↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
12/39

第4話:皇帝 ― 鋼の都市と座標の空 ― ②



歩き出したメルミの背中を追おうとした、その瞬間だった。


頭上のグリッドが、雷鳴みたいな金属音を立てて垂直に降りてきた。

エメラルド色の光線が物理的な質量を持ち、鋼の地面を深く穿うがって、冷徹な鉄格子へ変わる。


行進は、あまりに呆気なく止められた。


見上げれば、ビルの壁面全体に投影された脳の断層写真の上に、鮮血みたいな赤色の「×(バツ)」が上書きされていた。

ひとつ。

またひとつ。

街が、道が、未来が、その無慈悲な記号で組織的に塗り潰されていく。


「通行不能。論理的帰結に基づき、全座標を封鎖する」


皇帝の声が、頭蓋骨の裏側で直接響く。

ゆりえは、その赤い「×」を見た瞬間、内臓を氷水で洗われたみたいに戦慄した。具体的な記憶は砂嵐の向こうにある。それでも――この記号が何を剥ぎ取ろうとしているのかを、魂が“痛み”で理解しかける。


「……提示。個体識別■■。成功率、わずか■%。高齢個体……10。遠方への■■は、リスク過多。■■は限界を突破。……終わりだ。希望は、システムを破壊するだけのノイズに過ぎない」


(ちがう……)


喉が鳴らない。息が浅い。

皇帝が吐き出す事務的な単語は、ゆりえにとって「言葉」じゃなかった。最愛の存在の首を締め、距離を遠ざける“重さ”だ。


視界の端で、メルミが立ち止まっている。

黄金の影が、赤い「×」に侵食されていく――そんな錯覚が、現実みたいに迫る。


(ちがう、ちがうッ……!)


歯の根が合わないほど震えた。

砂嵐ザーッが耳の奥で吹き荒れ、音という音を削り取っていく。なのに、皇帝の声だけが、やけに綺麗に残る。


「……いや。……いやだ!」


ゆりえは、がま口へ手を突っ込んだ。

暗い口の奥。熱い泥、冷たい琥珀、そのどれとも違う硬さに指が当たる。


一本の、細い「鋼の定規」。


抜いた瞬間、金属の冷たさが掌の骨まで染みた。

それは、ゆりえが自分勝手な規律で作り上げた“唯一の武器”だった。あと何回笑えるかを数えるための、折れたくない線。自ら封印したのに、失いたくない『残響』の形。


ゆりえは震える手で定規を掲げ、道を塞ぐ「×」の壁に向かって一歩踏み出した。


「……数字。数字、数字……!」


声が掠れてひっくり返る。

それでも、喉の奥の熱だけは嘘をつかなかった。


「あんたたちはさ、そうやって画面だけ見て、全部終わらせたいだけなんだろッ!」


定規の角を鋼の壁へ突き立てる。

キィ、と嫌な摩擦音。

赤い「×」が、粉みたいに削れて落ちる――落ちるはずなのに、壁は一ミリも譲らない。


「先がないとか、無理だとか……そんなの、勝手に決めた境界線じゃないか!」

「10年? だから何だよ!」


言葉の途中で、胸がきゅっと縮む。

“10”という数字の輪郭だけが、砂嵐の向こうから浮かび上がり、すぐに崩れる。


「……あたしたちの1秒は、あんたたちの計算式の100年よりずっと、ずっと重いんだ!」


口から出たのは『あたしたち』だった。

無意識に。

メルミの背中が、そこに入ってしまう。


ゆりえは必死に削った。赤い「×」を、終わりの印を。

救えない、と断じる正論へ――子どもでも大人でもない身体全部で噛みつく。


「触るな!」

「私の定規は……、あたしの定規はまだ、一センチも終わってない!」


金属の冷たさに、指先が痛い。

血が滲む。

それでも、離せない。


「メルミと歩く道に、勝手にバツをつけて……通行止めにするなよ!!」

「あたしは、先に行くんだ!!」


その瞬間、巨大な鋼の手が――あるいは運命そのものの質量が、ゆりえの小さな手から定規を奪い取った。


パキィッ!


硬質な、取り返しのつかない断裂音。

軽い音じゃない。金属が、魂が、真っ二つに裂ける音。


直後、世界からすべての音が剥がれ落ちた。


街を打ち続けていた駆動音「カン、カン」という心音ビートが、まるで電源を落とされた機械みたいにプツリと消え、完全な、暴力的なまでの「無音」が訪れる。


(ああ……)


ゆりえの指先に、記憶じゃなく「現在」の痛みとして、診察台の冷たさが戻ってきた。

シャウカステンに照らされた青白い写真の光。

鼻を突く消毒液の匂い。

折れた定規。折れた規律。


――あの白い部屋で、自分の心が「……もう、無理なんだ」と折れた瞬間の、残酷な再体験。


耳の奥で鳴っていたはずの『残響』さえ、今は聞こえない。


皇帝は、折れた定規の鋭い残骸を、ゆりえの足元に冷たく投げ捨てた。


「……定規は折れた。計算は終わったのだ」

「お前が捏造した『続き』など、この世界のどこにも存在しない。……理解したか、ゆりえ」


声は、もはやアナウンスではない。

抗いようのない「管理者」のそれ。


「ここでリタイアしろ。この『測れない苦痛』を引きずり、硝子の聖堂へ行くのか?」

「あそこは、お前が■■■■の最期に、あの手をどう振り払ったか……その真実を、逃げ場のない神の中で暴き出す場所だぞ」


リタイア。

その響きが、呪いみたいに甘い。


「罪に焼き殺される前に、ここで終わらせるのが、私の慈悲だ」


ゆりえは、折れた定規の破片を見つめたまま、音のない暗闇の淵に立たされていた。

隣で、メルミが静かに残骸を見つめている。


黄金の瞳は、揺れない。

あの日、診察室で下された「絶望」を全部知っているみたいに――残酷なほど優しい静けさを湛えていた。


その時、無音の中で、メルミの呼吸だけが一回、聞こえた。



(つづく)




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
「先がないとか、無理だとか……そんなの、あんたが決めた勝手な境界線じゃないか! 10年? だから何だよ! 私たちの1秒は、あんたたちの計算式の100年よりずっと、ずっと重いんだ!」 自分はこういう少…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。