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10 ストーカー

 ――伊吹 由貴。


 僕の名前だ。この世界でも同じように名乗っている。みんな、僕をユキと呼ぶ。


 でも、今、彼の口から告げられた響きは何故かひどく懐かしく聞こえた。


 僕は何を言っていいか分からなくて、男をじっと見つめることしかできない。


 一度その金色の瞳と視線を合わせてしまうと、絡め取られたように逸らせなくなった。何故かは分からない。

 男はそれが嬉しいようで声はますます甘ったるくなった。


「君はこの世界にやってくる一週間前、クラスメイト達とかくれんぼをしていたね。

 君は校庭の端のクヌギの木の陰に隠れることにしたけれど、そのまま木にもたれてすやすや眠ってしまった。こずえが風に揺れる音と、君の小さな可愛い寝息だけが聞こえた。

 僕は永遠に見つめていたいと思った……」


 何を語り出したかと思えば、それはこの世界の誰にも話していないはずの僕の恥ずかしい話……!


 授業が始まっても僕が戻ってこなかったから、ちょっとした騒ぎになってしまったのだ。


 僕自身言われるまで忘れていた。懐かしい話でもある。


 校庭の砂利。チャイム。校舎のざわめきが脳裏によみがえってくる。


 しかし何故彼はそれを知っていて、尚且つ見てきたかのように語るのか。


「……あなたは色々な世界を行き来できるの?」


 それは不可能なはずだ。

 ネーレ様曰く、異世界の存在を召喚することは、転移術、召喚術の応用で理論上は可能だが、こちら側から魔力のない世界に転移することはできないとのことだった。

 

 僕が喋っても今度は震えなかったけれど、うっとりとしているのがわかって居心地が悪い。


「ああ、違うよ。君の世界に行くことは叶わなかった。可愛い君に逢いたくて必死に方法を探したけれどね」


 男は優しく答える。


「僕は昔、ある人間から不思議な鏡を貰ったんだ。それは持ち主の望むものをうつす鏡なんだ」


 また水槽に手をついて僕を見つめながら言う。


「僕の望むものは君だった。いつだって君だけだった。だからずっと見ていたんだよ」


 やっと君に逢えた、もう一秒だって目を離したくないよ……と切なそうに眉をよせ、金の瞳を細めた。灰青色の髪がさらりと揺れた。


 その憂いを帯びた様子たるや、ティティスあたりが見たら「ひー!」と叫んで顔を覆ってしまうだろう。

 

 しかし、これは。


 ……ストーカー宣言では?


 いつだって君だけ、ずっと見ていた?


 それは……比喩表現? それとも言葉通りの意味? おはようからおやすみまで?


 僕は蛸人魚になってから食事と排泄が必要ではなくなった。

 この世界の海は魔力が満ちていて、それだけで充分生きていけるのだ。逆に陸は魔力が分散していて、場所によっては力が出ない。


 男子中学生だった頃はもちろんごはんを食べて、おトイレにも行っていた。当たり前だ。人間の当然の整理現象だ。


 食事風景はともかく。


 ま、まさかこの男、僕のおトイレ事情まで……。



 水槽の中の生温かった海水が、急に凍りついたように感じた。


 男と交わっていた視線を引きはがし、パッと後ろを振り返る。

 分かりきっていた。水槽のガラスに阻まれてどこにも行けない。

 これ以上、後ろに下がれない。逃げ場がない。


 ストーカーと二人きり。


「……あわ、あわわわわ」


「どうしたんだい?」


 優しく訊かれる。

 

 どう答えればいいのか。

 正直に言えば帰ってほしい。そして金輪際、僕を不思議な鏡とやらで見ないと誓ってほしい。


 でも言えない。男は優しく見えるけれど、自分を否定するようなことを言われたら豹変するかもしれない。


 今となってはこの水槽だけが、僕をストーカーと隔ててくれる頼もしい味方だった。


「あ、あの貴方は僕を助けに来てくれた……ですか?」

 

 めちゃくちゃ声が震えてしまった。

 どうしよう。「僕は君の味方なのに。何故怯えるんだい?」とか言って酷いことされるかもしれない。


「もちろん、そうだよ。……ねえ」

 

「はいっ」


「もしかして……僕が怖いのかな?」


 さっそくバレてしまった。

 どうしよう。なんて答えるのが正解なんだろう。

 

 ストーカーを刺激しない会話術なんて僕は知らなかった。義務教育に組み込んでいてほしかった。


 僕が答えられないでいると男が口を開いた。


「……少し、はしゃぎすぎてしまったかな」


 そう言って、男がはじめて僕から視線を逸らした。

 俯かれると、長めの前髪で表情が分からなくなる。


「君に逢えて、話しかけてもらえて、僕の言葉を聞いてもらえるのが嬉しくて……」


 男は消え入りそうな声で言う。


 さっきまでの、この世の春といった様子から一変、今の男は叱られて耳を垂らした大型犬だった。

 一秒だって目を離したくない、とか言っていたのに僕の方を見ることもできないようだった。


 ここまでの落差を見せられると、僕が悪いことをしたような気になってくる。


 いや、すぐ警戒を緩めては駄目だ。


 ……でも、何か誤解があるのかも。


「あの」


 僕が呼びかけると、男はハッと顔をあげた。

 金色の瞳が潤んでいる。


「あなたの名前は?」


 そもそも僕は男の名前も知らなかった。

 まずはそこからだと思った。


 僕の問いに、男はなんだか泣き出しそうな顔で、それでも微笑って、


「僕としたことが。名乗りもせずにすまない。

 ――セレネと呼んでくれるかい?」


 と言った。


「ずっと君を見ていたものだから。初対面ということが頭から抜けてしまっていたよ。ごめんね。君は僕のことなんか知らないのに」


 セレネは恥ずかしそうに笑った。

 どうやら落ち着いて話ができそうだった。


「セレネさん」


「セレネ、と。できれば僕には気を遣わずに接してほしいな」


「セレネ」


「……うん」


 僕が名前を呼ぶとセレネの頬は薔薇色に染まった。



「ずっと僕を見てたって。どれくらい? 二十四時間?」


 怒らせないように会話しようなんて考えても、そもそも僕は腹芸なんてできないのだ。

 

 だから単刀直入に訊いた。


「ごめんね。僕としても、心の底からそうしたかったんだけど、鏡の充電が切れるから……」


「鏡、充電式なの!?」


 スマホみたい。この世界、電力とかあったんだ!?


「充電というか、充魔だね」


「充魔」


「ユキの故郷風に言ってみたよ」


 にこっと笑うセレネ。僕を通してあっちの世界にも随分詳しくなっている。


「魔力をためて使うんだ。充魔しながらの使用は故障の原因になるからね、二十四時間は見守れなかったよ。ごめんね」


 なぜ、謝るのか。なんだか僕がずっとセレネに見ていて欲しがっているみたいに言わないでほしい。


「じゃあ、あの……僕のプライベートとか……」


「?」


 僕がもごもご口籠るとセレネは不思議そうに小首をかしげた。察してほしい。


「僕のおトイレ……とか……」


 めちゃくちゃ小さな声になった。

 でもセレネには届いたみたいだった。


「ユキ。僕はユキが嫌がるようなことはしたくないんだ」


 ということは。


「もちろん、ユキがお花をつむところは見ていないよ」


 なーんだ!!

 良かった良かった。

 なら、セレネは別に僕のストーカーではないってことだ!

 

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