第4話:皇帝 ― 鋼の都市と座標の空 ― ②
歩き出したメルミの背中を追おうとした、その瞬間だった。
頭上のグリッドが、雷鳴みたいな金属音を立てて垂直に降りてきた。
エメラルド色の光線が物理的な質量を持ち、鋼の地面を深く穿って、冷徹な鉄格子へ変わる。
行進は、あまりに呆気なく止められた。
見上げれば、ビルの壁面全体に投影された脳の断層写真の上に、鮮血みたいな赤色の「×(バツ)」が上書きされていた。
ひとつ。
またひとつ。
街が、道が、未来が、その無慈悲な記号で組織的に塗り潰されていく。
「通行不能。論理的帰結に基づき、全座標を封鎖する」
皇帝の声が、頭蓋骨の裏側で直接響く。
ゆりえは、その赤い「×」を見た瞬間、内臓を氷水で洗われたみたいに戦慄した。具体的な記憶は砂嵐の向こうにある。それでも――この記号が何を剥ぎ取ろうとしているのかを、魂が“痛み”で理解しかける。
「……提示。個体識別■■。成功率、わずか■%。高齢個体……10。遠方への■■は、リスク過多。■■は限界を突破。……終わりだ。希望は、システムを破壊するだけのノイズに過ぎない」
(ちがう……)
喉が鳴らない。息が浅い。
皇帝が吐き出す事務的な単語は、ゆりえにとって「言葉」じゃなかった。最愛の存在の首を締め、距離を遠ざける“重さ”だ。
視界の端で、メルミが立ち止まっている。
黄金の影が、赤い「×」に侵食されていく――そんな錯覚が、現実みたいに迫る。
(ちがう、ちがうッ……!)
歯の根が合わないほど震えた。
砂嵐が耳の奥で吹き荒れ、音という音を削り取っていく。なのに、皇帝の声だけが、やけに綺麗に残る。
「……いや。……いやだ!」
ゆりえは、がま口へ手を突っ込んだ。
暗い口の奥。熱い泥、冷たい琥珀、そのどれとも違う硬さに指が当たる。
一本の、細い「鋼の定規」。
抜いた瞬間、金属の冷たさが掌の骨まで染みた。
それは、ゆりえが自分勝手な規律で作り上げた“唯一の武器”だった。あと何回笑えるかを数えるための、折れたくない線。自ら封印したのに、失いたくない『残響』の形。
ゆりえは震える手で定規を掲げ、道を塞ぐ「×」の壁に向かって一歩踏み出した。
「……数字。数字、数字……!」
声が掠れてひっくり返る。
それでも、喉の奥の熱だけは嘘をつかなかった。
「あんたたちはさ、そうやって画面だけ見て、全部終わらせたいだけなんだろッ!」
定規の角を鋼の壁へ突き立てる。
キィ、と嫌な摩擦音。
赤い「×」が、粉みたいに削れて落ちる――落ちるはずなのに、壁は一ミリも譲らない。
「先がないとか、無理だとか……そんなの、勝手に決めた境界線じゃないか!」
「10年? だから何だよ!」
言葉の途中で、胸がきゅっと縮む。
“10”という数字の輪郭だけが、砂嵐の向こうから浮かび上がり、すぐに崩れる。
「……あたしたちの1秒は、あんたたちの計算式の100年よりずっと、ずっと重いんだ!」
口から出たのは『あたしたち』だった。
無意識に。
メルミの背中が、そこに入ってしまう。
ゆりえは必死に削った。赤い「×」を、終わりの印を。
救えない、と断じる正論へ――子どもでも大人でもない身体全部で噛みつく。
「触るな!」
「私の定規は……、あたしの定規はまだ、一センチも終わってない!」
金属の冷たさに、指先が痛い。
血が滲む。
それでも、離せない。
「メルミと歩く道に、勝手にバツをつけて……通行止めにするなよ!!」
「あたしは、先に行くんだ!!」
その瞬間、巨大な鋼の手が――あるいは運命そのものの質量が、ゆりえの小さな手から定規を奪い取った。
パキィッ!
硬質な、取り返しのつかない断裂音。
軽い音じゃない。金属が、魂が、真っ二つに裂ける音。
直後、世界からすべての音が剥がれ落ちた。
街を打ち続けていた駆動音「カン、カン」という心音が、まるで電源を落とされた機械みたいにプツリと消え、完全な、暴力的なまでの「無音」が訪れる。
(ああ……)
ゆりえの指先に、記憶じゃなく「現在」の痛みとして、診察台の冷たさが戻ってきた。
シャウカステンに照らされた青白い写真の光。
鼻を突く消毒液の匂い。
折れた定規。折れた規律。
――あの白い部屋で、自分の心が「……もう、無理なんだ」と折れた瞬間の、残酷な再体験。
耳の奥で鳴っていたはずの『残響』さえ、今は聞こえない。
皇帝は、折れた定規の鋭い残骸を、ゆりえの足元に冷たく投げ捨てた。
「……定規は折れた。計算は終わったのだ」
「お前が捏造した『続き』など、この世界のどこにも存在しない。……理解したか、ゆりえ」
声は、もはやアナウンスではない。
抗いようのない「管理者」のそれ。
「ここでリタイアしろ。この『測れない苦痛』を引きずり、硝子の聖堂へ行くのか?」
「あそこは、お前が■■■■の最期に、あの手をどう振り払ったか……その真実を、逃げ場のない神の中で暴き出す場所だぞ」
リタイア。
その響きが、呪いみたいに甘い。
「罪に焼き殺される前に、ここで終わらせるのが、私の慈悲だ」
ゆりえは、折れた定規の破片を見つめたまま、音のない暗闇の淵に立たされていた。
隣で、メルミが静かに残骸を見つめている。
黄金の瞳は、揺れない。
あの日、診察室で下された「絶望」を全部知っているみたいに――残酷なほど優しい静けさを湛えていた。
その時、無音の中で、メルミの呼吸だけが一回、聞こえた。
(つづく)




