労働、石炭紀、文明
私は考えていた。
何かしらのロジックを。
まず、私を疑おう。
そう思った。
アリアの言ったことは、振り返ってみると、ド正論だったのかもしれない。
たしかに、アリアは受け入れられず、私は受け入れられた――それは確かに貴重な観察だ。
今まで観測に裏切られ続けてきた私の予想と比べれば、はるかに信頼できる、アリアなりの観察。
しかし、私とアリアの、いったいどこが違ったというのだろう。
私は船を内側から削っていた。
ずっと。
だから、アリアの仕事っぷりは全然見られていない。
そこで何をしでかしたのか、をも。
私もそうだけれど、人はどうしても自分がやったことを正当化しようとする。
そして、自我、などという存在しない虚構の産物を作り出して、自分を安定させようとする。
それはおそらく、2つの側面がかかわっているのではないだろうか。
自身の肉体というものが時間を超えて永続するものである。これはさすがに疑いようがない。しかし、その場での行動や思考はニューロンの発火による瞬時の発火であり、永続などしない。ただ、それにはニューロンのネットワークがなすパターンがあり、類型がある。そのメッシュワークの構築やパターニングには、そこそこの再現性がある――それは物質でありミクロの面で肉体だから。
でも、そこに意識的な主体などなく、そこに何か、自身を操るコクピットのようなものがあるというのは、そうでないことを論証することが幾ら難しかったとしても、いやそれだからゆえに、神の変形に過ぎないだろう。
なにか、アリアがとんでもないことをしでかしてしまったのだろうか?
私は次に、そちらを疑った。
もしアリアがすごく不味いことをして、だからアリアだけが白い目で見られて、私は丁寧に手取り足取り教えてもらえた、というのは、凄くシンプルだ。
シンプル、かつ、アリアには認めることが難しい問題だ。
なぜなら、何か自分が失敗したということ、――ただヘタクソなわけでなく禁忌のたぐいを踏んだということ――は、認識できなかったからこそ踏んでしまった、あるいは、認識していたがゆえに、踏んでしまったことを正当化しはじめるからだ。「自分」を守るために。
いずれにせよ、やらかしてしまったことを反省しろ、というのはものすごく筋が悪い。
なぜいけなかったのか、ということは、外からしか見えてこないはずなのだ。
そして、なぜいけなかったか、ということは、本人にも、指摘するほうにもよくわかっていないことも多い。つまるところ、そこには介入可能性があるかもしれない。
私たちが反省するとしたら、村人たちにとって了解可能な方法とロジックにおいて、反省の意を示さなければならない。
そして、成功例と、失敗例が今、並んでいるのだ。
違いを探せ。
アリアの籠は、素人目にもヘタクソだ。それは間違いない、が、それを理由としてこちらが提示した時点で、私の最悪の読みを私が立証してしまうことになる。それはまず、脇にどけよう。
いま目の前にあるのは、めちゃくちゃになったロープと、蔓が途中で折れた籠が、いくつも――
幾つも。
悲惨に失敗し続けた――し続けた?
――どういうことだ?つまり、失敗したうえで、次に手を付けた?
「完成までまずは持っていくってこと、一番大事」
私が籠を編んだ時、教えてくれた方は、確かにそう言った。――名前は憶えていないけど。
あぁ。
私の中でパチン、と、ピースがはまった。
それは、まずい。
それに気づけたのは、さっきアリアに腹を立てたからかもしれない。
このジャングルで、それを、どうやって集めてくる?
蔓をとってくるのも人の仕事だし、その蔓とて自然の産物で…
それをもって、私に負けたくないというくだらない理由で、リトライを繰り返したのではないか?
途中で折れた、これではケイにかなわない、だから最初からリトライ、そんな感じで。
いや、そうでなかったとしても。
そう映ったとしても、特におかしくはないように思った。
だとすれば――こいつは、蔓の、いや、自然の産物の大事さがわかっていない。
そう感じたのではないか。
それは所謂私たちのイメージする文明から切り離され――いや、自分から離脱し――短い間に水上生活によく適応して、”再野生化”した時空航海時代の人々にとって、最も大事な概念ではないのか。
いや、もっと普遍的かもしれない。
私たち人類は――あまりにも、労働を丸投げしてこなかったか?
奴隷に。奴隷がなくなったら、労働者に。労働者が高くなったら、石炭に。
そして――石炭と石油は、あまりにも労働力として優れていた。それが枯渇してからは、必死にその代替を探した――野に還らないために。
いや、文明的、というもの自体が、そうしたものだと捉えることはできやしないか?
「人が直接働くから、文明的でない」
それは――人が直接考えないから、正しい、と主張するアトラス社会にもスムーズに接続する。
あっている、保証はまるでない。
しかし、この蔓をとってきたのが村人たちで、彼らはこの金属資源にも事欠き精錬すらできず、何百キロも泥炭地が続いて岩という概念すらない水上の村の中で蔓を刈り取り、人力で彫った丸木舟を漕いでここまで集め、そして皮を剥いて材料としたのだ。
その最終産物が、いくら都市からすれば安いランチ一食分以下の価値しかないのだとしても、それを無駄にするような行為が許されるべきではない、という認識なら、村人と私で共有できる、物質的で永続的なものなのではないか?
ましになるかもしれない。
私は熱い冷汗をかきながら、おそるおそる立ち上がった。
石炭紀マルクス主義くるか?()




