9 人魚姫の代わりに
そうして初めて会ったあの子は小さな小さな人魚姫だった。
丸いお腹に短い蒼い尾ひれ。
ぷくぷくのもみじの手が、おそるおそる僕に伸ばされたのを昨日のことのように思い出す。
その頃の彼女にとっては恐ろしげだった父親が連れてきた蛸の人魚に、彼女、ティティスはその日のうちに懐いてくれた。
――なまえは?
ユキといいます。
――どこからきたの?
ここではない、遠い世界からです。
――お父さまとなかよしなの?
さっきお会いしたばかりですが、もう仲良しですよ。ティティス様とも仲良しになりたいです。
――わたしもよ!
それからはお世話係として、毎日彼女と過ごした。
ティティスは異世界から来た僕の話を聞くのを特に好んだ。
そして、自分もいろんな世界を見たいと言い出す。
まずは海の外。
はじめのうちは微笑ましく見ていられたが、彼女の好奇心と情熱が本物だと知り、僕は毎日頭を悩ませることになった。
そうして。
ティティスと過ごして十年。
彼女は美しい姫君に成長していた。
父親譲りの美貌と金翠の瞳。
母親から贈られたのだろう、朱金に輝く巻き毛。
しなやかな蒼い尾ひれ。
そして、お転婆。
「姫様! また浅瀬に行きましたね!?」
「ぎくっ。ユキ〜、あそこ穴場なの。面白い物いっぱい落ちてるの」
「人間に見つかったら何されるか分かんないんですよ!」
「何されるか分かんないなら、仲良くなれる可能性もあるじゃん?」
楽観的すぎる。
人間にとって僕らは異形だと、問答無用で殺されてしまうかもしれないのだと、ティティスの勉学担当のロブ先生に散々脅されたのにまるで効いていない。
僕が蛸足をうねらせて今日という今日は許さん、どうお説教してやろうかと考えていると、
「ユキ」
低い声が体に直接響いた。
後ろから、太い二本の腕が僕に絡んでいた。
振り仰ぐと、そこにいたのはティティスの父親、海神ネーレ様だった。
「あー! お父様、またユキにべたべたして! ユキはわたしのママなんだからね!?」
ティティスが僕の蛸足をむんず、と掴んで引っ張る。
「違う。乳母だ。私が見つけてきた」
ネーレ様が僕に絡ませた両腕に力を込めて言った。
「乳母〜? おっぱい貰ったことあったっけ?」
「そういう意味ではない」
美しい娘と父が、僕を挟んで喧嘩をはじめる。
そんな平和な日常は、ある日終わりを告げたのだ。
「ねー、王子様ってめっちゃ格好良かったんだよ〜」
ティティスがまたこっそり浅瀬に行こうとして、船から落ちて溺れた人間の王子を助けたらしい。
浜辺まで運び、彼の目が覚めるのを待って海に戻ってきたという。
ティティスが僕を筆頭に城中の者にきつく叱られたのは言うまでもない。
しかし、彼女はどこ吹く風。毎日王子の話をするのだ。
「元気かなー」「また会ってみたいなー」「わたし命の恩人なんだし会いに行っても大丈夫じゃない!?」
ポジティブなのはティティスの良いところだが、短所でもある。
このままでは絶対この子は王子に会いに行ってしまう。
そう思って、僕自身もネーレ様に止められるだろうからと誰にも告げずにこっそり城に近づこうとして。
捕まって今ココ!!
僕のぷくぷく可愛い小魚ちゃんが十五歳の美しい人魚姫になるまで、穏やかに第二の人生を生きてきた。
小さなティティスと城中追いかけっこしたり、かくれんぼしたり。
たまに遊びにきてくれるギュンジウェラさんの背中に乗せてもらって遠出したり。
無言でくっついてくるネーレ様にこちらも蛸足を絡ませてみたりしながら気づけば十年。
姫より僕の方が危機管理能力がなかったのかもしれない。大人なのに情けない……。
まさか海面から顔を出した初日に捕まってしまうとは。
ここは地下だから何日経っているのか分からない。一週間くらいだろうか?
いずれにせよ、海の城では僕の行方不明で大騒ぎになっているだろう。
ティティスとネーレ様が心配だった。僕を探して海中を荒らしまわっているかもしれない。しっかり者のギュンジウェラさんが来てくれていたらいいんだけど。
僕はそんなふうに自分の半生を振り返っていた。
そう、現実逃避。
水槽越しに突きささる熱視線。
黒い手袋をした両手を水槽について、金色の瞳で僕を一心に見つめる灰青色の髪をした男。
ガラスについた男の両手はすり、すり、と何かを撫でるように動いている。
最初は何をしているのか分からなくて怖かった。
ふと、思い至った。
ま、まさかこの男、ガラス越しに僕のことを撫でているつもりなのでは――
「ようやく逢えた……」
男が独り言のようにぽつりと呟いた。
「ずっと君に逢いたかった。僕がいれば君をこんな悍ましい目にあわせたりしなかった……!」
男の右手が握りしめられ、ぶるぶる震えた。
水槽に、叩きつけそうな気配を感じ僕は思わず首を竦めた。
すると男は僕の怯えに気づいたようにハッとして拳を緩めた。
眉をよせて、すまなさそうに金色の瞳が僕を見つめている。
この男は僕のことを知っている。でも僕は男のことを知らない。
こんな人、会っていたらぜったい忘れないと思う。
「あ、あの」
勇気を出して声をかけてみた。誰かと話すのは久しぶりだった。
すると、
「ああ……!!」
と、男が熱いものに触れたかのようにガラスから手を離した。
「ユキが僕に話しかけている……!」
だんっと膝をついて、自分を抱きしめるようにして震えだす。
顔だけは僕を見上げて、恍惚の表情を浮かべている。
――本当に怖い。
助けに来てくれた風だったけれど、帰ってほしいかもしれない。
いや、好意的ではあるので王子よりはマシ……だろうか? 分からない。僕は僕の危機管理能力をもう信用していない。
この地下室から逃げ出せるチャンスかもしれないのに躊躇わざるをえないほど、男の様子は意味不明だった。
僕の引き攣った顔に気づいたのか、男は誤魔化すようにニコ、と笑って立ち上がった。
と、思ったらまたすぐ片膝をついた。
その方が縮こまっている僕との距離が近かった。
「取り乱してごめんね。可愛い君が僕を認識していることに感極まってしまって……」
「に、認識?」
「……今、君と僕は正式に出逢った。今日は僕達の記念日だね……毎年お祝いしようね」
水槽に頬を擦り寄せる男。
い、意味が分からない。正式に出逢ったとは?
「あの、どうして僕を知っているの?」
「ずっと見ていたからだよ」
金色の瞳が一瞬も僕から逸らされないのが恐ろしい。
「……ずっとって、いつから?」
男はくすりとわらった。
「ずっとはずっとだよ。伊吹由貴くん」




