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第4話:皇帝 ― 鋼の都市と座標の空 ― ①



空は、不気味なほど正確なエメラルドグリーンのグリッドに支配されていた。

巨大な方眼紙を天に張り出したみたいな座標軸。その線の向こうを、雲の代わりにゆっくり流れていくのは――幾層にもスライスされた脳の断層写真。


灰白色の「影」が剥き出しの回路みたいに蠢き、冷たく頭上から世界を監視している。


カン。カン。カン。カン。


骨の芯を直接ノミで削るような、規則正しい金属の打撃音が街を叩いていた。

音は“外”からじゃない。耳の奥、歯の根、舌の裏。そこに響く。

この世界がゆりえという「個体」を測定して、不純物として裁断しようとしている――そんな拍動。


ゆりえは肩のストラップを握りしめた。

がま口の重みが、まだ残っている。布越しに、琥珀の熱が薄く脈打つ気がした。

ここでそれは、錘だ。逃げないための。


街は、巨大な鋼の定規を組み合わせたような無機質な立方体で構成されている。

ビル群の壁面は、冷たいシャウカステンみたいに青白く発光していた。

その光の面に、爪で深く抉ったような傷跡がある。そこから、文字とも数字ともつかない影が――滴り落ちている。


ゆりえがその文字列に焦点を合わせようとした瞬間、空間が磁場みたいにぐにゃりと歪んだ。

胃の底から吐き気がせり上がる。

隣を歩くメルミの輪郭が、陽炎みたいにぼやけて薄くなっていく。


(……見ちゃだめだ)

(これは、何かが終わってしまう邪悪なものだ)


目を逸らす。

でも、逸らした分だけ――音が来る。


カン。カン。カン。カン。


心臓の鼓動が、その打撃に引きずられていく。

逃げ場を塞ぐみたいに、ボリュームが上がる。


メルミが不快そうに喉を鳴らした。

彼女はゆりえの「半歩前」を歩き、グリッドの線をわざと踏み外すように斜めに鋼の地面を蹴る。

その足取りだけが、ここで唯一、秩序を侮辱していた。


――その時、世界の秩序がひっくり返った。


エメラルド色の空を覆っていたグリッドが、意思を持つ巨大な「面」となって降下してきたのだ。

鋼のビル群が地鳴りを立てて歪み、たわみ、ゆりえたちの頭上に折り重なる。

逃れようのない巨大なマント。

同時に、この都市を統べる「皇帝」の冷徹な顔。


ゆりえは呼吸を忘れた。

肺が、空気の形を思い出せない。


心臓の拍動が、街を打つ「カン、カン」という金属音と完全に同期していく。

見上げる空はもう、脳を切り刻む青白い断層写真で埋め尽くされていた。

逃げ場などどこにもない。

自分たちの一挙手一投足が、細胞のひとつひとつに至るまで、この巨大な秩序に「査定」されている――剥き出しの恐怖。


「提示。個体識別■■。脳深部、座標■■における……」


皇帝の声。

真っ白な廊下で聞いた、名前さえ思い出せない誰かのアナウンスに似ていた。

感情を剥ぎ取り、「事実」という刃物だけを研いだ合成音声。

その声が響くたび、ゆりえの脳漿が直接氷水に沈められるみたいに冷える。


「……お前も分かっているはずだ。現在の術式、成功率、わずか■%。非推奨。座標への接触は、魂の物理的粉砕を招くのみである」


世界から色が抜けた。

いろという名の「生命の揺らぎ」を、鋼の理屈が拒絶したのだ。

視界はモノクロの断層写真へ変貌し、皇帝の声が、ゆりえの触れたくない“蓋”を冷たいメスで抉りにかかる。


「これ以上の介入は、計算上、無価値であると断定する。無意味な希望という名のノイズを、秩序から排除せよ」


(ああ……やめて)

(言わないで)


喉の奥が、砂を噛んだみたいに乾いた。

理解できないはずの言葉が、鋭い棘になって網膜へ突き刺さる。

「無価値」という音。それが命を“数字”として切り捨てる刃だと、魂が先に知ってしまう。


耳の奥で、激しい砂嵐が吹き荒れ始めた。

ゆりえの指先は震え、視界の端でメルミの黄金の輪郭が、砂嵐の粒子の中に滲んでいく。

薄くなる。消える。――そんなこと、許せないのに。


(あたしがいけないんだ)

(あたしが、何かを間違えたから……)


罪悪感が、鋼のグリッドよりも重く、ゆりえの肩を押し潰そうとした、その時。


「……相変わらず、趣味の悪い計算式ね」


すぐ隣で、冷ややかな――けれど驚くほど温度のある声がした。


メルミだ。

彼女は絶望を投影する皇帝の巨大な顔を、退屈そうに見上げている。

黄金の瞳に恐れはない。あるのは、自分たちを「数字」としてしか見ないシステムへの、深い軽蔑だけ。


メルミは震えるゆりえの前に、スッと踏み出した。

「半歩前」を歩く彼女が、ゆりえを皇帝の視線から遮るための動き。

壁。

それだけで、ゆりえの胸がほんの少しだけ、息を思い出す。


「救えるとか救えないとか、成功率がなんだとか……」

「そんな紙切れ一枚の理屈を、あの子に聞かせるんじゃないわよ。この鉄屑」


咆哮じゃない。

けれど鋼の都市を震わせる打撃音さえ、彼女の不敵な嘲笑には抗えなかった。


「あの命が、あんたのその錆びた物差しで測れると思ってるの?」

「笑わせないで」


メルミは一度だけ、背中越しに低く言った。


「……ゆり。前だけ見てなさい」

「こんなガラクタの独り言を、いちいち心で翻訳する必要なんてないのよ」


振り返らない。

ただその「半歩前」を、鋼のグリッドを踏み砕くみたいに――力強く歩き始めた。


カン。カン。カン。カン。


音はまだ、追ってくる。

でも、ゆりえはメルミの背中を見失わない。

それだけで、足が出た。


歩き出したメルミの背中を追おうとした、その瞬間だった。

グリッドが落ちる。金属の雷鳴。エメラルドの線が床を穿ち、道を檻に変える。


――止められた。


断層写真の上に、赤い「×」。

それを見た瞬間、ゆりえの喉が砂を噛んだみたいに乾いて、肺の奥が消毒液の匂いで冷えた。


(つづく)





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