第二話 彼女の隣に、俺はいない
「……嘘だろ」
鏡の中の男も、同じタイミングで口を動かした。
声も、やっぱり俺のものじゃない。
顔が違う。
身体も違う。
声まで違う。
俺は、俺じゃなくなっている。
学生証を握る手に、じわりと汗が滲んだ。
浅沼優太。
本当に誰なんだよ。
膝から力が抜けそうになり、慌てて机に手をつく。その拍子に、枕元へ放り出したスマホが視界に入った。
「……待て」
布団に駆け寄り、スマホを拾い上げる。
黒いケース。画面右下の小さなヒビ。背面に貼ったままのコンビニのキャンペーンシール。
間違いない。
これは、俺のスマホだった。
画面を点けると、上部には圏外の表示。
小さく「AM」とある。
朝だ。
さっき俺は、一瞬だけ夕方だと思っていた。
でも違う。カーテンの隙間から入ってくるのは、朝の光だった。
壁のカレンダーに目を向ける。
二〇一六年、六月。
「……二〇一六年?」
十年前。
高校二年だった年だ。
スマホの日付は六月十四日と表示されている。だが、未来から持ってきたこのスマホをどこまで信用していいのか分からない。
その時、部屋の外から女の声がした。
「優太ー、起きてるー?」
肩が跳ねる。
呼ばれているのは、きっと俺だ。
いや、俺じゃない。
でも、この家の中では俺はそういうことになっている。
「遅刻するよ。朝ごはんできてるから、早く降りてきなさい」
俺のワンルームに、朝ごはんを用意する母親なんていない。
浅沼優太の実家で、俺は今、誰かの家族としてこの部屋にいる。
「あ、ああ……!」
すぐに返事をしたのは失敗だった。案の定、扉の向こうで少し間が空く。
「どうしたの? 具合悪いの?」
「いや、大丈夫!」
全然大丈夫じゃない。
でも、そう答えるしかなかった。
机の端には、もう一台スマホが置かれていた。
白いケース。たぶん、この身体――浅沼優太のものだ。
画面を点けると、英単語アプリの通知だけが表示されている。指を乗せると、あっさりロックが外れた。
「……開くのかよ」
日付は、六月十四日、火曜日。
そこでようやく今日の日付が分かった。
一方で、俺のスマホは圏外のままだ。
この時代に存在しない端末だからなのか、そもそも通信する相手がいないのか。
理由は分からないが、時刻だけは合っている。
それが逆に不気味だった。
頭の中で、あのクソスレが蘇る。
【1.今すぐ一億円貰う 2.過去に戻れるボタン ←どっち選ぶ?】
『選択後の人生における整合性が――』
『主観時間の連続性が――』
『過去への干渉に際し、対象世界に存在しない――』
そこで読むのをやめてしまった。
どうせ釣りだと思った。
その続きを死ぬほど知りたい。
対象世界に存在しないってなんだ。人間か。役割か。それとも、この浅沼優太という存在そのものか。
浅沼優太。
名前に、はっきりした記憶はない。
ただ、確実にいなかったとも言い切れない。
当時の俺は、自分の周りにいる人間以外を、背景みたいにしか見ていなかった。
それでも、降りないわけにはいかない。
クローゼットを開けると、ハンガーに制服が掛かっていた。細いストライプの入った紺のネクタイ。色は二年生のものだ。
十年前と同じ学年。
俺本来のスマホを鞄の奥へ押し込み、優太のスマホをポケットに入れる。
鏡の前でネクタイを結びながら、もう一度、知らない顔を見た。
――気持ち悪い。
そう思っているのに、鏡の中の知らない顔は、どこか浮ついて見えた。
また、美咲に会える。
その期待だけは、どうしても消えなかった。
◆
朝食のことは、ほとんど覚えていない。
箸を動かして、頷いて、たぶん返事もした。
けど味噌汁の味だけは、最後まで分からなかった。
玄関で見覚えのないスニーカーに足を入れる。
靴紐の結び方まで違うのに、サイズはぴったりだった。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい。車に気をつけてね」
知らない母親の声を背中に受けて、俺はドアを開けた。
六月の空気は少し湿っている。
まだ潰れていないパン屋。落書きのない古本屋。看板の色が少し違うコンビニ。
記憶の奥に残っていた景色が、今は目の前にある。
なのに、そこを歩いている身体は俺じゃない。
美咲にまた会える。
そう考えた瞬間、歩幅が大きくなった。
十年前の美咲。
俺を見つければ、きっといつものように笑って――。
◆
椢滝高等学校と書かれた校門が見えた。
鉄製の門柱、少し剥げた校名プレート、昇降口へ続く真っ直ぐな道。
十年ぶりの母校は、記憶よりも大きく感じた。
あの頃、ここが世界の中心だった。
俺は本気でそう思っていた。
「おはよ〜!」
背後から、聞き覚えのある声が弾む。
反射的に振り返ると、制服姿の花宮美咲がいた。
黒に近い焦げ茶の長い髪。胸元の赤いリボンが、歩みに合わせて小さく揺れている。
一瞬、俺に向けられた笑顔だと思った。
名前を呼びそうになり、喉の奥で息を呑む。
けど、美咲は俺のすぐ横を通り過ぎた。
風が頬を撫で、彼女の通った気配だけがそばに残る。
美咲は先に校門をくぐっていた女子のところへ駆け寄った。
俺のことなんて、一度も見ていなかった。
当たり前だ。
今の俺は、栗原蓮じゃない。美咲の幼馴染でも彼氏でもない。
でも昔なら、俺のところへ来てくれた。
校門で俺を見つけると、呆れた顔で寝癖をつまんだ。
『もう、寝ぐせ凄いことになってるよ〜』
『やめろよ、恥ずかしい』
それが、俺の日常だった。
「……そりゃそうだろ」
小さく吐き捨てる。
その声はやっぱり優太のもので、現実を突きつけてきた。
少し遅れて校門をくぐった。
◆
昇降口で、俺は足を止めた。
靴箱の場所が分からない。
周りの生徒は迷いなく自分の靴箱へ向かっていく。
俺だけが、流れから外れていた。
仕方なく壁際に寄り、靴を脱ぐ。
近くに並んでいた来賓用スリッパを一足取った。
歩くたびに、パタ、パタ、と間抜けな音が響く。
二年の教室がある階は覚えている。
問題は、何組か分からないことだった。
教室の前を通るたび、中を覗き込む。
知らない顔。知っているような気もする顔。
けど、優太の席なんて分からない。
廊下を行ったり来たりしているうちに、スリッパの音だけがやけに大きく聞こえた。
そのまま三組の前まで来たところで、俺はまた引き返した。
さすがに目立っている。
そう思った時だった。
「浅沼くん?」
背中に声がかかった。
咄嗟に振り向くと、美咲が立っていた。
さっき校門で見た時より、ずっと近い。
不思議そうな瞳が、今度はちゃんと俺を見ている。
「どうしたの?」
困っている人を見つけた時の顔。
懐かしい。美咲は昔からこうだった。
「いや……自分が何組か分からなくなって」
言ってから、来賓用スリッパの先を見た。
――何言ってんだ、俺。
美咲は目を丸くした。
数秒だけ俺を見て、それから口元を押さえる。
「――ふっ」
「少し寝ぼけてるかも……」
「寝ぼけて自分のクラス忘れる人いる?」
美咲は笑いながら、一つの教室を指差した。
「私と同じ二組だよ。一緒に行こ!」
美咲は俺の少し前を歩く。
俺は来賓用スリッパの音を殺しながら、その後ろについていった。
美咲が扉を開けると、教室の空気が流れ出してきた。
俺は来賓用スリッパを履いたまま、教室の入口に立っている。
その中心に、栗原蓮がいた。
制服を少し着崩し、机に腰を預けて、クラスメイトに囲まれて笑っている。
そこだけ空気が明るい。
見慣れた光景のはずだった。
俺はいつも、あの中心にいた。
蓮と一瞬だけ目が合った。
次の瞬間、蓮は美咲に笑いかけていた。
「お、美咲。おはよ」
「おはよ〜」
美咲はそのまま、蓮のいるところへ向かう。
当時は、何とも思っていなかった。
俺は来賓用スリッパの中で、足の指だけを丸めた。
あの頃の俺は、彼女がそこにいることを当たり前だと思い込んでいた。
その当たり前の外側に立たされて、初めて気が付いた。
「浅沼くん?」
数歩先の美咲が、途中で振り返る。
俺は教室の入口で立ち止まったままだった。
「あ……悪い。ちょっと下行ってくる」
「え? どうしたの?」
「スリッパ返してくる」
俺は、教室を出た。
「え、スリッパ?」
後ろで美咲の声がしたが、振り返らなかった。
◆
廊下に出ると、教室のざわめきが遠のいた。
『浅沼くん』
そう呼ばれるたびに、俺がここにいない人間なのだと思い知らされる。
美咲が蓮の方へ歩いていく。
その数歩で、嫌というほど分かった。
美咲が向かう先に、俺はいない。
じゃあ、俺は何だ。
蓮の記憶を持ったまま、浅沼優太としてここにいるこの俺は。
代わりでもない。
やり直しでもない。
ただ、自分の人生から弾き出された異物みたいだった。
俺は美咲の隣に戻るために過去を選んだはずなのに。
実際に戻ってきた俺は、自分の靴箱の場所すら分からない。
誰かの名前で呼ばれ、誰かの顔で歩き、誰かの人生に滑り込んでいる。
それなのに。
本当に望んでいた場所は、もう別の俺が持っていた。
これは、やり直しなんかじゃない。
少なくとも俺が望んだ形の、やり直しではなかった。
――罰だ。
そう思うしかなかった。




