小さい、光る、数える、滴る
水面を見やる。
夜と違って、水面に泳ぐものの姿は、ほとんどない。
いやーー実際には何かがうようよしているのだろうが、茶褐色の水に阻まれて、見えるものは何もなかった。
ひたすら静まり返った、水面。
そこにときおり見える、小さな小さな波紋だけが、生の気配だった。
水中はほとんど、闇の中だ。
昨晩採集したリゾドプシスRhizodopsisや、小さなシーラカンス類のラブドデルマRhabdoderma、幾らかの小魚――エロニクチスElonichthysなどが多いようだ――、それに取り逃したゼナカンサス類の一種、それ以上の魚や両生類の存在を、私はまだ把握できていなかった。
なにかが水中にいる、そこまでだ。
食卓に上がる魚や両生類は素晴らしいものだったが、私たちはその生け簀に近づかせてもらえなかったし、そのサンプリングバイアスも著しいものである。
事実、ここに来てから朝食はほぼゼナカンサス類のTriodus sp.1種に限定されていたし、夕食に出る四足動物も、その8割がたが大きな鱗を持つ”両生類”、コロステウス類の一種であった。
昨夕のアクロレピス似の条鰭類は数少ない例外とはいえたが――いずれにせよ。
「その、小さい魚とかは食べないんですか」
私は尋ねてみた。
どこかで漁獲でもしていれば、混獲物や、なにかしらの珍しい――すくなくとも化石記録からはあまり知られていないような生き物に出会えるかもしれないと思ったから。いつの時代もそうだが、魚にしても動物にしても、大型種になればなるほど多様性が低下する傾向がある。
「26年前、まだ森に人が住み始めたばかりの頃ね」やや大きくなり始めた下腹部をさすりながら、そこに話しかけるように、彼女は話し出した。ちょうど20代か30代といったところのようだったから、おそらく彼女の親世代から聞いた話だろう。
――あの、小魚を食べるか、という話をしているのですが。
「その頃には村長がいたのよ。一番偉い人」
「はぁ」
「その人が街との交渉をしたり、物資を取り付けたりしててね。村のありとあらゆるものが彼のもとに集ってたの」
「そうですか…」
「そうですかって。村のものはまるで全部、彼のものだったのよ」
「それって、王様みたいなってこと?」
アリアが横から口を挟む。
「そうそう、王様。現実味ないでしょ?おとぎ話の存在だもの。」
「それで、彼がどうしたんですか」
「川のうん、と上流に小さな砂粒みたいな金が溜まってるところがあって、そこにキャンプを動かして、ひと月ほど浚わせると次の川を上って、ねぇ。」
「今とは全然違いますね」
「そうね。エンジン船で遡ってキャンプを作って、ときどき政府に追われて。そのたびに交渉して見逃してもらって。交渉、っていってもその、ね。」
「それで、その村長がどうしたっていうわけ?死んだ?」
――あのねぇ、言い方ってもんが。
「そう、死んだのよ。小魚を食べてね」
「…それだけですか」
「それだけよ。小さくて光るものを食べるな、って」
「光らなかったらいいってわけ?」
「そうなのかもね」
彼女は言った。
すくなくとも、食材の類を土産物として持ってこなくてよかった、と思った。
包装紙の銀紙が、小さくて光るもの、とカウントされたら、たまったものではない。
「さっき聞いた話と違う」
そう、アリアは口をとがらせる。
「さっき聞いた話?」
「その人は、小さい魚を食べると、魚を数えなければいけなくなるからって」
「数える?」
「そう、変でしょ?」
釣り糸を垂れて前で待っているのは、私にとってあまり、好きな方法とはいえなかった。
そう、待っているとついついほかのことが気になってしまうから。
オニヤンマかそれより少し大きいくらいのトンボに似た昆虫がはるか上空を、何匹も飛んでいた。
巨大トンボというにはほど遠い大きさではあったが、それでもその雄姿は目に焼き付けられた。
あれは…どうやったら捕まえられるだろう、と思ったが、あまりいい方法は思いつかない。
せめて水面付近まで降りてきたり、定期的な周回ルートをとってパトロールでもしてくれれば、だいぶ楽だったろうに。
村人にとっても、トンボはトンボらしい。
しかし、よくわからないことも言っていた。
朝のトンボはいいが、夕方のトンボを見たら不吉だ、などという。
そんな、蜘蛛でもあるまいし。
だいたいトンボが夕方に飛ぶのはあたりまえではないか、と思った。
そんなものを毎日不吉に思っていたら、不吉から逃れられないではないか、と。
けれど、しかし言われてみれば、トンボをやたら見かけるということは殆どと言っていいほどなかった。
時折遠くを飛んでいるなぁ、程度だったのだ。
それは昼間引きこもって舟を彫っていたからであって、空を見上げたのはようやく午後になってからだったせいかもしれない、と思うと、至極合点がいく。
釣り糸を垂れていると、かわるがわる村人がきた。
そして、動かない糸先の前で話を聞いた。
様々な、奇妙な話があった。
奇行をとる人の話や、頭のおかしくなった人の話は、どの村にも、ある程度あるらしい。
森に惹かれる、という話も多かった。
もうある場所のない土地のことや、スペースコロニーの中での話をしながら舟で出て行って、森に彷徨い出てそのまま居なくなってしまったとか、そういう話だ。
怪異のたぐいの話も、時折あった。
というより、生き物の話をしようとすると、寧ろ怪異の話に吸収されてしまうという方が近かった。たとえば、夜中に冷たい何かが、顔をべろりと舐めてきた、というもの。
それが酷く生臭いものだった、という。
両生類でも上を這っていったのではないか、と荒唐無稽なことを考えてしまった。
が、言われてみればそもそもここの人たちはハンモックで寝て、しかもその足元にはネズミ返しをつけるような人たちである。
村人の寝床事情も土地によって違うだろうから、一応は確認したのだが。
夜中に何かが動き回っている、という類の怪異譚はとても多かった。
とくに、夜中に何かが歩いてくるとか、天井から何かヌルヌルしたよだれのようなものが垂れてくるが、振り払ってみると手にはなにもついていないとか、いるはずのない子供が見えたが、探しても結局見つからなかったとか。夜中に声がしてくる、という類もまた多い。
しかしとても不思議なことに、彼らは人を驚かそうとしてくる、というのが彼女たちの共通見解だった。実害をくわえることはない、ということに関しては概ね意見が合致しているようである。
しかし考えてもみれば、この艀と似たような構造であるのなら、ではあるが、極めて高湿度で雨漏りはあたりまえ、どころか柱に水を常に滴らせて防火対策をしているようなこの場所で、いまさら天井から冷たいものが垂れてくる、と言ってもそれは水でしかないのではないだろうか、と、また無粋なことを思ってしまう。
「寝ていれば過ぎ去る」そういうのだが、怪異としてそれは弱すぎやしないか。
もっとこう、人を捕って食ってしまうとか、そういうものを期待していたのだが、現実のほうが無粋だった。
夜中の怪異の話を聞くと彼女たちは、夜這いしてくる男に比べればなんということはない、と、口をそろえて言うのである。そしてその時は全力で暴れろ、と。
残念ながら、そこに古生物の付け入るスキは、あまりなさそうだった。




