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第一話 俺じゃない俺

 天井をぼーっと見上げていたら、スマホを顔に落とした。


「っ……!」


 地味に痛い。

 反射的に起き上がると、畳の上に転がっていた空き缶を蹴飛ばした。カラン、と乾いた音が六畳一間に響く。


 午前十一時、カーテンの隙間から入る光がやけに白い。


 昨日も朝までコンビニのバイトだった。いや、()()()じゃない。()()()だ。日付感覚なんて、とっくに壊れてる。

 テーブル代わりの段ボールの上には、食いかけのカップ麺と、吸い殻を突っ込んだペットボトル。


 終わってるな。

 自分で思って、自分で笑えなかった。

 

 スマホを拾い上げ、LINEを開く。

 通知はゼロ、大学時代のグループは数年前から動いていない。高校時代の連中は、もう誰も俺を飲みに誘わなくなった。


 ……まあ当然か。


 27歳のフリーターなんて誰も相手にしない。

 高校時代は、あんなにイケてたのに。


 ふと、昔の写真フォルダを開く。

 文化祭、海、花火大会。


 どの写真にも、俺が真ん中にいた。

 当時の俺は、世界の中心が自分だと本気で思っていた。


 ――実際、そうだった。


 女子は勝手に寄ってきたし、男はみんな俺に気を遣ってた。

 教師ですら、俺には少し甘かった。


 今思えば、ただ顔が良くて愛想が良かっただけだ。

 でもその時の俺には、それで十分だった。


 画面の中の美咲が笑っている。

 それだけで、指先が少し動かなくなった。

 スクロールすればいいだけなのに、親指が画面の上で止まったままだった。


『また女の子泣かせたんでしょ』


 そんな声が聞こえてきそうな写真だった。


――花宮美咲(はなみやみさき)


 幼馴染であり元カノ。そして多分、今でも一番忘れられない女。

 三年付き合って、別れた。正確には、『自然消滅』が正しい。

 別に嫌いになったわけじゃない。ただ、他にも女がいた。それだけだった。


「……クソ」


 胸の奥が変に痛むと同時に、スマホが震えた。母からの着信、珍しい。


「もしもし。なに?」

『もしもし、蓮?起きてたのね』

「あぁ、これから寝るとこ」

『あら、悪いわね。今日も仕事かしら』

「うん。で、どうした?」


 くだらない会話が続く、要件を早く言ってほしい。

 こっちは夜勤明けで眠いんだ。


『美咲ちゃん、覚えてるかしら。ほら、幼馴染の』

「美咲がどうかした?」


 覚えるも何も今ちょうどそいつの事でセンチな気分になってたところだ。


『美咲ちゃん、結婚するんだってねぇ』


 心臓が止まりかけた。いや、止まったかもしれない。


「……は?」

『来月式なんですって。あんた、連絡きてないの?』


 聞こえなかった。いや、聞こえてはいる。でも脳が理解を拒絶した。


 結婚?


 美咲が?


 喉が妙に乾くのを感じる。母は悪気なく続けた。


『すごく優しそうな旦那さんだったわよぉ。あんたも美咲ちゃん達見習ってしっかりしないよ』

「……」

『あんなに仲良かったのにねぇ。あんたには勿体なかったわよ、あんないい子。ちゃんとお祝いの連絡しとくのよぉ』


 好き勝手なことを言うだけ言われて、通話が切れた後も俺はしばらく動けなかった。

 スマホを握る手に力が入る。やるせない気持ちで一気に虚無感に襲われた。


 スマホの通知音がなる。


 画面を見ると匿名掲示板アプリからの通知。現実から逃げたい時だけ見る、底辺の掃き溜め。

 たまに通知でオススメのスレを通知される。徐ろに通知されたスレを開く。



【1.今すぐ一億円貰う 2.過去に戻れるボタン ←どっち選ぶ?】



 ホントくだらねぇ。


 ほとんどレスは付いていない。

 理由は明確だ、スレ主がやたら長文で条件を書いているからだ。


『選択後の人生における整合性が――』


『主観時間の連続性が――』


『対象世界に存在しない――』


 読む気にもならず、俺は鼻で笑って書き込み欄を開いた。


「普通に一億だろ」


 そう打とうとして、指が止まる。

 

 ――ふと脳裏に浮ぶ美咲の笑顔。悲しくもやけに鮮明だった。


 高校二年の夏の帰り道。コンビニで買ったアイスを食べながら、美咲は笑っていた。


(れん)ってさ、自分が歳取るとか想像できなそう』

『は? できるわ』

『絶対できないよ。三十歳くらいで急に焦ってそう』

『いやその頃には俺、会社経営してるから』

『はいはい』


馬鹿にしたみたいに笑って、隣を歩いていた。あの頃の俺は、本気で自分の人生が失敗するなんて思っていなかった。

 なのに今は六畳一間で片手に持つスマホで、くだらない書き込みにいちゃもんをつける貯金八万円のフリーター。


 笑える。いや、笑えない。


 書き込み欄に指を置く。

 気付けば俺は別の文字を打ち込んでいた。



「今なら2.過去に戻れるボタン押す」



 数秒後、スレ主から返信が来た。


『わかった。もうスレ落としていいよ』


「……なんだこいつ」


 妙に腹が立った。他人の人生をネタにしてる感じが気持ち悪い。

 スマホを投げるように布団へ放り投げ、そのまま横になる。


 寝よう、忘れよう。


 どうせ酒でも飲んで寝れば明日にはまたどうでもよくなる。

 そう思った。いや、そう思うしかなかった。



 ◆



 あれから数日。

 バイトと酒に追われるうちに、美咲の結婚のことも、あの掲示板の書き込みも、だいぶ頭から薄れていた。


 その日、アパートに帰ると郵便受けに小さな箱が入っていた。


「……なんだこれ?」


 差出人不明。嫌な感じがした。


 部屋に戻って開けてみる。

 中に入っていたのは、赤いボタンが一つだけだった。


「え?ボタン……?気色悪っ」


 説明書は入ってない。

 だが、嫌な記憶と共に脳裏に思い浮かんだのはあのスレタイだった。


「まさか、な……」


 どうせ悪ふざけだろ。

 そう思いながらも、俺は半分ヤケになってボタンを押した。


 カチッ。


 安っぽい音だけが部屋に落ちた。


 数秒待つ。

 畳の上で、空き缶がかすかに転がる。


「なんも起きねぇじゃん」


 思い切り腕を振って、部屋の隅のゴミ箱へ放り投げる。

 赤いボタンは空き缶にぶつかり、ガンッと鈍い音を立てたあと、コンビニ弁当の容器の上に転がった。


 見ているだけで腹が立つ。


 忘れかけてたのにまた思い出したのも、この意味不明なボタンのせいだ。


 結婚、優しそうな旦那、来月の結婚式。

 頭の中で母親の声が何度も反響する。


「……っ」


 舌打ちする。


 舌打ちして、コンビニ袋を乱暴に引き寄せた。

 缶チューハイのプルタブを起こす音が、やけに大きく響く。


 未練だ。


 ――今さら、もう終わった女なのに。


 俺から逃げたくせに。

 なのに、心のどこかでは美咲がまだ俺を待っているような気がしていた。

 情けなくて、惨めで、どうしようもなく腹が立った。


 缶チューハイを一気に煽る。

 安いアルコールの味が口の中に残った。

 空になった缶を畳へ放り捨て、そのまま布団へ倒れ込んだ。

 考えるだけ無駄だ。どうせ明日になれば、またいつもの日常が始まる。


 バイトして、酒飲んで、適当に時間を潰して。

 そうやって生きていくしかない。

 目を閉じる。


 薄れる意識の中、視界の端で――。


 ゴミ箱に捨てたはずの赤いボタンだけが、不気味なくらい鮮やかに見えた。





 ぱっと目が覚めた。

 いつもの鉛のようなダルさがない。

 こんなに目覚めが良いのは、何年ぶりだろう。


 薄く息を吐きながら、目元を擦る。

 枕元のスマホを手探りで掴み、画面を点けた。


 六時五十五分。


「やっべ、バイトまで時間ねぇじゃん」


 布団を跳ね除け、慌てて立ち上がる。

 その瞬間、違和感を感じる。

 

「あれ?」


 部屋が妙に綺麗だった。


「俺、いつ片付けなんてしたっけ…」


 そう呟いてから、少しだけ引っかかった。

 いや、片付いてるとかそういう次元の問題じゃない。


 床に散らばっているはずの空き缶がない。

 吸い殻を突っ込んだペットボトルもない。

 コンビニ弁当の容器も、脱ぎっぱなしの服も、段ボールのテーブルもない。


 代わりにあるのは、木目調の勉強机。

 きちんとハンガーにかけられた制服。

 本棚に並んだ参考書。


 同じ六畳くらいの部屋なのに、俺のワンルームとは何もかも違う。


「どこだよ、ここ……」


 声に出した瞬間、また妙な違和感が残った。


 さっきから何かがおかしい。

 寝起きで喉が掠れているのかと思った。


 けど、違う。


 自分の口から出ている声なのに、聞き慣れた響きじゃない。

 低いとか高いとか、そういう単純な違いではない。

 喉の奥で鳴る感じが、まるで別人だった。


「……どうなってんだ」


 独り言が、知らない声で部屋に落ちる。

 嫌な汗が背中を伝った。


 落ち着け。


 まずはこの状況を整理しろ。

 俺はもう一度、部屋を見回した。


 勉強机の上には、教科書とノートがきちんと積まれている。

 その横に、擦り切れたラミネートのカードが置かれていた。


 見覚えのある校章。


 俺は吸い寄せられるように、それを手に取った。


「学生証?」


 椢滝(くぬぎたき)高等学校。


 俺が通っていた高校だ。

 そこまではいい。

 問題は、名前欄だった。


 浅沼(あさぬま) 優太(ゆうた)


「誰だよ、浅沼って」


 知らない名前だった。

 少なくとも、俺の名前じゃない。


 栗原(くりはら) (れん)


 それが俺の名前だ。


 学生証を握ったまま、ゆっくりと部屋を見渡す。

 その時、不意に姿見が目に入った。

 鏡の中の男と、視線が合う。


「は?」


 呼吸が止まる。

 そこに映っていたのは、俺じゃなかった。

 黒髪で眠たそうな目、少し丸まった肩。

 特別ブサイクというわけじゃない。けど、教室に入っただけで女子が振り向くような顔ではなかった。

 どこにでもいる、目立たない普通の男。


 ――記憶にも残らない。


 そういう男が、鏡の中で俺と同じように固まっていた。

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