第2章 噂と影(3)
研修旅行二日目の夜。
ミヨクと真守はバルナサス・オルブライトの試合を観るために。魔術戦のスタジアムに来ていた。もちろんこの試合観戦は研修プログラムには組み込まれていないのだが、特別に試合の時間帯は自由行動ができるように研修旅行の運営側も便宜を図ってくれたようだ。人気選手の試合ということで、ミヨクと真守以外にも、観戦に来た研修参加者は少なくないだろう。
観客席に座り、試合開始を待っている間、真守はふとこんな話題を振ってきた。
「それで、『深紅の鍵』のことは聞けなかったわけですね」
真守の問いに対して、ミヨクはあっさりと首を縦に振る。
研修旅行の一日目からちらほらと耳にする言葉だ。『深紅の鍵』というものがゲルミリアに存在するらしい。その鍵が、錠を開ける鍵そのものなのか、何かを表す別の物なのか、もしくは形のある物ですらないのかは定かになっていない。
ただ、異世界に関係のある何かであるらしいという噂はミヨクも把握している。だからソニアに訊いてみたのだが、結果は空振りに終わった。
「ああ、そんなこと訊いてくるなって顔されながら、知らないって言われた」
ミヨクが『深紅の鍵』について訊いた時、ソニアはまず目を少しだけ見開いた。驚きを隠し切れなかったようだ。そしてミヨクもソニアの反応に気付いたように目を見開いてしまったので、ソニアには気付いたことに気付かれた。
その後は真守に話した通りである。ソニアに睨まれて、ミヨクはそれ以上探りを入れることができなかった。そもそもあらかじめ「答えられる範囲で」とミヨクから言ったのだ。ソニアが知らない振りをしたことにミヨクも文句を言うつもりはない。
しかしソニアの反応は妙だったとミヨクも思わざるを得ない。あれではソニアが『深紅の鍵』を調べていると白状しているようなものだ。もしかしたらゲルミリアに来た目的がそれなのかもしれない。
「何なんだろうな、『深紅の鍵』って。やっぱり吸血鬼に関係あることなのかな?」
深紅という言葉は何となく血液を連想させられる。二日目の午前の時点では、ミヨクもそんないい加減な想像をしていた。しかしゲルミリアでソニアに遭遇したことで、強ち的外れではないのではないかと考えさせられた。
ソニアはエヴォーダーで吸血鬼を倒した。しかも普通の魔術師では倒すことができないであろう過剰摂取型だ。黒い炎の詳細が魔術連盟の中でどれだけ知られているのかミヨクには分からないが、吸血鬼に関する専門家として認められていてもおかしくはない。そのソニアがわざわざゲルミリアに派遣されたのだ。
そんなことを考えている内に、試合開始五分前のアナウンスが流れた。『深紅の鍵』やソニアのことならば試合終了後でも話ができる。
「って、考えても分からないことは後回しだな。今はバルナサスの試合だ」
ミヨクにとって待ちに待った時間が訪れる。バルナサスの試合を観るのはこれで三回目だ。
バルナサス・オルブライト。ミヨクが憧れているエーテル属性の魔術師だ。風貌は魔術師というより格闘家である。身長は百九十センチメートルを超えていて、かなり筋肉質な身体だ。顔も優しそうな感じはするものの、髭を蓄えていて、野性的な顔立ちをしている。
その見た目に違わず、戦い方もかなり大胆だ。エンチャント魔術で拳にエーテルを溜めて、拳を振るうと同時に放出する。生半可な防御は簡単に吹き飛ばしてしまう程の威力を持っている。バルナサスはその強大な攻撃で多くの敵をなぎ倒してきた選手として有名である。ミヨクが過去に観たバルナサスの試合もそうであった。
そして今日のバルナバスの試合も例外ではなかった。五セットマッチなのだが、三セットストレートでバルナバスが勝利したのだ。どのセットも一分も経たない内にバルナバスが相手のガードを打ち破り、あっさり取ってしまった。結果だけ見ればバルナサスのワンサイドゲームだったが、ミヨクを含めほとんどの観客はバルナバスの豪快な戦いに満足したようで、大歓声が巻き起こった。
「今日もすごかったな、バルナバス。やっぱりかっこいいぜ」
ミヨクは満面の笑みで真守の方へ振り向く。いくら戦闘のスペシャリストである真守でもバルナサスの戦いには目を奪われたはずだ。ミヨクはそう思ったのだが、真守は浮かない顔をしている。
「どうしたんだよ。具合でも悪いのか?」
「いいえ。体調は良いですよ。でも、腑に落ちないことがありまして……」
「なんだよ……?」
あまりにも一方的な試合だったのでつまらなかったのだろうか、とミヨクは勘繰っていたが、真守は全然違うことを思い巡らせていたようだ。
「確かに、オルブライト選手は強い人だと思います。けど、みよ君がそんなになって熱狂するような強さだとは思えないです」
「おいおい。さっきの試合見ただろ。圧倒的だったじゃねぇか。バルナバスはトップクラスの魔術師だぞ」
「だから、あの方が相当強い人だってことは私も分かっていますよ」
ミヨクには訳が分からなかった。しかし真守の方も、ミヨクが訳を分かっていないのが訳が分からないと言いたげに首を傾げる。それから不満を隠そうとせず露骨に溜息をついた。
「どうして、みよ君はいつもそうなのでしょうね」
「だから、どういうことだよ?」
ミヨクが訊くと、真守は意を決したかのように息を吐いてから語り始めた。
「みよ君。オルブライト選手のこと、まるで自分とは次元が違う強さのように言っていますけど、みよ君とあの人の実力差はあまりないように見えましたよ」
ミヨクは最初、真守の言っている言葉が理解できなかった。というより何かを聞き間違えたと思った。しかし、しばらく黙って考えていると、真守が観客席でとんでもない爆弾発言をしていたことを認識する。
ミヨクは我に返るとすぐに真守の口を塞いだ。女の子にそんな狼藉を働くのは良くないのは分かっているが、そうしないと真守やミヨクに危機が及びかねない状況だ。意外にも真守はされるがままになっている。
「真守、お前馬鹿か……?」
ミヨクは小声で真守に言い、それから周りを見回す。案の定、周りの人間がこちらを見つめていた。数人からは若干の敵意も感じる。さすがにゲルミリアでも英語はちゃんと通じているようだ。ミヨクが苦笑いを周囲に向けると、やがて周りの人間もこちらから視線を逸らして散らばっていった。それを確認すると、ミヨクは真守から手を放し、日本語で話し始めた。
「せめて、そういうことは日本語で話せよ」
「ああ、そうですね。それは迂闊でした。ごめんなさい」
メイスラでは、ミヨクは真守と話す時でも英語を使う。しかし日本にいないからと言って日本語が通じる人にも日本語を話してはいけないということはない。日本語ならば、この場にいるほとんどの人間は聞き取れないだろう。
「それにしても、俺とバルナバスが互角なんてことはあり得ないだろ。そんなこと言い出すから周りから変な眼で見られたじゃねぇか」
やっとのことでミヨクは先程の真守の発言に反論できた。しかし真守も文句があるようで膨れっ面を見せる。彼女にとっての反省点は、発言が間違っていたことではなく、日本語で話さなかったことだけらしい。
「またそうやって……。自分を卑下しないでくださいって、いつもいつも言っているでしょう。どうしてみよ君はいつもいつもそうなってしまうのですか?」
今度は真守の方が不満そうに言い放つ。ミヨクはたじろぎながらも、慌てて言い返す。
「いやいや、確かにへたれる時があることは認めるけどよ、このことに関しては別に間違ったことは言ってねぇだろ」
バルナサスは世間からアルティメットベーシックだと評価されている。エーテル属性という基本属性を適正としていながら、その基本を極めた者にのみ与えられる称号だ。自分がその領域に辿り着いているとは、ミヨクには到底思えない。
ミヨクの自己評価が過度な謙遜ではないと思うようになってきたのか、真守は不機嫌な表情から段々と無表情へ変わっていく。しかしミヨクの言葉に首を縦に振ろうとはしないし、一向に口角を緩めようとしない。ミヨクは黙ったままではいられなかった。
「なんだよ……。その納得してませんって顔……」
「別に……。そろそろ行きましょう」
折角の試合観戦だというのに、喧嘩したような雰囲気になってしまった。ミヨクは真守と一緒に観客席を後にする。そのまま何も話すことなくスタジアムを出ようとしたところで、男性の野太い大声が聞こえてきた。
「今から、大戦士バルナバス・オルブライトのサイン会をやるぜ。欲しい奴らは西広場まで来やがれぇえ!」
ミヨクは油断していた。メイスラで観戦しに来た時にはサイン会など行われなかった。だからそういうイベントが存在することなど考えてもいなかった。しかも今はかなり都合が悪い。
「うそだろ。そんな……これから講習があるっていうのに……」
現在八時を少し回ったところだ。九時から研修旅行のプログラムとして、夜間の魔術戦トレーニング講習がある。今からトヴェルレダン城に戻るには十分な時間があるが、サイン会に行っていては講習には間に合わない。
ミヨクは大事な用事をすっぽかしてまで趣味に興じるつもりはない。しかしバルナサスのサインをもらえる機会がこの先あるのかどうかは分からないと考えると、サイン会に行けないことが哀しくてたまらない。
そこで真守が声を掛けてきた。ミヨクが思っていたより機嫌が悪いわけではなかったらしい。
「サインくらい、私がもらってきますよ。みよ君は講習を頑張ってください」
確かに真守は魔術師ではないので、魔術戦の講習を受けない。この後の予定もないだろう。それはともかく救世主が現れてくれた。ミヨクは真守の両手を自分の両手で包む。
「ありがとう。真守、本当にありがとう」
「あっ……はい。任せてください」
真守が全てを託すと、ミヨクは急いでトヴェルレダン場へと駆けていった。
後になってミヨクは気付く。ミヨクに両手を握られた時、真守が戸惑っていたような素振りを見せていた。やましい気持ちはなかったものの急に女の子の手を掴んでしまったことは配慮に欠けていたと、ミヨクは反省するのであった。




