第3話:女帝 ― 琥珀の標本とプラスチックの庭園 ― ②
頬の産毛が、まだ逆立っている。
さっきの「触れられた」が、皮膚の内側に残っている。消えない。
女帝が動くたび、重厚なベルベットのドレスが微かに擦れ合い、パチパチという鋭い静電気の音が静寂を噛み砕いた。
彼女には重力がない。
プラスチックの地面を滑るように近づくその姿は、優雅というより――台座ごと移動する巨大な蝋人形だった。
頭上の十二の星が描く冠。
この無菌の楽園において、逃れようのない統治を誇示している。
「おいで。可哀想に、そんなに泥に汚れて」
声は唇からではなく、ゆりえの鼓膜の裏側で直接震えた。
言葉の形をした振動が、脳へ沁み込む。
“拒否”の余地だけを、先に奪う。
女帝が、白い腕を伸ばす。
関節の境目さえ見えないほど滑らかな腕。
抱き寄せられた。
――抱擁じゃない。
温かいビニールの膜に全身を包まれる。
あるいは、巨大な繭の胃袋に飲み込まれる。
息が、薄くなる。
胸が、広がらない。
頬に触れるドレスの生地から、日向に放置された新品のタイヤみたいな、揮発するゴムの匂いが立ち昇った。
甘い造花の香りの奥で、その匂いだけが生々しい。
肌が、ぱちり、と刺される。
静電気。髪の根が浮く。
“清潔”の皮が、痛い。
「……離して。息が、苦しいよ」
ゆりえが藻掻いても、女帝の腕は拒絶を吸収するように柔らかく、逃げ場を塞いでいく。
抱きしめられるほどに、鼻腔を突くのは徹底的な無菌の匂い。
清潔であること。
安全であること。
――それが、ここでは命を絞り殺す鎖になっている。
肩のがま口が、ずしりと鳴った気がした。
中の泥が、脈を打つ。熱い。嫌な熱。
重みが「逃げるな」と言っている。
離れた場所で、メルミが欠伸をしながらプラスチックの池の縁を歩いていた。
女帝の脅威に怯える様子もなく、ただ樹脂の中で固まっている金魚の左右対称な尾鰭を、退屈そうに眺めている。
「……綺麗の押し売り。最悪ね」
メルミが、吐き捨てるように呟いた。
その声だけが、ここでは少しだけ“生きて”聞こえた。
女帝の空っぽの眼窩から、また一粒、大粒の涙がこぼれ落ちた。
カラン。
足元へ転がる。
ちょうどメルミが落とした白砂の泥が混じる場所。
急速に冷え、固まる。
蜂蜜色の琥珀になる。
そして――泥の縁が、つるりと光った。
濡れたんじゃない。覆われた。
泥が、泥のまま、封をされた。
「……あ」
ゆりえの視線が、その琥珀に吸い寄せられた。
透明な樹脂。その中心。
光を屈折させて歪んだ核みたいな場所に、それはあった。
半分に割れた、小さな白い錠剤。
表面には中央に一本の線。
縁はわずかに欠け、微細な白い粉が樹脂の中に散っている。
それを見た瞬間、指先にザラリ、と粉っぽさが蘇った。
(これ、知ってる)
(……あたしが、いつも掌に乗せていたやつだ)
「これを飲めば、もっと良くなるから」
「いい子だから」
小さな白い塊を、誰かの口元へ運んだときの指の震え。
救いたいという祈り。
――でも。
飲ませることで、相手のノイズ(生命)を奪って、自分が安心したかった。
あの卑怯で、曇った満足感。
女帝の声が、さらに近い。
「もう、頑張らなくていいのよ」
「削れないで。汚れないで」
「ここでは、全てが一番綺麗な形のまま、愛されるのだから」
指先が、ゆりえの頬をなぞる。
熟れすぎた果実みたいに柔らかい。
なのに、命の脈動だけを拒む静止がある。
ぶわり、と鳥肌が立った。
全肯定の優しさが、ぬめりとした粘膜みたいに全身を覆い隠していく。
肌の上じゃない。
皮膚の下へ、入り込んでくる。
喉の奥から、酸っぱい胃液の匂いが込み上げた。
「離してよ……!」
「……あんた、気持ち悪いんだよ!」
ゆりえは自分を包み込んでいた白い手を、力任せに跳ね除けた。
理性じゃない。
生存本能が選んだ、咄嗟の暴言。
女帝は理解を拒絶された衝撃に、巨大な肩を小さく震わせた。
空っぽの眼窩から、さらに粘度の高い涙が溢れ出す。
カラン。カラン。
琥珀が、ゆりえの足首の近くで固まった。
蜂蜜色が、床と靴底を繋ぐみたいに薄く広がる。
冷たい。
なのに、動きを奪う。
ゆりえが一歩退こうとした瞬間、靴底が“噛んだ”。
ギチ、と薄い音。
剥がそうとすると、琥珀が糸を引く。透明な糸が、足を引き戻す。
足首の皮膚まで、硬い膜で撫でられるみたいに冷える。
「ゆり、足!」
メルミの声が飛んだ。
遅い。もう、貼りついている。
「救いたい救いたいって、誰に言ってんのさ!?」
ゆりえは剥き出しの敵意を女帝へ叩きつけた。
差し伸べられる手は、依然として白く、完璧な救済の形をしている。
だがゆりえには、それが――防腐剤を流し込まれて、死なないだけの標本に変えられる注射針にしか見えなかった。
ゆりえは地面に転がる錠剤の琥珀を、爪が剥がれるほどの勢いでひっ掴んだ。
冷たさが掌へ噛みつく。
樹脂の表面が、皮膚を吸う。
指先から、熱が奪われていく。
――痛い。
透明な糸が、足首をもう一度“引いた”。
(つづく)




