生きたものと、死んだもの
釣り糸は時折モゾモゾと動いては、また止まって、を繰り返している。
おそるおそる、ゆっくりと揚げてみると、なにやらエビのような生き物が何匹かたかっていた。
パレオカリスPalaeocarisかなにかであろう、アナスピデス類に近い仲間だ。
すっと引き上げると、うち一匹が艀の上まで上がってきた。すかさずケースに収めて、観察する。
美しい生き物だ。エビによく収斂進化していて、パッと広がった尾扇でバランスをとりながらクルクルと泳ぎまわった。
その気になればかなりの速度で泳げるようで、直線的でかつ高速な泳ぎ方はある種の遊泳性ヨコエビに似ている。
頭胸甲は発達していないから、まるでムカデか何かのように柔軟性があるのもまた趣があった。歩行性のヨコエビを彷彿とさせるゆえんである。
この生き物に関しては、村では普通に「エビ」と言われていた。
先の小魚の話――毒が紛れているかもしれないので小さいものや得体のしれないものは食べない――に基づいて、これも食べないのか、と聞いてみた。
ところが驚いたことに、「エビは食べる」とのことである。
「光ってないから?」
「そうでもないけど、エビは食べていい、けど、数えて。動いてるものだけを、数えてから。」
いわく、延縄のよい餌になるので、四手網でまとめて採るのだという。
葉を淵に置いた網の上に沈めておいて、網ごと一気に引き上げて採るのだというから、要するに柴漬け漁に近い。「あそこにあるから」と、子供たちの艀を指さすと、確かにそれらしきものが水中に入れられていた。
曰く、食べられるものと食べられないものを最初に見分けるためにあるのだという。
そして、数える、見分ける、食べて良いものと、悪いものと、得体の知れないものを分別するために。
それを教えるためだと。
小魚は食べない。
食べるなら数えながら、食べたことのあるものだけを、一つずつ増やしなさい。
エビはエビである限り大丈夫。
ただ、動いているうちは食べられるが、動かなくなったらダメだ、と学ぶそうだ。
そして、何にしても、動いていないものを食べてはならない。
なお、生きたエビを生きたまま火を通す分には、問題ないらしい。
しかし火を通す前に死んでいたらダメなので、エビを食べるときは、まず生きていることを皆で確認して、エビ以外が入っていないことを確認してから鍋に入れるのだという。
生きているうちなら鮮度は大丈夫、という意味なのだろうか?
それにしても、生のものと火を通したもの、腐ったもの、ではなく、
生きたものと死んだもの
数えたものと、数えられていないもの。
というバイナリな分別がされているのがシンプルでかつ興味深い、と思った。
これなら子供たちも間違いようがない。
曰く、死んだエビも延縄の餌にはなる、とも学ぶらしい。
死んでもエビ、と。
どうやって食べるのか、と聞いてみる。
そのまま生きたままパクリと食べるのが、一番なのだとか。
一寸忍びなかったが、幸いこの種はもう、何匹も昨晩採集してある。
だから、試しに一匹、いってみた。
一瞬の、電気信号に似たピリリという感触。
外骨格を突き破る微かな感触と、細い脚がひしゃげる一瞬の破砕音。
微かな甘みがあった、それだけだった。
「生きたエビは安心」
という概念は広く共有されているようである。
しかし、どうにも「旅人がとったエビ」はどうかと聞いてみると、忌避感を示すものが多かった。
エビ自体には違いはない、と思うのだけれど。
なお、「平たいエビ」のほうが食材としては美味しいらしい。
恐らく、ピゴケファルス類のことを言っているのだろう、と思って、岸壁をうろうろしていた個体を一匹掬い上げると、やはりこれだ、という。
少し硬いのだが、これも生きたまま食べるらしい。
試しに口に含んでみると、たしかに、さっきの「エビ」に比べると濃厚な甘みがあった。
ただ、やや舌の上に甘くねっとりと残るものがあって、私としてはあっさりとした先ほどのもののほうが好みではあった。
では、これはどうなのか。
私はクーラーボックスから、モガモガもがくEuproopsを出して見せた。
もう見たとたん、大爆笑だった。
「そんなの食べるの、クリマタくらいよ」
クリマタ?私には全くもって聞き覚えのない語だった。
魚のことですか、と聞くと、そうらしい。
「っていうか、それ狙ってるんじゃないの?」とも。
いったい何が釣れてきてしまうのだろうか。
カブトガニ(とげとげ、という意味でエスピーニョと呼ばれている)はやはりおいしくないのか、と聞くと、肉もなくて苦いので、とても食べられたものではない、と。
しかしクリマタは美味しい、とも。
他の魚はこれを食べないのか、と聞くと、食べません!と断言されてしまった。
うーむ。
しかもこれがある種の諺のように機能しているらしい。どんなに要らないように見えるものにも、それを必要とするものがいる、という意味なのだそうだ。
さすがに酷い。
他にも、棘に荷車を結び付けて曳かせたとか、何匹も集めて競走したとか、丸まったところをみんなで持ち寄ってメンコにしたとか(ひどい!)…
いろいろと興味深い(残虐な?)遊びの話が出てくるわ、出てくるわ。
そんな話をしているとき、糸がふいに、奇妙な動きを始めた。
ヒュッ。
糸がまた、横に滑った。
かなり急だった。
しかし、今は止まっている。
先ほどまでの、"エビ"やカブトガニがたかってモゾモゾ動くのとはまるで違っていた。
おそらく、魚だ。
魚はきっといま、餌を吸い込んだ…はずだ。
しかし。
また糸の先が、さっきとは逆方向にフッと動いた。
そして、また、静寂。
「餌、とられた…?」
私は今の瞬間、餌が取られてしまったのではないか、と不安になる。
またヒュッと引っ張られて、止まって、戻って。
また動いて。
ひたすらそれの、繰り返しだ。
「これ…あわせていい?」
私はアリアに聞き返す。
アリアは神妙な目つきで、糸の先を見つめていた。
「…だめ。この魚は、合わせちゃダメ」
「わかるの?」
「間違いない。でもそれは釣れてのお楽しみ?」
「アタリだけで?」
そういう間にも、糸は何度も前後運動を繰り返した。
「Of course! そりゃだって、ものすごく特徴的だもん。多分かかるわ。でも…何十分後かは、who knows? 」
すると、村人の一人が言った。
「クリマタは子供を宿す象徴なの」
そう言った。だから、身籠ったときにはまず、この魚を食べるのだという。
「それは、どうして」
「クリマタは食べるたびに、吐き戻す。でも何度も吐き戻しながら、健やかに育つから」
--悪阻の象徴か。
「つまり、つわりが来るということの象徴…ですか」
「それもあるけど、何度も吐いても、無事帰って来るようにってことかしら」
…無事、帰る??
私はそこに不穏な響きを感じた。
「無事帰る、ってどういうことですか」
そう...この村には、何か医療があるようには見えない。
にもかかわらず、明らかな病人がいるようにも見えないのだ。吐く。吐いても戻って来る。
つまり、戻ってこられない場合がある…それは、死か?そのクリマタなる魚は、もしかすると死者の世界と生者の世界を繋いでいる、という意味なのだろうか。
「ほら、あれがあるでしょ?」
彼女が指さしたのは、意外なものだった。
発電艀の横から伸びた、格子のようなアンテナだ。
「はい…」
「病気になるでしょう?そうしたら、あれを呼ぶでしょ?でも、帰っては来れないもの」
「…治らない、ってことですか」
私はこの星の医療事情を改めて思い出していた。
足が攣った、などというくだらない理由で診療所に行ったことが、ふと脳裏に蘇る。
「ここから先はうちが一番大きい」といいつつ、医者はいて数人、へたすると私を診てくれた一人だけで支えているというくらいの状況だった。
そこから、水上機で、給油無しで急いでも1時間。
街に行く、ということが、彼女たちにとって死以外の何も意味しない、ということなのだろうか。
「あなたたちのところでは、黄泉の国から人が戻って来るの?」
何を当たり前のこと、というようだった。
…私には、わからない。
「火星でもそうよ?」
まさかの助け舟をくれたのはアリアだった。
「回復者は、隔離されるのよ。回復しても排菌を続けてるかもしれないから。それに、回復した人からは抗体を取らないと」
…何という非人道的な!
頭の中で、白衣を着たリサの声が響き渡った。友人であり、同期の女医である。
**
突然のことだった。
ラインがグッと、急にひったくられたのだ。
そのとたん、ポン、と竿が渡される。
あっ、という間もなく、私はそれを握りしめるしかなかった。
グッと竿を起こすと、ひたすらに、重い。
その重さがうねるように変化していた。
魚の引きと言っても、いろいろある。
たとえば針にかかると、すごい勢いで泳ぎ去るもの、そういうものは、走る、という。
これはその、対局にあった。
ただなにか、重たいものを引っ掛けてしまったようなのである。
そして、右へ、左へとゆっくり首を振った。
水はミルクティーのような色合いで、その奥に何がいるかなど、到底わかったものではない。
しかし竿を持ったままでも、それが何かのろまで、しかし力強いものであることはわかったし、竿先に伝わる弾力からは、水中でそいつがどのように動いているかも、よくわかる。
一体、何がかかっているのだろうか?
ここにいるものの中で、私だけが、その正体を把握できていなかった。
皮肉にも、だけれど。
そもそもかかっているのが、魚なのかどうかすら自信がない。
しかし、まもなくそのシルエットが浮かび上がった。
そのシルエットは魚というよりも大きな両生類のようで、滑らかに四肢をウミガメのようにばたつかせていた。――両生類、だろうか?しかし、そこには巨大な、鯉にも似た鱗が並んでいて――
肺魚だ。
それはオーストラリアハイギョにそっくり、というより、殆ど全く同じといってもいいくらいの魚であった。
しかし、オーストラリアハイギョといっても。私はその実物を見たことがなかった。累代保存されているものはいるにはいるというが、野生個体群には指一本触れることすら許されない。
ましてや、釣り上げることなどもってのほかだ。
その動き方は思ったよりも、魚らしくなかった。
手足をクルクルと回転させるようにして、胸鰭を前のほうにぬっと動かしては、左右別々にボートを漕ぐようにして動く。そして、2枚のかなり長い腹びれを体に対して立ててドラッグとしながら、釣り糸に抗っていた。
これはたしかに、両生類のほうに似ている。
どう、私は思った。
オーストラリアハイギョははじめ、両生類として記載されたのも、わかる気がした・
艀の水上に揚げると、それは体を捻らせながら陸を這う。
しかしそれはあくまで、体をくねらせながら水上を這い回るのであって、その立派な4枚の鰭――鰭というより一見したところ、フラップ化した四肢であるかのように見えた――は体を支えるのに、何の用もなさないようである。
しかし村の女たちは、これが時には陸にあがったり陸を這うことがあると信じて疑わなかった。
「ほら、ハイギョでしょ」
アリアはいう。
中生代をメインのフィールドにしてきた彼女にとって、このたぐいの肺魚はむしろ、ごく当たり前の存在といったほうが近かったのかもしれない。
「うん…なんでわかったの」
「そりゃ、あの動き。餌を吸い込んで、吐き出して、何回も繰り返し。あんなのほかにそうそういないもん」
ただ、これがどの肺魚に相当するのかは、私たちには全くわからなかった。
歯は口の中に、洗濯板のように4枚並んでいるはずだ。
しかし、口をあけても歯は部分的にしか見えなくて、さらには飲み込んでしまった針を外すことすら、ろくにできやしなかった。
困り果てて糸を切った、その瞬間だった。
「だから****は!」
――そうなるよな、と思った。
私もだいぶ、村に馴染んできたらしい。
結局、針は予想外の場所で見つかった。
鰓の奥底あたりに引っかかっていて、フッキングしていたのは鰓そのものだった。
――いったいどういう食べ方をしたらこうなるのだろうか、と思う。
するとまた、村の女の一人が話し始めた。
また、クリマタ、ことこの肺魚のはなしであった。
欲をかきすぎた人は死後、この肺魚になるのだという。
そして食事をとるたび吐き戻したり、食事が鰓の穴から出てしまったり、食べたはずのものが生きたまま肛門から出てしまったりを繰り返しながら、それでも死ねずに生き続けるのだという。
さらにいう。
Varragarrotte――この村で用いられる拘束式の漁具――で獲った肺魚は、泥炭に埋めておけば半年も生きているのだという。それは、欲をかきすぎた人間に罰を与えるためだ、とまでいうのだ。
補足
クリマタ Curimatã:アマゾン川流域でプロキロダスを指す名。でっぷりと肥って、コイに似たなんともとぼけた顔をした魚である。とても地味な魚だが、アマゾン川流域ではよく親しまれている。トゥピ語由来らしい。なお、プロキロダスを置いてコイに似たアマゾンの魚はあまりないようにも思うし、ポルトガル人は勿論コイをよく知って親しんでいたはずだと思うのだが、アマゾン川流域にポルトガル語彙のCarpaと呼ばれる魚がいるように見えないのは興味深い。借用語にならず現地語が用いられた、という意味で。なお、ここで指されているのは似ても似つかない魚だった(顔つきだけは少し似ていないでもないが)
<作者あとがき>
鰓から餌が出てしまったり生きたままのミミズが肛門から出てきてしまったりするのは、実際ネオケラトドゥスにおいて報告されている。たとえばKemp, 1986など。また、水に入れず湿らせた状態で大英帝国までの数か月の船旅を耐えたという話もある。
Kemp, A. (1986). The biology of the Australian lungfish, Neoceratodus forsteri (Krefft 1870). Journal of Morphology, 190(S1), 181-198.




