員を順に見た。


「旧湖の保全を、恒久のものとする」


旧湖は、皇室の庭園にはしない。

皇女の私有地にもしない。

礼典院だけの聖域にもしない。

帝国水務局と湖畔住民の共同管理地とする。


「あわせて、旧湖の導水事業に関する皇室水利史料を公開する」


皇帝はそれ以上の言葉を足さなかった。


そして、ニンファを見た。


「水景士エア。旧湖水苑守を命じる」


◇


会議が終わって、ニンファは旧湖へ戻った。


かつて乾いた荒れ地だった場所に、水があった。

泥があり、水草があり、魚の影が走り、蛙が鳴き、水鳥が二羽、北側の浅瀬に浮いている。


青睡蓮だけが、なかった。


一番奥の家の前で、老女が籠を編んでいた。


ニンファが近づくと、老女は手を止めずに言った。


「残念ですかな?」


ニンファは、少し考えた。

いいえ、と言えば嘘になる。


「はい」


老女は頷いた。


ニンファは水面を見た。

夕方の光が低くなって、浅瀬の水が鏡になっている。

あの日、皇女に舞台からの見え方を聞かれたのと、同じ光だった。


「でも、来年も水はあります」


老女は、籠の縁を指で押さえた。


「それはよろしい」


老女はそれ以上何も言わず、また籠に目を落とした。


浅瀬で、水鳥が羽を一度大きく広げて、また畳んだ。


水面の光は、まだ揺れていた。

青睡蓮は咲かない。

それでも、湖は戻りました。

そして一年後、今度はサージェッツァ皇女の視点から旧湖を訪れます。

最終話「二千五百年目の青睡蓮」へ続きます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。