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第3話:女帝 ― 琥珀の標本とプラスチックの庭園 ― ③



透明な糸が、足首をもう一度“引いた”。


半歩ぶん、身体が持っていかれる。

蜂蜜色の線が、プラスチックの床を薄く走った。糸じゃない。涙の名残――琥珀だ。足と世界を、もう一度だけ繋ぎ直そうとしている。


「……っ」


足首が冷える。冷たさが皮膚の下へ潜って、靴底が床に噛む。

ギチ、と薄い音。剥がそうとすると、透明な糸がいっそう細く伸びて、ゆりえを引き戻す。


逃げるな。

そう言われてる気がした。


ゆりえは床の琥珀へ手を伸ばした。白い錠剤を抱えた、あの透明な塊。

掴んだ角が掌に食い込み、血がじわりと滲んで、樹脂の表面に赤い汚れを作る。


痛い。

その痛みだけが、この無菌の楽園で「まだ生きてる」を残してくれる。


顔を上げる。


女帝は、差し伸べた腕を空中で止めていた。

指先が、ほんの少し迷っているみたいに震える。優しく拭う形のまま、止まる。


それでも彼女は近づいてくる。

白い腕。滑らかな皮膚。抱きしめれば救いになると信じ切った姿勢。


――だから、息が詰まる。


ゆりえは女帝の瞳のない「穴」を見た。覗き込むんじゃない。背けもしない。

そこにあるのは、見えないのに押し寄せる「正しさ」だった。


喉の奥が乾く。

言葉が、出る前に一度引っかかった。


「……ごめん」


小さく言ってしまう。

謝りたくないのに、先に口がそう動く。


それでも、続ける。


「でも、あたし……泥の中で、メルミといたいんだ」


言った瞬間、胸の奥が痛んだ。

女帝の手を否定した痛みじゃない。――あの手が“本当に優しかった”ことを、身体が覚えている痛み。


ゆりえは琥珀を、がま口へ押し当てた。

冷たい塊を、口の暗い縁へ押し込むみたいに、ぐっと。肩のストラップが食い込み、重みが背骨へ伝わる。


銀色の口金――らっきょうに手をかける。


パチン!


硬質な儀式音。

火花が一粒、弾けた。


合図みたいに、世界から色が抜けていく。薔薇の深紅が薄れ、芝の緑が剥がれ、空の艶が死ぬ。

次の瞬間、プラスチックが耐えきれずに鳴き始めた。


バリ、バリ……パリン。


庭園が、熱を浴びたガラスみたいに割れていく。薔薇は破片となって宙へ舞い、ビニールの花弁がペンキの皮みたいに剥落した。

池の透明は裂け目から白く濁り、金魚の標本が“標本のまま”崩れて落ちる。


ググ……ズドン。


最奥の玉座が、真っ二つに裂けた。

裂け目から「本物の風」が吹き込む。湿り気。土。死。それでもどこかに再生が混じる、時間の匂い。


消毒液の平たい甘さが押し流され、肺がやっと空気を掴めた。


女帝は崩れゆく残骸の中で、粉々になった琥珀の粒を集めていた。

追ってこない。責めてこない。

ただ、拾う。拾って、掌にのせて、また拾う。


その指が、さっきまで「拭う」形をしていたことが――妙に胸に残った。


やがて彼女は、透明な塵へ還っていった。

最後まで、ゆりえの泥へは触れられないまま。


「……ふぅ」


メルミが破片を蹴り退かし、ゆりえの隣へ並んだ。黄金の毛並みに降り積もった樹脂の粉を、嫌そうに身震いして落とす。


「ようやく肺がまともに働くわね、ゆり」

「あの女、自分の善意で世界を窒息死させるつもりだったのかしら」


ゆりえは答えず、肩に食い込むがま口のストラップを強く握った。

中には琥珀の錠剤。氷みたいに冷たいはずなのに、布越しに伝わるのはひどく生々しい熱――鼓動みたいな熱だ。


ゆりえは、頬に指を当てた。

さっき触れられた場所。もう温度は残っていないのに、そこだけが妙に重い。


「ねえ、メルミ」

「……あの人の手、すごく優しかったんだよ」


声が少し掠れた。

メルミは一度だけ鼻を鳴らす。


「……そう。でしょうね。彼女は本気であなたを愛していたもの」

「それが彼女にとっての、唯一の正解だったのよ」


ゆりえは頷いた。小さく。


「……わかってる。わかってるけど」

「今のあたしには、ああされるのが、何より怖かった」


言い切ってしまうと、胸が軽くなるはずなのに。

軽くならない。がま口の重みが、ちゃんと残る。


ゆりえは、がま口の口金――らっきょうへ指を滑らせた。

この重みは、拒んだ「愛」の重みだ。まだ価値は測れない。どうして彼女が、そこまでしてあたしを固めたかったのかも、わからない。


でも。


「この重さがないと……あたし、自分がどこを走ってるか分からなくなっちゃうから」


言葉がそこで一度止まり、凪が落ちた。

前方には、色が混じり始めた紫の荒野。風がいる。匂いがいる。


「……いつか」

「もっと大人になって、あの人の優しさを『気持ち悪い』って思わなくなった時に」

「その時に、ちゃんと返しに行くよ」


ゆりえはがま口を抱え直した。胸の前で、逃げないように押さえる。


「……今はまだ、この熱いだけのゴミを持って、走るしかないんだ」


メルミがふん、と鼻を鳴らす。


「……お安い御用よ」

「重たすぎて動けなくなったら、私がそのがま口ごと引きずってあげる」

「泥落としの役目は、あくまであんたなんだから」


メルミが一歩先に出る。

ゆりえは追った。


背後で、プラスチックの世界が砂へ還り、風に削られて消えていく音がした。

薄いのに、確かに“終わる”音。


(第3話・完)



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