第2章 噂と影(2)
ミヨクは目の前の光景に立ち尽くす。まさかゲルミリアにいるとは思いもしなかった人物がいた。
ソニアとクレメンスはミヨク達の方を振り向く。クレメンスは相変わらず柔らかな笑顔をしていたが、ソニアは不機嫌そうに眉を顰めてミヨクを睨む。おそらくミヨクの驚きの声が聞こえたのだろう。
確かに、ヘンシェル家の本家はゲルミリアにあることはミヨクも知っている。しかし里帰りというわけでもないようだ。マーティン教授と同席していることが良い証拠だろう。
「ミヨク。なに呆けているんだよ」
ギルバートに肩を叩かれて、ミヨクは我に返る。既にマーティン教授に声を掛けられた後だ。知らない振りをして去るわけにはいかない。ミヨクは決心してソニア達がいる席へ向かう。
「こんにちは。マーティン教授、クレメンス先生。それに……ソニア……」
ミヨクとして普通に挨拶をしたつもりだったが、名前を呼ばれた時にソニアが口を尖らせた。それでもマーティン教授の前だからか、笑顔を作って明るく挨拶を返してくる。
「ええ、こんにちは。研修はちゃんと頑張っているかしら」
「ああ、もちろんだよ」
とにかく今は愛想良く振る舞おうとミヨクも判断した。ただ、よく考えてみればミヨクとソニアが仲良く話しているという光景は、マーティンからすれば意外なものであっただろう。とはいえすぐに合点がいったようだ。
「オー。そういえば、ソニア・ヘンシェル様はメイスラにいらっしゃいましたね。学園のご学友ということですね」
「ええ、まあ、そういうところです」
ソニアが困惑した風な声色で答える。おそらくミヨクもソニアと同じ気持ちだ。ここがゲルミリアでよかった。メイスラだったら余計なことまで訊かれかねない。
「話も終わりましたし、お友達と歓談してください。私は失礼します」
そう言うと、マーティン教授が自分のトレイを持ちつつ立ち上がる。続くようにソニアとクレメンスも立ち上がった。
「はい。では、明日はよろしくお願いします」
「ええ、こちらこそよろしくお願いします」
それからマーティン教授はミヨク達にも別れの挨拶をし、店にトレイを返却してから去っていった。
さて、気を遣う相手がいなくなったからか、ソニアは不服そうな表情を隠さなくなった。そして真っ先にミヨクを睨みつける。
「さっきの声、聞こえたわよ。私を見て、げっ、って言ったでしょ。そんなに、私に会いたくないかしら」
ソニアの後に続くようにエルフリーデとギルバートが苦言を呈する。
「ミヨク、いくら親しい仲といっても礼儀というものがありましてよ」
「この様子じゃあ、先が思いやられるね」
ソニアを見て嫌そうな顔をして嫌そうな声を出したことについては、ミヨクは捻じ曲げるつもりはない。しかしミヨクにも言いたいことがあるというものだ。
「いや、ソニアがここにいて、しかもマーティン教授と話してたってことは、まだ事件が起きてないにしても、研修会場で怪しい動きがあるってことだろ」
メイスラ屈指の防犯組織であるヘンシェル教会のメイスラ支部長ソニア・ヘンシェルがわざわざゲルミリアに足を運んでいるということは、事件の発生を匂わせていると言っても過言ではない。ミヨクもソニアに会いたいという気持ちはあるが、事件に巻き込まれたいとは思っていない。
ミヨクの言葉の意図を察したようで、ソニアは打って変わって大人しい口調でミヨクに語りかける。
「そうね。そう思うのも無理はないわ。実際に、私とクレメンスが明日のマーティン教授の講義を見学させていただくことになっているの」
表向きには見学であるが、要するに監視であることはミヨクもすぐに察しがつく。そしてミヨクが勘付くのは仕方ないと考えているのか、ソニアは変に明るい口調にすることもなく、淡々と伝えてきた。
やはり今回の研修旅行もしくはマーティン教授に不穏な事情が隠されているのだろう。ソニアが悪いというわけではないが、ミヨクにとって楽しい研修旅行が怪しいイベントに変貌してしまった。
ミヨクはあまりにも難しい表情をしてしまっていたようで、ソニアが神妙な面持ちでミヨクを見つめる。
「けど、ミヨク達が安心して研修を受けられるようにするわ。万が一、何か不測の事態が起きたとしても、あなた達の安全は私達が守る」
こうも真剣に言われては、ミヨクも文句を言うわけにはいかなくなった。そもそもまだ事件が起きたわけではない。今のところは純粋に研修旅行を楽しもうと気持ちを切り替える。
「分かった。ソニア達を信じてるよ。ゲルミリアまでわざわざありがとう」
ミヨクがそう言うと、ソニアも少しだけ頬を緩めた。
「いえいえ、これも仕事だから」
いつの間にか重い雰囲気は消えていた。緊張が解けた途端に、ミヨクは空腹を思い出す。このハンバーガー店に来たのは、そもそも昼食を取りにきたからだ。さらにミヨクはちょうど良いタイミングでここに来たらしい。
「そう言えばソニア、昼食はもう取ったのか? ここでは食べてなさそうだけど」
ミヨクはソニアが座っていた場所のテーブルをもう一度だけ見る。カップがあるだけで、料理が乗るような皿はまったくない。
「ええ、まだ食べてないわ。コーヒーを飲んだだよ」
ソニアがそう答える。ならばミヨクとしては話が早い。
「これから俺達、ここで昼食にしようと思ってたんだ、折角だし一緒に食おうか。クレメンス先生もどうですか?」
ミヨクが訊くと、クレメンスが先に頷いた。
「いいですね」
次にミヨクがソニアを見遣ると、ソニアも照れ臭そうに頷く。
「まあ、別にいいわよ」
ギルバートとエルフリーデには何の了承も得ていないが、二人とも文句を言うことはないだろう。ミヨクはそう思ったのだが、どうやら簡単な問題でもないらしい。
「えっ、ええぇぇっ!」
ミヨクの後ろで驚きの声が上がった。喜びとも困惑とも取れる女の子の甲高い声だ。ミヨクは顔だけを後ろに向け、意地悪そうな笑みを浮かべてエルフリーデを見遣る。
「おいおいリーデちゃん。あのソニア・ヘンシェル様とお食事ができるっていうのに、まさか断ることないよなぁ?」
なにせエルフリーデにとっては憧れの人との食事だ。願ってもいない幸福の機会であるはずだ。先程はミヨクがソニアに会うことを不服に思っているのではと怒っていたエルフリーデだったが、今度はエルフリーデがソニアを避けているように見えなくもない。
ミヨクは挑発してみるが、エルフリーデは未だに動揺しているようだ。その様子を見兼ねたのか、ソニアが咎めるように言う。
「ミヨク。そんな言い方しないの」
それからソニアはエルフリーデの方を向き、日曜礼拝に来る子供達を相手にする時のように、慈愛に満ち溢れた微笑みを見せる。
「あの、エルフリーデ・リヴィングストンさん。別に、怖がらなくていいわよ。私もいつかあなたとゆっくり話がしてみたいと思っていたの。折角こうして出会ったのだから、もしよければで構わないから、一緒にお食事をしましょう」
ソニアの誘いを聞いている内に緊張が解けてきたのか、エルフリーデの硬い表情が段々と柔らかくなっていった。
「分かりました。是非ご一緒させてくださいまし」
それからミヨク達はハンバーガーを注文しに行った。エルフリーデが注文する時、初めはミヨクとギルバートが注文の方法を説明しようとしたが、途中でソニアがおすすめのセットを言ったので、エルフリーデはその通りにした。
ソニアとエルフリーデが頼んだのは、パティとトマトとレタスを挟んだ至ってシンプルなハンバーガーだ。始めてハンバーガーを食べるならオーソドックスなものが良いとソニアが選んだのだ。それでいて、次にハンバーガー店へ一緒に来るようなことがあれば別のメニューをおすすめするとソニアはエルフリーデに語っていた。
さて、ミヨク達五人はそれぞれ注文した料理を運び、テラス席を囲んで昼食を始めた。円卓であり、ソニアの両隣がミヨクとエルフリーデという配置になる。エルフリーデは初めは恥ずかしがっていたが、ソニアが優しく迎えると、大人しくソニアの隣の席に着いた。
食事を始めてからしばらくすると、ソニアがエルフリーデに声を掛けた。
「リヴィングストンさん」
ソニアがそう呼ぶと、エルフリーデが応じる前に、ミヨクが会話に割って入る。なにも二人の邪魔をするためではない。むしろ彼女達がコミュニケーションを円滑にできるようにする一助になればと思ってのことだ。
「ソニア。エルフリーデで良いと思うぞ。なんならリーデと呼んでやってくれ。それでいいだろ、リーデ?」
ミヨクが言うと、エルフリーデは決心したように首を大きく縦に振る。
「ええ、そう呼んでくださいまし」
エルフリーデの返答を聞いて、ソニアは数秒だけ目をぱちくりさせていたが、その後に嬉しそうな笑みを浮かべる。
「分かったわ、リーデ。ところで、こんな形で言うのも変かもしれないけど、高等部の首席卒業おめでとう。本当は私も表彰の依頼を受けていたのだけど、仕事で行けなかったのが残念だったの。とにかく直接お祝いを言えてよかったわ」
ここまでソニアとでも自然な感じの会話を続けていたが、何か返事に困ることでもあるのか、エルフリーデは緊張感がぶり返してきたように俯いてしまう。
「ありがとうございます。でも……ミヨクを差しおいて首席になったのは、なんだか申し訳ないですわ」
変なところで気を遣うエルフリーデだった。ミヨクとソニアの関係を考慮しての発言だろう。どこまで察しているかはさておき、ソニアは落ち着いた素振りで首を横に振る。
「そんなこと、考えなくていいのよ。ねえ、ミヨク」
「ああ、そうだぞ。リーデ」
エルフリーデは首席に相応しかったとミヨクも認めている。そもそも首席に対する拘りはたいして強くない。そんなことより、エルフリーデがソニアとさらに打ち解けてきたようで、ミヨクも嬉しく思う。
そんな何気ない会話の一幕だった。ミヨクがふとあることを思い出し、ソニアに話しかける。
「ところでさぁ、ソニア。ちょっと訊いてみたいことがあるんだけど、答えられる範囲でいいから答えてくれよ」
「ええ、何かしら?」
研修旅行が始まってからちらほらと耳にする言葉がある。もしかしたらソニア達はそれを調べにゲルミリアまで来たのかもしれないと思ってミヨクは質問してみた。
「『深紅の鍵』って何か知ってる?」




