第2話 メリザンド
その時、町は夕焼けによって隅々まで赤く染められていた。気の早い点火夫によって、ぽつぽつと街灯に火が灯されはじめた夕暮れの大通りには、そこそこ人が歩いていた。まだ辺りは薄明るく、夕飯の支度もそろそろできる、仕事もひと段落ついた頃合いだ。
どこからか香辛料をたっぷり利かせた羊肉を焼くいい匂いがあたりに流れてきて、それに急かされるように人はみな家路を急いでいた。
そこで、最初に声を上げたのは、誰だったのか。
誰かが思わずあげた奇妙な叫び声に釣られて、人々はみな声の方へ頭を巡らせた。薄闇の中に突如現れたその異形は、いろいろな旅人を見慣れているはずの町人の度肝を抜いた。
その男は流行の型とはいいがたいが、上質な濃い茶の毛織の上着とズボンを身につけ、肩にはいかにも高そうな毛織の黒っぽいマントをはおっていた。靴は柔らかそうな革のブーツで、すれて傷が付き泥で汚れてはいるが、これも物自体はよさそうだ。
背は高く肩幅も広く、見栄えは悪くない。腰に下げている剣は、美しい意匠の施された鞘に収まっているが、かなり使い込まれた様子がみてとれる。旅人にしては不思議なことに、それ以外に荷物は持っていない。
だが、誰もそんな身なりなど見てはいなかった。何よりも男の首から上が問題だったのだ。
男のがっしりとした広い肩から上には、真っ黒な霧状の何かがまつわりつき、すっかり頭を覆い隠している。顔立ちどころか、肌の色も髪の色もまったくわからないほど、その霧は濃い。
それはまるでろうそくの炎のように上に行くほど細くなり、頭上から三フィートほどの高さまでゆらゆらと立ち昇っている。まるで黒い炎の巨大なろうそくのようだ。体格から男であろうと思われたが、年のころは老人でもなく少年でもない、という以外まったくわからない。
男が歩くと、その霧はゆらりと揺らぎ、それでいて男の頭からまったく離れようとはしない。少し強めの風が吹いてもそれで乱されることはまったくなかった。
多少変わった旅人に慣れた鷹揚なこの町の人々も、いいものか悪いものかの判断すらつかない、いや、どちらかといえば多分に悪い方へ比重の傾いているこの霧男には、誰も声すら掛けなかった。一様に薄気味の悪いなにかを感じていた。
男が無言のままゆっくりと大股で歩くと、人々は壁に背を押しつけるようにして道をあけた。
だが、人々はみな緊張にそそけだった青白い顔をしつつも、怖いもの見たさの一心か、魅入られたように怪しい男のあとをついていく。また、家の窓から顔を出している者も増えた。歩くにつれ、どんどん人は増えていくが、男は周りの視線に頓着した様子もない。誰にも関心がなさそうだった。
男は、やがて町の中央、瞳に当たる部分に位置している丸い広場についた。
ここは町のどの部分からでも迷わずまっすぐに来られるようになっていて、四方に路地が伸びている。祭りなどの行事ごとがあったときに、町のみんなが一同に集まれることを考えたため、それなりの広さがある。
端の方には、夕飯を求めてやってくる客のために店じまいしそびれた食べ物屋の屋台がまだいくつか残っているが、中央のあたりは店を出すことを禁じられているため、大きな噴水以外何もない。
今日の仕事始めとして真っ先に点灯夫が灯した街灯が、噴水の周りにいくつかあり、男を明るく照らしていたが、宵闇はすでに赤みを失い、青く町を覆い始めていた。
男はど真ん中にある噴水の前で足を止め、棒立ちになるなり動かなくなった。
ここの噴水は、中央に白い石で作られた見上げるほど大きな海神の彫像がしつらえられている。海神が持っているとされる伝説のイッカクの角笛からは、絶え間なく綺麗な湧き水が吹き出している。その水は真水にごくわずかな塩分が混じっているようだが、くせはなくそのまま飲むこともできた。近場に井戸がない家は、ここから水を汲み、生活用水としてありがたく使用している。ララスの井戸の数はさほど多くはなく、この噴水は町の人間にとって大事なものだった。
さらに足元には魚をかたどった小さな彫像もあり、そこからもいくつもの小さな水柱が立ちあがっているが、こちらはほとんど海の水と同じものだ。二つの水はやがて一つになり、噴水の端にある巻き貝を模した穴の中へ流れ落ちていく。
どうやって湧き出る水を真水と海水に分けているのか、大量の水はどこからきてどこへ消えているのか、不思議に思う者もいたようだが、作ったのは大昔の魔術師ということでそれ以上のことは誰も知らなかった。
噴水は美しく、見るのはなかなか楽しいが、男はそれを見て足をとめたようでもない。
人々は災いが降りかかるのを恐れ、何かが起きたらすぐに逃げ出せるように広場の端っこに寄って、しかし好奇心丸出しの顔をしながらぐるっととり囲むような形で男を見守っている。
その頃になって、ようやくそこへ誰かが呼んできた広場の裏手に住むまじない師の婆がやってきた。
「まじない婆様じゃ、よけろよけろ」
呼びに行った若い男が声をあげ、遠巻きにしていた人々が素直に体を寄せ合って婆様が通れるよう道を開けた。
このまじない婆様は、町でも知らない者はいない。もうずいぶん前からずっとまじない婆としてこの町にいる。ただし、まじない婆といいつつも、やっていることは都の高位な魔術師と同じで、しかもかなり腕がよい。
メリザンドという名前以外、年齢も素性も誰もよく知らないが、町の者には慕われ頼りにされている。
枯れ木のような婆様だが、杖にすがって歩くわりにその脚は早い。地元の特産品である毛織物の薄茶色の飾り気のない簡素なワンピースに、慌ててはおったらしい黒いショールの片端が肩からはずれひらりと風に舞った。しかし、それを直す手間すら婆様は惜しんだ。
「お前さん、なにもんじゃ」
息も荒く広場の中央に歩み出て、そこでようやくずり落ちたショールを引き上げながら男と対峙した婆様は、一度大きく息を吸うと、まず、そう問うた。男の身体はあいかわらず噴水の方に向いたままだが、たとえこちらを向いていてもその表情は、真っ黒な霧に阻まれ全く読み取れないだろう。
だが、かすかに頭がかしいだように見えた。
『……ニ会イニキタ』
地の底から響くような昏く陰鬱な声は、さほど大きくなかったというのに、そのとき広場にいたすべての者に聞きとれた。声は彼の口からではなく、大地を通って響いてきたように感じられた。その声音のあまりの気味悪さに思わずひいっと声を上げ、己の足元を見やった者も少なくなかった。
「誰、とな? 誰に会いにきたんだい、名前がよう聞き取れんわ」
恐れ気もなく婆様が耳に手をあて、ことさら大仰なそぶりで聞き返す。とたんに男の背が、二倍にも三倍にも大きく伸びたように見えた。
否、背が、ではない。頭の部分の黒い霧が大きく膨れ上がったのだ。
霧は長く伸びただけでなく、先端がまるで蛇の頭のように婆様のほうに向かってぐにゃりと曲がった。
さすがにひるんだ婆様が、思わず二、三歩あとじさる。
『……ニィーアァーイィーニィーキィータァァァー』
語尾を伸ばした声は、大きく不快な振動を帯び、割れてことさら不気味に広場中に雷鳴のようにとどろいた。
人々の中には思わず耳を押さえてしゃがみこんだ者もいたし、吐き気をもよおしたように口を押さえた者もいた。そして何よりも、我先にと広場から逃げ出す者が大勢いた。
だが、大声に顔をしかめた婆様だったが、気丈にも逃げることはしなかった。
「たわけが。声を大きくしても、肝心の名前が聞きとれぬわ。代わりにお前さんの名前をお名乗り」
『……ニ会イニキタ』
声はかなり小さくなったが、言葉は同じだった。これで同じ言葉を三度も繰り返したことになる。
蛇のようにぐねりと曲がって婆様の顔を覗き込んでいた霧は、そこで言葉を切りそのまま動かない。やがて霧はまるで獲物を飲み込もうとするかのように縦に大きく裂け、口のように十字に割れた。
その奥の闇に黒い霧よりもさらに昏い目がふたつ見えた気がして、さすがに婆様の肝が冷えた。まるで男の首の奥に別の何者かがいて、裂け目からこちらを覗き込んだかのようだ。
その目は、一瞬だけひるんだ婆様をあざ笑うかのように弓なりに細くなり、それからゆっくりと瞬きをしたように見えた。その表情は、あまりにも禍々しく凶悪な翳りを帯びていた。まともに取り合っていては、たぶん命がいくつあってもたりないだろう。
婆様は、歯をくいしばるようにしてすばやく呪いの言葉を紡いだ。後ろへ身軽く踊るような足取りで数歩下がり、呪文を投げつける。
「あふれる光よ、我が手に宿り、あかときの力で矢をたがえ、魔を払え」
言葉とともに婆様の手から赤みを帯びた細く、しかし直視できないほどの明るい光が一条の矢のようにまっすぐに飛び、黒い霧に呑まれて消えた。
何も起きないかのように見えたが、瞬きほどの間をおいて霧が捻じれるようにきゅうっと細くなり甲高い苦鳴をあげた。それとともに闇の部分は縮んで元の首の上に戻る。
すかさず婆様は光の呪文を唱えた。
「かそけき光よ、我が手に宿り、たそがれの力で檻を紡ぎ、魔を封印せよ」
今度はまっすぐな矢ではなく、蔓のようにうねうねとした青みを帯びた光の筋が鞭のようにしなり何本も男にまとわりついた。
男は、苦しげにうなりながらもその光の鞭を右手で払う仕草をする。それによって光の鞭は、四方にかすかなきらめきを残し、はじけ飛んだ。
どうやら男もそれなりの魔力を持っているらしい。それまで背を向けていた男は、ぐるっと身体ごと婆の方を向いた。
あとずさった婆様がよろけたようにあたりの人には見え、あちこちから短い悲鳴があがった。
だが、そうではなかった。婆様は肩にかけてあったショールを外すと、それを空に向けて高く放った。
一見すると何の変哲もないはずの黒っぽいショールは、まるで石礫のように高く風を切って上がり、そのまましばし空にとどまり、やがて生き物のように羽ばたくと、大きくうねってまるで風をはらんだシーツのように縦に大きく膨らんだ状態でゆっくりと男の頭上に落ちてきた。元の大きさからは考えられないほどまでに広がったショールの四隅が細く長く伸びて、杭を打つように石畳に深く突き刺さった。
刺さった瞬間に青い光がそれぞれの角に向かって目にもとまらぬほどの速さで走り、四角形に線を結ぶ。男は足元を光の四角形で、頭上をショールの檻で囲まれてしまった。
すかさず、婆様がそのまわりを小走りしながら、ぐるりとロウ石で円を描いた。それから懐の中にあった袋の中から、いろいろなものを取り出して、口の中で静かに呪文を唱えながら四隅の部分に置いていく。
それらは、青い花のついたハーブの束、きつい香りのする手のひらほどの木切れ、複雑に結ばれた白いリボン、そして中に何かの種子のようなものがぎっちり詰まった小さな白い巻貝だった。ショールは風をはらんで縦に膨らんだままで、布の巨大な鳥かごのような檻ができていた。
わずかに男の足元は見えるが、顔の部分はショールの幕に隠れていて見えない。
その足元を見る限り、男はしばらくの間、あちこち向き直り出口を探していたようだが、やがて海の方向を向いたまま、じっと立ったきり動かなくなった。




