肉鰭類(1)夜の水辺より
カサカサ、コトコト。
日が暮れるとともに、作業艀のあちこちで生き物が動き出す音がしはじめる。
人は寝静まり、誰一人、音を立てるものはない。
夜の艀はしん、と静まり返る。
しかしその静寂のなかに、夜みた、あの音もなく動く小舟がいるのではないかとおそろしく感じてならなかった。
それだけでなく、なにか自然のものにせよ、それとも人にせよ、闇夜に紛れてひっそりと足音を忍ばせ、こちらに迫り来るものがあるのではないか、という疑いは、なくなる気配がなかった。
そして、あの舟を見てしまったこと自体、私は誰にも共有していなかった。
ゆえに、あれが何なのか、私には皆目見当がつかなかったし、へたすれば舟のように見える巨大な生き物であれ、あるいは私の脳が作り出された、私の脳の中でおいてのみ純粋に実在するものであるかもしれなかった。
せめてリリィには話をしておこうと思っていた。
――のだが、彼女もまた村と同じように、夕食が終わるなりすやすやと寝息を立ててしまい、もう起きているのは、私とアリアだけだ。
なかなか、というより全然といっていいほど、三人揃う時間がない。
「なに、水面見てるの」
顔を並べて、アリアは私の視線の方をみやった。
「いや、なんでも」
そう、しらを切る。
「ふーん、それにしちゃ、妙に気にしてるなぁ、って」
「あー、いや、その…。この真っ暗な夜に船を漕いだら、なんか、宇宙船みたいだな、って」
「そうね…たしかに、気持ちいいかも」
「気持ちいい?」
「そうじゃない?なんか、宇宙を漂って、星から星に移動してるみたいで――」
「そうなんだ」
私にとって、宇宙旅行なんて――地球から軌道上の超時空ゲートを通ってこの石炭紀の惑星に辿り着くまでの、二週間の旅なんて――気持ちいいとは全く無縁の、自らの蒸留物を吸い続ける地獄でしかない、そう思っていたからだ。
「なんか、まだ私たちがおなかの中にいたような、そんな感じがするのよ。全部外まかせで、どうなるかはわからない――だけど、全部忘れてられる――そういう時間。」
「考えても、仕方ないから?」
「そうね――何もかもを預けているような、そんな感じ」
二人で、月と星のまたたく夜空を見上げた。
「あっ」
視界の隅で、何かが動くのに気づいて、目線を落とす。
月明かりに照らされた水面に、幾つもの波紋が同心円状に広がって、互いに干渉し合っていた。
夜になると、水面はむしろ、動き始める。
――この色のついた川ではもしかすると、昼より夜の方が、生き物が活発なのではないか。
そんな気すらした。
「魚、かな」
「ライト、いっちゃう?」
アリアがあの、やたら強力なヘッドランプに指を掛けていた。
「まって、いま、夜目に慣らしてるから」
昼間も何か、魚なり四足動物なりが息継ぎに上がって来る様子を何度も見た。
しかし、すぐに褐色の水の中に消えていって、それが一体なにものであったのかについて、昼間みてわかることなどほぼなかった。村人たちはそれを一目見るたび何なのかいうのだが、それらはみんな地方名というか地域でのあだ名のようなもので、私からするとそれが水の中の魚らしき生き物である以上、なにも有益な情報を得られていなかった。
しかし、いまは夜。
人の時間は終わり、ここにいるのは魚たちのほか、私たちだけ。
水面をつぅーっと真っ直ぐ切っていく小さな、丸みを帯びた背びれに、私は目を凝らした。
しかし、その全貌は見えてこなかった。
「ねぇ、そろそろつけてもいい?」
「いいよ、見えないし」
アリアがヘッドランプを一閃させた、その途端だ。
どどどどどーーーーん!
水しぶきとともに立ち上がる、ものすごい水音。
一瞬心臓に何かが走る気がして、私は気が付いたら、飛びのいていた。
そして足元に転がっていたキセルガイみたいな陸生巻貝を一匹踏みつぶし、ねちっとした感触が靴の裏に。
水面に、すこし上を向いてたむろしていた魚は、頭の幅が広く、胸鰭がほかの鰭よりはるかに大きかったことをのぞいてほとんど、残像としてしか見えなかった。
40センチほどはあるが、上から一瞬見えた概形としてはすこし、メダカに似ている。
「いやぁ、びっくりしたぁ、ほんとっ…」
アリアが額を拭う。
「ボラの群れに光当てたみたいだった、しかも、何だかわからなかった」
「肉鰭類?オステオレピスとか、そんなやつ。デボン紀でよく見るやつ。石炭紀だとえーっと…」
「メガリクチスの仲間じゃない?メガリクチスとか、リゾドプシスとか。それか、リゾドゥスの仲間、えーっと、ストレプソドゥスとリゾドゥスだっけ?ハイギョとシーラカンスじゃ、すくなくともなかったし。」
――とフォローしたところで、私は名前と断片的な、頭を構成する骨の形は知っていても、これらの魚の全体がどのような姿なのかはよくわかっていなかった。あと、ポロレピス類がこの時代までいたかどうか、自身がない。
「それっ!そいつそいつ。メガリクチスよ、たぶん。」
なお、メガリクチスといういかにもデカそうな名前に反して、大きさはボラくらい。
なお記載時に巨大な魚だと思われた標本は、リゾドゥスと後に名前が改められる。
「やっぱ自力で、捕まえたいよね」
しかしアリアは、あまり乗り気ではなかった。
「デボン紀見たあとだと、なんていうか――燃えカス?」
「あのー、ハイギョしかいない時代から来たんですけど、現代っていう」
私にとって、肉鰭類とは、肺魚と実在はしても(現存はしているのか?)触れられる機会はまずないシーラカンスをさすものだった。
だから夜の水中を悠々と泳ぐあの魚は、どうしても確保しておきたかった。




