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第三話 メロンパン

 

 午前中の授業は、ほとんど頭に入ってこなかった。

 教師の声は聞こえている。

 黒板に文字が増えていくのも見えているが、内容はまるで素通りしていた。


 席は窓際の後方二列目。

 悪くない場所だ。目立たないし、教室全体も見渡せる。


 視線を前へ向けると、蓮がいる。

 授業中なのに隣の男子と小声で何か話して、教師に軽く注意される。

 それでも怒られるというより、笑って流される。


 ああ、そうだ。俺はこういう奴だった。


 気付けばチャイムが鳴り、四限目が終わった。

 教室の空気が一気に緩む。


『昼だー!』

『購買行くやついる?』

『今日焼きそばパン残ってるかな』


 あちこちから声が上がる。


 弁当は持ってきていない。

 俺は鞄を開け、財布を取り出す。


 ――購買か。


 そう思って席を立った時だった。


「浅沼ぁ~」


 声の方に視線を向けると、蓮が椅子に座ったまま身体だけを後ろに向け、机に肘をついたラフな姿勢で俺に話しかけてきた。


「購買行くなら、俺のもよろしく」

「……は?」


 思わず声が出る。


 悪びれた様子もなく蓮は立ち上がると、財布から小銭を出しながら近づいてきて、俺の机に置いた。


「カレーパン。なかったら焼きそばパンで」


 ――いや、自分で行けよ。


 口から出かけた言葉を、寸前で飲み込む。


 ……待て、俺はこれを知ってる。

 こういうことを、俺は昔よくやっていた。


 クラスの誰かが行くと分かれば、ついでみたいに頼む。

 断られないと知っていたから。


 頼まれた側がどう思うかなんて、考えたこともなかった。


「……カレーパンな」

「お、助かる」


 笑いながらその場を離れる。

 俺は小銭を受け取るその時、視界の端に美咲が映った。


 美咲は俺と蓮を見ていた。

 何か言いたそうに唇を少し動かして、でも結局何も言わなかった。


 なぜか、悲しそうな顔に見えた。

 俺は見て見ぬふりをして、教室を出た。





 購買は想像以上に混んでいる。

 昔の俺は、ほとんど誰かに買いに行かせていた。

 だから昼休みの購買がこんな戦場になっていることを、知らなかった。


『メロンパン二つ!』

『カツサンドまだある?』

『押すなって!』


 生徒たちがショーケースへ群がっていた。


 完全に戦場だ。

 俺は少し離れた場所からその様子を眺めながら、人波へ突っ込むタイミングを探す。


 その時、近くでおろおろしている女子が視界に入る。


 淡い銀色の髪を、左右でゆるく三つ編みにした小柄な子だ。

 長めの前髪の奥に、灰色の眠たげな瞳が見える。

 白いシャツにグレーのベスト。目立つくらい色素の薄い見た目なのに、本人はやけに小動物(うさぎ)みたいに縮こまっていた。


 胸の前で財布をぎゅっと握ったまま、人で埋まった購買を見つめている。


 一歩踏み出そうとしては止まり、前で誰かが押し合うたびに、びくっと肩を揺らして後ずさった。


 ……なるほど。


 あの戦場に入れないらしい。


「行かないの?」


 何気なく声を掛けると、銀髪少女はびくっと肩を震わせた。


「……え」


 反応まで小動物だった。


「買えないなら、ついでに買うけど」

「……い、いや」

「早くしないと全部なくなるよ」


 そう言った瞬間、前の方から「はい次!」と購買のおばちゃんの声が飛んだ。


 びくっとしながら、人混みの向こうの棚を見る。

 視線が右往左往していた。


「……えっと、その……」

「まだ決まってないなら、先買っちゃうけど」

「き、決まってます……!」


 なぜかそこだけ強めに返された。

 でも次の瞬間には、また押し寄せる声に肩を縮めている。


「……じゃあ何?」

「……メ、メロンパン」

「りょーかい。あっちで待ってて」


 ちょうど人の流れが少し開いた隙に、俺は購買へ突っ込む。


「カレーパン一つ、焼きそばパン一つ、あとメロンパン」

「はいよ!」


 パンを受け取って金を払い、そのまま人混みから抜け出す。

 数秒いただけなのに妙に疲れた。


 廊下の端まで出ると、さっきの銀髪少女が壁際で小さく待っていた。


 俺に気付くと、ぺこりと頭を下げる。


「はいよっ」


 メロンパンを軽く放る。


「わっ」


 慌てて両手で受け止めた。


「……あ、ありが――」

「んー」


 最後まで聞かずに自分のパンの袋を開ける。

 軽く手を振ってその場を後にした。


 腹が減って仕方なかった。

 歩きながらパンにかぶりつく。


 十年前の購買のパンなんてどんな懐かしい味がするかと思ったが、普通に安っぽい味だった。





 教室へ戻ると、蓮はすぐに気が付いた。


「お、来た来た」

「カレーパン、ほらよ」

「お、あざーす」


 パンを投げると、蓮は片手で受け取った。


 軽い。


 でも、悪気はない。

 それが余計に昔の自分っぽかった。


 席に戻り、スマホを取り出す。

 ロックは当然のように開く。


 メッセージアプリを開いてみる。

 履歴は、驚くほど整理されていた。


 母親との連絡。

 中学時代の友人らしき名前が少し。


 頻繁にやり取りしている相手は、ほとんどいない。


「……静かな人生だな」


 小さく呟いた時、目の前に人影が立った。

 顔を上げると、さっきの銀髪少女がもじもじしていた。


「あの……」

「あ、さっきの。どうかした?」


 少し俯いたまま、両手で小銭を握っている。


「……お金……渡してない」

「ああ、いいよ。大した額じゃないし」

「……だめ」


 短く言って、俺の手を取った。


 百二十円。


 小さな硬貨を、両手で押し付けるように握らせてくる。

 指先が少し冷たかった。


「あ、あぁ……わりぃ。ありがとう」


 こくんと頷く。

 その瞬間だった。


「なーに、二人でいちゃついてんの?」


 蓮が離れた位置から大きな声で絡んできた。


 教室の何人かがこちらを見る。

 蓮はカレーパンを片手に、面白がるように笑っていた。


志茂凪(しもなぎ)って、浅沼のこと好きな感じ?」


 教室に軽い笑いが起きる。


 銀髪少女は分かりやすく固まった。


「ち、違……」


 声が小さすぎて、周囲の笑いにかき消される。

 俺は小銭を机に置いて、蓮を見る。


「なんでもない。お前には関係ないだろ」

「えー?手、握ってたじゃん」

「金を渡されただけだって」

「ふーん?」


 蓮はまだ笑っている。


「でもさでもさ。金渡すだけで手は握らないって、普通!」

「確かに言えてる!」

「やっぱ二人いい感じなんじゃね?」


 いつもの軽いノリ、周りもそれに乗る。

 俺は初めて()()()()()に立ち、それが妙に癇に障った。


「いい加減にしろよ、いちいち絡んでくんな」


 勢いよく立ち上がる。

 教室の空気が、少しだけ止まった。


 蓮の笑顔も薄くなる。


「……は? なんだよ、その言い方」

「そっちこそ、なんでそうやってすぐ人を茶化すんだよ」

「いや、冗談だろ」

「冗談なら何言ってもいいのか?」


 詰め寄りながら、自分で言い方が強いと自覚していた。


 これは、優太としてじゃない。

 昔の自分が嫌になった今の俺の言葉だ。


 だから余計に止まらなかった。

 蓮も応じるように、椅子を鳴らして立ち上がった。


「浅沼、今日なんか変じゃね?そんなキャラだった?」

「変なのはお前だろ」

「は?」


 周囲の笑いが消え、志茂凪は一歩、二歩と後ろへ下がる。

 その時、教室の扉が開いた。


「ちょっと、何してるの!」


 美咲だった。

 手に紙パックのジュースを持ったまま、慌ててこちらへ駆け寄る。

 額がぶつかりそうな距離で睨み合っている俺と蓮の間に、そのまま割って入った。


「蓮、また変なこと言ったんでしょ!」

「は?俺だけ悪い感じ?気ぃ悪いんですけど」

「乃々ちゃん見たらわかるよ、困ってるじゃん」


 美咲は志茂凪を見てからすぐに蓮へ視線を向けた。

 志茂凪は俯いたまま、メロンパンの袋をぎゅっと握っている。

 蓮は不満そうに眉を寄せた。


「ちょっとからかっただけだって」

「そのちょっとで嫌な思いする人もいるの」

「……はいはい」

「はいはいじゃない」


 美咲の声が少し強くなる。


 舌打ちまではしなかったが、明らかに面倒そうな顔をした。

 その顔を見た瞬間、また苛立ちがこみあげてきた。


「そんなんだからお前は――」


 言いかけた俺の声に、今度は美咲が振り向いた。


「浅沼くん?」


 その表情で、ようやく我に返る。

 驚きと戸惑い。

 俺のことをそんな目で見ていた。


「浅沼くんも、どうしちゃったの?喧嘩腰なんて、らしくないよ」


 その言葉で俺は血の気が引いた。

 俺は視線を落とす。


「……悪い」


 それだけ言って、席に戻る。

 蓮はまだ何か言いたそうだったが、美咲が袖を引いた。


「蓮、ちょっと来て」

「なんだよ」

「いいから、来て!」


 二人は教室を出ていく。

 扉が閉まると、教室に小さなざわめきが残った。


『志茂凪さん、大丈夫かな?』

『今の浅沼くん、ちょっと怖かったね』

『蓮も蓮だけどさ……』


 志茂凪も自分の席へ戻った。

 目線で追うと俺の後ろの席だった。


 そこで初めて気付く。

 クラスメイトだったのか。

 しかも、こんな近くにいたとは。


 俺は机の上の小銭を見下ろす。

 百円玉一枚と十円玉二枚。

 小さな金額。


 俺は息を吐いて、スマホを伏せた。


 ちゃんとしろ。


 そう自分に言い聞かせた時、背中を軽く突かれた。

 志茂凪が、少しだけ身を乗り出していた。


「……あ、あの」

「ん?」


 視線を机に落としたまま、指先でメロンパンの袋をいじっている。


 耳が赤い。


「……あ、ありがと」

「あー、パンのこと?」


 小さく首を振った。


「……さ、さっきも」


 それだけ言って、すぐに顔を伏せた。


 声は小さかったが、ちゃんと聞こえた。

 俺は少しだけ返事に困ってから、短く言った。


「……あれは、俺の問題だから」


 志茂凪は気まずそうに視線を逸らし、静かに身を引いた。

 過去の自分が許せなかった、それだけ。礼を言われる筋合いはない。


 ただ、メロンパンの袋を開ける手が、さっきより少しだけ落ち着いて見えた。

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