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第4話:皇帝 ― 鋼の都市と座標の空 ― ③



その時、無音の中で、メルミの呼吸だけが一回、聞こえた。


「……慈悲? 反吐が出るわね」


駆動音が消えた、暴力みたいな静けさの中で。

メルミが低く笑った。鋼の支配を土足で踏みつけるみたいな嘲笑。彼女は前脚を一本、わざとらしく投げ出し、毛並みを整えるふりをする。――この瞬間に、その余裕。皇帝の「終わり」を、遊び半分で汚す仕草。


「鉄屑が、知った顔で『終わり』を説くなんて。計算が合わないから止めろ? 測れないから価値がない?」

「笑わせるんじゃないわよ」


声は鋭い。けれど叫ばない。

静かに刺す。静かに折る。


「ゆりが抱えてる『罪』の重さも、その『残響』がどれだけ血を焼いてるかも……」

「――あんたのその錆びた物差しじゃ、測れやしないわ」


ゆりえは、呼吸を忘れて立ち尽くしていた。

砂嵐ノイズの向こうで、メルミの言葉が鋼を殴っている。自分でさえ「汚い」と封じてきたものが、外側から叩き起こされる感覚。

メルミは振り返らない。半歩前の背中が、今はどんな大聖堂よりも頼もしい。


「いいこと、ゆり」

「たとえ最低の選択だったとしても――それが、なんだって言うの」

「生きてる人間が足掻いて出した答えを、計算式と一緒に捨てる連中に、あんたの未来(定規)を渡すんじゃないわよ」


――ドクン。


止まっていた心臓が、ゆりえの内側から跳ねた。

同時に、鼻を突く匂いが戻る。消毒液。白い部屋。冷たい金属。言い切れない言葉。砂嵐の奥で、何かが「■■」と欠けたまま、爪で引っかく。


(……そうだ)


視界の端。

皇帝が投げ捨てた「折れた鋼の定規」が、冷えた地面に転がっている。真っ二つ。歪み。もう尺度としては役に立たない。

――でも。役に立つかどうかで決めるのは、他人じゃない。


ゆりえは一歩、踏み出した。

赤い「×」の内側から、境界線を蹴り破るみたいに。


破片を拾い上げる。

断裂した断面が掌に食い込み、鋭い痛みが走った。滲んだ血が、冷え切った鋼を汚す。鉄の匂いと、生臭い匂いが混ざる。

痛みが、意識を現実へ引き戻した。


数字より確かな、自分の質感。


「……正解?」

ゆりえの声は掠れていた。

けれど言い切る。


「そんなの、あたしが決める」

「折れてたって、これがあたしの形なんだ」

「あんたの定規で測れないなら――あたしの血で、勝手に続きを描いてやる」


ゆりえは血の滲む手で、折れた定規をがま口へ叩き込んだ。

布地が、どろりとした手触りを伴って残骸を飲み込む。暗い口の奥で、金属が落ちる音だけが、薄く響いた。


銀色の「らっきょう」に指をかける。


パチン!


硬質な口金の音が、号砲みたいに鳴った。

その瞬間、腰にズシリと質量が加わる。背骨が軋むほどの重み。皇帝の論理を“取り込んだ”対価の重さ。

でも、その重さが――足を地面へ繋ぐ。逃げないための錘になって、前へ押す。


「行くわよ、ゆり!」

メルミが吠えた。

「止まったら、この鉄屑と一緒に埋め立てられるわよ!」


呼応するように、鋼の都市が絶鳴を上げた。

赤い「×」で塗り潰されたビル群が、心電図の途切れた線みたいに上空へ巻き上がる。光になって裂け、粉になって落ちる。

足元の地面さえ砂になり、崩れていく。


ゆりえは振り返らない。

折れた定規(罪の重み)を抱えたまま、消えゆく街の残骸を蹴って、光の無い方へ――メルミの黄金の背中だけを追って走った。


肺が焼ける。掌の傷が痛む。

それでも、立ち止まって自分を呪うより、この「間違い」をどこまでも突き通したい。熱い加速度が身体を前へ押す。


砂嵐を突き抜けた。

視界が爆発するみたいに開ける。


鋼の残骸が消えた先には、目も眩むほど乾いた荒野。

その地平線の果て。月光を浴びて青白く、内側から発光しているみたいに輝く巨大な「硝子の聖堂」。


同時に、音が殴りつけてきた。


――歌。


狂信的な熱。一分の隙もない多声合唱。全員が同じひとつの「終わり」だけを見つめる声。

耳から入るんじゃない。肌の毛穴を熱い針で刺して、内側へ染みてくる。


「……なに、これ……」

ゆりえは走りながら、吐き気みたいな恐怖を飲み込んだ。

「みんな、笑ってるの……?」


聖堂から溢れ出すのは、皇帝の冷たさとは逆の、命をとろかす「救済」の熱。そこへ突っ込む足取りが、死へ急ぐ羽虫みたいに思えて、ゆりえはがま口を強く握った。


「ねえ、メルミ! この歌……怖いよ!」

「どこまで行けばいいの!? 止まったら、この歌に食べられちゃう!」


叫ぶゆりえに、メルミが首だけで振り返り、不敵に笑う。

狂乱の光を飲み込んでなお、相棒を嘲弄するような冷静さ。


「……結構」

「なら、見失わないことね」


その声は、熱い讃美歌を切り裂いて、ゆりえの鼓膜に刺さった。


「あの歌声は最高級の麻酔よ。うっとり聴き惚れてごらんなさい」

「目が覚めた時には、あんたは『愛』っていう名の引き金を引いた、立派な殺人犯セレブリティだわ」


メルミはさらに速度を上げ、硝子の光へ突っ込む。

背後にはもう、鋼の都市の影ひとつ残っていない。あるのは、狂乱の旋律が天を衝く聖堂へ続く――逃げ場のない一本道だけ。


ゆりえは、恐怖さえ燃料にして笑った。

声にならない笑い。喉の奥が熱い。


「……上等だよ」

「殺人犯にでも、何にでもなってやる!」


二人の「間違いだらけの行軍」は、絶望さえも疾走の力に変えて、光り輝く狂気の聖堂へ突入していく。


(第4話・完)



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